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高尾山ノスタルジア No.21:高尾陣馬山塊

多くの方は「高尾山」と言うとき、それは高尾山口を起点とし、高尾山頂とそれに至る登山道の総称というイメージを抱いていると思います。ですが、これは高尾陣馬山塊の小さな一部に過ぎません。そしてその高尾陣馬山塊でさえも、広大な関東山地の一部に過ぎません。関東山地は関東平野の西部、群馬埼玉東京神奈川長野山梨1都5県にまたがり、関東地方と中部地方を分つ山脈。その長大な、連嶺重畳たる山脈には、深田久弥「日本百名山」に数えられる瑞牆山みずがきやま金峰山きんぷさん甲武信こぶしヶ岳、大菩薩嶺だいぼさつれいならびに雲取山くもとりやまが連なり、その端部は奥多摩三頭山を起点とする笹尾根から陣馬山を経て、その末端である高尾山へとつながります。このように地図の縮尺をズームアウトして視点を高くすると、高尾山が属する関東山地の成り立ちが徐々に見えてきます。

糸魚川–静岡構造線がフォッサマグナの西端であることは定説となっていますが、その東端については諸説あり確定していません。現在有力とされているのが柏崎–千葉構造線ですが、それを前提とすると、関東山地は大陸から切り離された陸地の沈み込みから生じたフォッサマグナの真ん中で取り残されたかつての大陸の一部ということになります。(注1)

大陸の一部だった日本列島は地殻変動により大陸から切り離され、そのあと西南日本と東北日本に割れることで、フォッサマグナ(大地溝帯)が形成されます。地学的な研究によると、この際、割れた本州の一部がフォッサマグナの中に取り残されます。その後、この大陸の片割れが中に残ったまま、フォッサマグナは埋められます。さらにその後の地殻活動で西南日本と東北日本が接近し、フォッサマグナは圧縮されます。また、南部フォッサマグナへは伊豆-小笠原弧が衝突。これらの圧力により、この大陸由来の地質帯(フォッサマグナの堆積物とは異質の地質帯)が隆起したのが、関東山地とされています(*1)。そして、その関東山地の南東の端に位置する高尾陣馬山塊がどのように形成されたのかは、「高尾山ノスタルジア No.20 : 高尾山はどこからきたのか」で述べました。

深田久弥「日本百名山」から引きます。原文縦書き。

「登山者によって奥秩父と称せられている、小川山から東に向かって雲取山まで続く連嶺れんれいは、その延長とか高度から言って、わが国で日本アルプスと八ヶ岳連峰を除けば、他に例を見ない大山脈である。ことにその中の甲信国境をなす金峰きんぷ山から甲武信こぶし岳までは二千五百メートルの高度を保ち、甲武信以東も二千米を失わず、破風はふ山、大洞おおぼら山などの甲武境を走って、その最後の雄を誇っているのが雲取山である。」
(深田久弥「日本百名山」 66. 雲取山)

高尾山だけを見るならば、それは標高599mの低山に過ぎません。しかし話には続きがあって、その先の陣馬山、そしてそこから連なる笹尾根から三頭山さらにその先の石尾根を伝って雲取山へ至り、さらにその先甲武信ヶ岳を擁する奥秩父へ、そしてまたさらに…というのが、私を含めた登山を愛してやまない人間が知っている高尾山のまことの姿と物語であり、その目に見えている情景であり、憧憬しょうけいなのです。

高尾陣馬エリア広域図。高尾山エリアは、高尾陣馬山塊の小さな一部に過ぎない。(注1)

高尾陣馬山塊には多数の登山道がありますが、守屋益男・守屋二郎「高尾山・景信山・陣馬山登山詳細図」には、全部で82の登山道が識別されています。その中で、高尾陣馬山塊の基幹ルートとなるのは、以下の四つです。
・高尾陣馬主稜線(高尾陣馬縦走コース)
・北高尾山稜コース
・東高尾山稜コース
・南高尾山稜コース

高尾陣馬山塊を理解するためには、少なくともこれらの基幹コースをすべて踏破しなければなりません。

高尾陣馬エリアの主幹ルートと写真撮影方向(注1)

高尾陣馬主稜線(高尾陣馬縦走コース)
上述の四つの基幹ルートのなかでは一番登山者が多く、高尾陣馬山塊の核心的な峰々である高尾山、(小仏)城山、景信山そして陣馬山をつなぐ縦走路です。これらの山頂は特に都心方面の眺望に優れ、また、陣馬山からは360°のパノラマビュー、そして、全てから富士山の遠景を望むことができます。明治維新までは、高尾山から小仏峠に至る登山道は旧甲州街道に設置されていた小仏関の関所破りの道となることから、通行が著しく制限されていました。ですが、維新後関所は廃止され通行は自由となり、その後このルートを含む高尾陣馬主稜線は整備されて、遅くとも昭和初期には、「奥高尾縦走路」として東京府が管理していたことが戦前の絵葉書の写真から確認できます。

写真①:(小仏)城山山頂から、都心方面の眺望。
写真②:景信山山頂から、都心方面の眺望。
写真③:同じく景信山山頂から、(小仏)城山そして高尾山へと連なる尾根の眺望。頂上にNTTのアンテナ塔が見えるのが城山。そこから左に尾根を辿り次のピークが高尾山。写真の右奥に見える正三角形のいただきは大山です。
写真④:戦前昭和初期のものと推定される絵葉書に残る写真。ひとつ上の写真と同様の構図。城山から高尾山へと連なる峰々は、今と全く変わりません。(注2)
写真⑤:戦前昭和初期のころと推定される絵葉書に残る写真。陣馬山から、高尾山方面の眺望。東京府により「奥高尾縦走路」の標柱が建てられており、この時には東京府の管理で奥高尾縦走路(現在の高尾陣場主稜線)が整備されていたことがわかります。(注2)
写真⑥:戦前昭和初期のころと推定される絵葉書に残る、陣馬山から都心方面の眺望。この時代の関東平野の様子が写る貴重な写真です。今は地平線あたりに都心の高層ビル群が見えますが、もちろんこの写真には何も写っていません。都心より手前の平野にも、人工的な開発の気配がありません。極めて牧歌的な風景です。(注2)
写真⑦:ひとつ前の写真と同様のアングルで撮影した、陣馬山山頂からの都心方面の遠景。この日は霞が強く都心の高層ビル群は写っていませんが、昭和初期と比べればその後の開発は明らかです。
写真⑧:同じく陣馬山山頂から、埼玉方面の遠景。

北高尾山稜コース
旧甲州街道の小仏関所跡から中央高速道路の高架をくぐって地蔵平へとあがり、そこから堂所山まで北の尾根を縦走するコースです。アップダウンを繰り返すため、比較的体力を要します。途中富士見台からは天気が良ければ高尾陣馬主稜線越しの富士山を望むことができます。また、富士見台からは高尾陣馬山塊のもうひとつの城山、八王子城山へと至るルートの分岐があります。八王子城は関東屈指の山城。小田原北条氏の三代目である氏康の三男、北条氏照による築城とされ、天正18年(1590年)6月23日、豊臣秀吉の関東制圧の一環で前田利家・上杉景勝軍の攻撃を受け、壮絶な戦闘の末落城したとされます(*2)。

東高尾山稜コース
高尾山口駅から甲州街道を渡って住宅街に入り、民家の間の細い道を伝って四辻よつじに至るか、高尾駅から浅川中学校に至る途中右手から始まる金毘羅尾根(金毘羅台)から入山するルートがあります。もう片方の起点である草戸山まで、アップダウンは比較的緩やかで歩きやすく、南高尾山稜コースとつなげるコースは山を歩き慣れたハイカーの間でひそかな人気があります。

南高尾山稜コース
草戸山から大垂水峠に至るコース。大部分が南向きの斜面に取り付けられているため明るく、植生が豊かで山を歩き慣れているハイカーに人気のコースです。また、大垂水峠からは(小仏)城山に至るコースがあり、このコースも植生の豊かさから人気があります。大垂水峠からは、高尾山へ登ることも可能。

写真⑨:南高尾山稜見晴から、富士山方面の遠景。
写真⑩:同じく南高尾山稜見晴から、津久井湖方面。南高尾山陵は南向きの斜面に道が取り付けられ、植生が豊かな山道です。
写真⑪:戦前昭和期のものと推定される絵葉書の写真より。峯ノ薬師から、現在の城山ダムを写した貴重な写真。当時はもちろんダムはなく、相模川の雄大な流れそのままが写っています。写真の添え書きには以下のとおりあります(表示できない文字は現代文字に置き換え)。「–悠遠–岳麗の水をあつめて、蜓々三十里、湘南の海に注ぐもの、上流を桂川、中流を相模川、下流を馬入川と稱する。悠々たるもの、曲がれるだけ曲がり、淀めるだけ淀んで、浮世を知らぬかの、あの流れ、この羨ましい流れのまゝを、飽かず眺めくれる「南高尾縦走路」は、まことにこよなきハイキングコースと言ふべきであらう。」つまり、遅くとも戦前昭和期までには、南高尾縦走路はハイキングコースとして整備されていたことの証左です。(注2)

(注1)
《国土地理院コンテンツ利用規約に基づく表示》

出典:国土地理院ウェブサイト(地理院地図:電子国土Web)
地点領域の強調ならびに登山道と構造線の描線は筆者加筆

(注2)
《写真ならびに絵図に関する著作権について》
表示している写真ならびに絵図は、旧著作権法(明治32年法律第39号)及び著作権法(昭和45年5月6日法律第48号)に基づき著作権が消滅していると判断し掲載しているものです。
掲載している写真絵葉書は、全て著者が個人で所有しているものです。
本稿掲載の著作物の使用ならびに転用の一切を禁じます。
参考資料:文化庁 著作物等の保護期間の延長に関するQ&A

【参考資料】

(*1)
フォッサマグナミュージアム
「フォッサマグナとは」

(*2)
八王子市公式HP 歴史・文化財 文化財関連施設 八王子城跡


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