呉を歩いてクレ(;゚ロ゚)
一番見たかったクレーンをたくさん見たことだし、ついでにフネの写真も撮って行こうか・・・。
(明らかに、普通の観光客とは真逆の思考ですな・・・)
『歴史の見える丘』から、造船所沿いの道をブラブラ歩いて行く。
しばらくすると、目の前に『昭和埠頭』が目に入る。
ここからは道沿いに海上自衛隊・米陸軍の施設が続いていく。
もう少し歩くと『アレイからすこじま』に到着する。
『歴史の見える丘』から歩いて15分程度か・・・。
休日の朝8時前だけど、すでに観光客とおぼしき人たちが数人いた。
それに、自衛艦の家族・友人なのだろうか・・・。
そんな雰囲気の人々も見られた。
しばらく眺めていると、メッチャ煙りクサくなってきた。
いろんな仕事があるけれど、潜水艦乗りはとても自分には出来ない。
数ヶ月も日の当たらない海中で、とても狭い空間のなかで常に同じ面子と顔を合わせて生活し続けるのは、到底並みの人間には務まらない。
国のためにこんな仕事を続けておられる自衛官の方々には、本当に頭が上がらない思いです。
自衛艦をもっとよく見たいのなら、『呉湾艦船めぐり』という30分のクルージングが最適だ。
繰り返すが、今回はクレーンを見に来ただけなので、これには参加していない。
でも、本当に間近で目にする自衛艦は大迫力かつ、一般の商船と全く違うスマートでシャープな艦容に見惚れること請け合いです。
『アレイからすこじま』には昔使用されていたクレーンも保存されている。やっぱ、行堂といえばクレーンですね😑
ひとしきり、潜水艦や行き交う自衛官の方々を眺めてから、再びもと来た道を歩いて戻ることにする。この時点でまだ、朝の8時半過ぎ。
ふたたび『歴史の見える丘』にたどり着き、ここで一息つく。
そのまま『大和ミュージアム』脇の駐車場まで戻って帰るつもりだったが、何を思ったか、呉総監部前から伸びる『青山通り』沿いを歩くことに。
『青山通り』沿いには『呉市民広場』が広がる。
ほとんど人の姿は見られなかったが、ソフトボールのピッチング練習をしている一組が見られた。
呉は、ソフトボールが盛んな街でもある。
呉市民広場の北に『入船山記念館』がある。
もともと訪れる予定は無かったが、ちょうど開館時間の9時になっていたので、ついでに入館することに。10年以上ぶりの訪問だ。
現・呉総監部の前身ともいえる、旧海軍呉鎮守府の司令長官官舎として供されていたもの。
紆余曲折の末、現在は記念館として保存されている。
内部も見学でき、美しい内装を今に伝えてくれている。
出発地点の『大和ミュージアム』まで帰り着いたのは10時前だった。
このクルーズ船が出航する中央桟橋からは、たいてい建造中の巨大コンテナ船を見ることができる。
この造船所は、やっぱり超巨大なフネを得意としています。
昔からの伝統ですね。
もうちょっと、観察してみましょうか。
ザックリ10階建てになっていますね。
普通の貨物船やタンカーでも4~6階建てなので、桁外れに背が高いことが分かります。
この『セルガイド』、要チェック😈
積み込んだコンテナ同士がずれないように固定するための極めて重要な構造で、これを製作し、組んで行くには高い組立・溶接精度が求められる。
すなわち、どこの造船所でもコンテナ船は建造できないのだ。
煙突の大きさも桁外れ(--;)
こんな世界経済に大変貢献してくれているコンテナ船の目の前を、フェリーが絶え間なく行き交っている。
呉は、海上交通の要でもある。
コンテナ船の前で石崎汽船の『旭洋丸』が入港し、港めぐりのクルーズ船が出航していく。
そんなこんなで『旭洋丸』、入港したかと思えば、あっという間に松山観光港に向けて出航していく。
『旭洋丸』と入れ替わるように、江田島からのフェリーも入ってくる。
江田島からのフェリーが入ってきたかと思えば、更に別のフェリーもやって来た。
いっとき話題になった、瀬戸内海汽船の『シーパセオ01』ですね。
『旭洋丸』とは逆に、彼女は松山観光港からやって来た。
彼女もあっという間に終着の広島港に向けて出港していく。
公共交通機関を用いて広島から呉に行くには、JR呉線と『クレアライン』という高速バスがメジャー。
でも、時間帯によってはフェリーや高速船の方がよっぽど早く便利が良いと思う。
呉市は県下第三位の人口を誇るが、地味に交通の便が悪い街でもある。
呉駅前も寂れているし・・・。
『大和ミュージアム』の横にある中央桟橋のほうが、よほど活気に満ち溢れている感がある。
気がつくと、もう11時前。
だいぶ暑くなってきた・・・。
最後に駐車場の脇に昨年から展示されている旧呉工廠で使用されていた、ドイツ製大型旋盤を見る。
これは、建造中の戦艦『大和』の主砲砲身に穴を削るため、ドイツから輸入されたもの。
世界最大の戦艦『大和』を設計し建造したこと自体は、造船技術史上評価されるべきだろう。
しかし、巨大な戦艦を建造できる一方で、その基盤となる小さな工作機械を開発・製作する技術は、輸入に頼る他なかった。
それだけ、当時の日本における工業技術力は、まだまだアンバランスだったということだろう。
もちろん、今でも日本が海外に後れを取っている分野は数多くある。
「日本は素晴らしい!」「クールジャパン」
で喜んでいる場合ではない。
今現在も、そして、これからも永遠に、
「より良い、優れたものは無いか?」と海外に探し求め、かつ学び続けなければならない。
もっとも・・・、
そう言うワタシは、全く英語が喋れません(説得力皆無やな😒)。
のんびり国道2号線を走り、帰宅したのが午後1時過ぎ。
ちょうど良い半日あまりのドライブになった。
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