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こころの成熟と文章のはなし

歴史について調べて書く仕事をいただいた時に、複数あるテーマの中に「言文一致体」があった。

曲がりなりにも大学生時代に国文学研究室に所属していたのだけど、「もともと漫画好きだし」というほのかな動機しかなく。卒論も「枕草子」で書いたものの、参考にしたのが橋本治さん著「桃尻語訳の枕草子」という。同年代で研究を続けた人は、それなりの大学の助教とかになっているはずの世界線で、片隅で文学史を開く自分がこっぱずかしい気持ちになる。

言文一致体というと二葉亭四迷と浮雲というキーワードしか思い浮かばず、とりあえず何も書けないため、地元図書館をウロウロしてドナルド・キーン著「日本文学の歴史」を借りて、橋本治著「失われた近代を求めて」と加藤周一著「日本文学史序説」を別の図書館から取り寄せ、該当する箇所だけ必死に読むことになる。

そしたら、「言文一致は表現だけの話じゃない」ということが身に染みた。



文字だけ中国から借りて漢字で日本語を表記した「古事記」、中国語の漢文で表記した「日本書紀」の時代から日本語は二系統の流れがあって、もっぱら上流知識層は漢文、その支流みたいな感じで「漢字を文字として使った日本語表記」があったと(多分)。

仮名表記や漢字仮名混じり文で表記される日本語は、平安時代末期に成立したであろう「今でいう古文」のまま明治期まで爆進してしまう。もう誰も口語体ではそんな話し方はしないのに、文章では「なり」「けり」「そうろう」が乱立し、ある程度の知識がなければ読めないし書けないが、ある程度知識があれば割と書きやすいスタイルが続く。

さらに江戸時代の長い鎖国が海外からの刺激をシャットアウト。

固定化された文語で綴られる物語はどん詰まりな状況に陥る。江戸時代は寺子屋のおかげで識字率が格段にアップした時代だけれど、絶大な人気を誇る歌舞伎の戯曲は「大衆文化」であり、知識層からは下に見られていた。主流はいつだって漢文であり、物語は下賤なものだと。



流れが変わるのは明治維新後、海外の小説が翻訳されるようになってから。

海外では知識階級が小説を書き、それを流布することで自らの考えを啓蒙するスタイルが一般的に行われていて、それを知った日本の偉い人たちが「え!マジで!」と驚く。そして、真似してまずは政治小説を書き始める。政治的議論を交えた物語は、今その設定を見るととてもシンプルだし、読み物としての面白さは正直どうなのと感じるけれど、それでも画期的だった。

武士の生まれだけど生来戯曲好きの坪内逍遥が、政治小説を呼んで刺激を受け、さらにアメリカ出身の教授から美術の薫陶を受け、「小説はそれ自体が崇高な美術だ」と言い放ったのが「小説神髄」。

その「小説神髄」に影響され、5年間ロシア文学を学んだ経験を生かし、初めて言文一致体に挑戦したのが二葉亭四迷の「浮雲」。

でもこれらは山の頂上からちょろちょろっと水が湧き出した程度の動きであり、ここから一気に言文一致体は進まない。「浮雲」が登場してから、世の中が「口語で書こう!」と一般的になるまでに20年くらいかかっている。

この間に硯友社が出てきて尾崎紅葉が金色夜叉を書き、その弟子の泉鏡花が登場し、国木田独歩とか田山花袋とかいろんな人がそれぞれ活動をして、文語で書いたり口語で書いたりする。

で、明治40年近くなって、徐々に、だんだん、少しずつ口語が一般的になっていく。でも、まだ、どこか「ひらがなの中にハが出てくる」とか、古文を思わせる何かがあって、その変化は少しずつなんだと思う。



橋本治さんの著作に「明治時代の小説の中で、現代人が唯一問題なく読めるのが『坊っちゃん』だ」と書かれていた。

夏目漱石は、上記の「海外の小説を学び、日本語で自分の思っていることを書いてみる」という明治以降の一連の流れを、個人単位ですべて経験していた。

子どもの頃から本が好きで、戯曲その他はあらかた読んで、日本語はもう勉強しなくてもわかるから英語を専攻したところから人生がスタート。でも英文学を学び、イギリス留学を経て知ったのは「海外はとんでもない、日本って素晴らしい」という概念。

そして彼が言ったのは、「巨大な権力にひれ伏して団結するのではなく、個人がそれぞれ勉強し、自分を磨くことで、自然と国家は強くなる」ということ。

(ただ漱石が生きた時代は日清戦争、日露戦争を経て世の中は軍国主義まっしぐらで、彼の主張とは真逆に進む)

その彼が、明治38年に俳句雑誌「ホトトギス」に連載を開始したのが処女作「吾輩は猫である」。

その次に書いたのが「坊っちゃん」。

ここから、「現代人でもそのまま読める」言文一致体が新たに始まるということらしい。



あちこちで散見したのは「言文一致とは、ただ話し言葉通りに文章で書く」という単純な話ではないということ。

日本語の話し言葉はとても難しく、当事者ごとに一人称は変わり、話す相手によって尊敬語とか丁寧語が登場し、句読点もどこでどう使うかもまだ何もなかった頃、「話すままに文章を組み立てる」ことの困難さが当時の小説から見て取れる。

文語はむしろ、それを考えなくてもいい一定のルールがあって、ある意味では簡単だったのだと。

話すままに書くには、大前提として「思考が成熟していなければいけない」というハードルがあって、それを行うにはどうしても他人と自分の対比を行い、自分を客観視しながら、私はどう思っているのかの内省を繰り返す必要があった。

長く鎖国を続けた日本はその「自分たちの客観視」をずっとできないで生きていて、だからこそ古文は古文のままだった。海外文化の流入を経て、他者と自分の違いがわかり、その概念が末端まで浸透して初めて「個」の陰影が浮き上がってきた。

その「個」が確立されて初めての「言文一致」である。

そこまで思い至ったら、「夏目漱石をほとんど読んでいないことが、やばい」という結論に至る。

(教科書で絶対勉強する「こころ」は文庫で読み、「坊っちゃん」を親戚のおばちゃんからもらった全集で読んだくらいの寂しい読書歴)

この世は、どれだけ探っても知らないことにまみれている。

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