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環流夢譚――「ほんとうの仏教」という神話 その3


 顕彰や擁護は、歴史のプロセスのもっている革命的な契機を隠蔽しようと努める。顕彰や擁護が関心をもつのは、歴史の連続性を作り出すことである。そこで価値を認められるのは、作品の要素の中ですでに後代への影響史の中に組みこまれてしまった要素だけである。顕彰や擁護からぬけ落ちるのは、そこで伝統が途切れ、伝統を乗り越えようとする者に手掛かりを与えてくれるぎざぎざの切断面がひらける場所である。

ヴァルター・ベンヤミン/今村仁司ほか訳『パサージュ論3』[N9a,5]岩波文庫、2021年、p243





「合理的」で、「初期仏教」に忠実な上座部仏教?

 前回に引き続き、「ほんとうの”仏教」という観念に含まれている問題点について見ていきたいと思います。巷で時折見かける仏教観に、次のようなものがあります。

〇釈迦が説いた元々の教えは、「非合理的」な呪術や儀礼などを説かない「合理的」で「論理的」で「科学的」なものだった。宗教というよりも生き方の哲学だった。“ほんとうの”仏教は宗教ではなく哲学である。

 このような見解は往々にして、「テーラワーダ仏教(上座部仏教)は初期仏教であり、この『合理的』な方向性を忠実に継承している」とか、「大乗仏教は本来の”仏教になかった呪術や儀礼を含んでおり、習俗と合体して本来の”仏教から逸脱し、堕落してしまった仏教だ」といったような仏教観とセットで主張されています。このような仏教観についても検討してみましょう。

 そもそも、この種の見解で言われる「合理的」とか「論理的」とか「科学的」といったことばが一体何を意味しているのかが大いに疑問ですが、それはいったん置いておきましょう。ともかく上座部仏教圏では、日本仏教をはじめとする大乗仏教とは異なる「合理的」な仏教が行われている、といったようなイメージが今でも一部にあるようです。

 この問題について検討するために、ひとまず現在の上座部仏教圏に伝わるパーリ仏典を見ておきましょう。パーリ経蔵には、バラモン教の儀礼や呪術を否定することばが随所に見られることは確かです。例えば、第28回で述べたように、パーリ長部の『沙門果経』では、火を使った護摩や占いや明呪などが否定されています。

 しかしパーリ仏典では、あらゆる呪文が禁止されているわけではありません。護身のために用いるパリッタ(paritta)と呼ばれる呪文を唱えることは許されています。例えば、パーリ律には、蘊護呪(khandhaparitta)という呪文が出てきます。これは毒蛇から身を守るための呪文で、蛇を含むすべての衆生に慈悲を示し、その慈悲によって毒蛇にかまれることを防止しようとするものです。

 また、いわゆる「初期経典」よりも成立が新しいとされる『ミリンダ王の問い』(第3回で紹介しました)には、ラタナ・スッタ(宝経)・カンダ・パリッタ(蘊護呪)・モーラ・パリッタ(孔雀護呪)・ダジャッガ・パッリタ(幢首護呪)・アーターナーティヤ・パリッタ(阿吒曩胝護呪)・アングリマーラ・パリッタ(鴦掘摩護呪)など、いろんな種類のパリッタが登場します。これらのパリッタには、病気を鎮めたり災難を防いだり盗賊に襲われるのを防いだりといった様々な効果があると説かれています。

 ですので現在の上座部仏教圏では、パーリ仏典に基づいて、パリッタを用いる儀礼が非常に盛んに行われています。誕生日や結婚式や家の新築や葬式といった人生の節目でパリッタは唱えられていますし、戦場に赴く軍人の無事を祈ったり、会社などの組織の安泰を祈る際にも唱えられます。パリッタの読誦は、現在の上座部仏教圏で欠かせない宗教的な行為となっており、機能の面で密教の真言に近い役割を果たしています。私はいんたあねっとで、「上座部仏教は呪術を否定している」と主張する人を何人も見たことがありますが、それは誤りです。

 もう一例あげましょう。上座部仏教圏のタイでは、僧侶が信者の身体にタトゥーを刻むということが行われています。これをサクヤンと言います。彫ってもらうと怪我をしないで済んだり、戦闘で銃弾に当たらずに済むという信仰も存在しており、警察官や軍人をはじめとする人々がサクヤンを入れる文化があります。

 ちなみに、私の手元にある本にはこんな指摘があります。

 タイの仏教界では、どうしても超能力があるとされる比丘に人気が集中する傾向がある。アーチャン・チャーの著書の中にも、彼のもとに宝くじの当選番号を教えてもらいにやってくる村人たちが後を絶たないというエピソードが紹介されているし、高僧によって制作されたプラ・クルアン(タイに伝わるお守り)は高額で取引をされているのが現状だ。

星飛雄馬『60分でわかる! 仏教書ガイド』Evolving、2017年、位置: 593

 ついでに申しあげると、私は「上座部仏教圏では僧侶は葬式に関与しない」と言う人も何人も見たことがありますが、これも誤りです。例えば、スリランカでは葬儀に僧侶が関与しますし、パリッタ(スリランカではピリットと呼ばれています)を唱える儀礼も行われます。文化人類学者の鈴木正崇(1949-)は、その様子を次のように紹介しています。

 葬式は、式を取り仕切る僧侶が、三帰依文と五戒を唱えることから始まり、全員がこれに唱和して、次の言葉を三回繰り返す。
 Imaṃ matakavattaṃ bihkkusaṅghassa demi
 この死者の布を僧侶のサンガ(僧伽)に差し上げます。
唱え終わると、白布が棺の上に敷きのべられ、
 Aniccā vata saṃkhāra uppāda vaya dhammino. Uppajjitvā nirujjhanti, tesaṃ vūpasamo sukho.
 諸行無常、是生滅法、消滅滅已、寂滅為楽。
と、パーリ語のガーター(偈)が唱和される。

鈴木正崇『スリランカの宗教と社会――文化人類学的考察』春秋社、1996年、p.330

 死後に行われる儀礼は、マタカ・ダーナ(mataka dāna)、死者への追悼(マタカ)の布施として知られる追善供養である。故人が生前に深いつながりを持った寺院の僧侶が中心になるので、葬式を執行した者とほぼ同じメンバーの僧侶が関与することになる。マタカ・ダーナは、七日目、三ヶ月目、一年目には必ず行うことになっており、出来れば毎年の祥月命日にも僧侶を招いて法要を営む。特に七日目のマタカ・ダーナは大切で、どんなに貧しくとも、この行事は必ず執行する。もしこれを怠ると、死者が浮かばれず、様々の祟りをなすという信仰がある。

同前、pp.334-335

 特に重要なのは三ヶ月目の供養です。ここでは多くの親類縁者や地域の人々が招かれ、僧侶が徹夜でピリット儀礼を行う盛大な催事が営まれます。なお、死後一年目の供養の後も、死者に対する儀礼は追善供養という形で、資産力に応じて継続されていきます。この点は、日本でも葬儀の後に、四十九日・一周忌・三回忌・七回忌という具合に法要が続いていくのと似たようなものです。

 さらに言うとスリランカ仏教には、神々に祈り、供物を捧げて願いをかなえてもらおうとする文化があります。神々は、病気の治療や商売繁盛といった現世利益をもたらしてくれる存在として、仏教徒に信仰されています。これらの神々は仏教寺院に併設されているデーワーレと呼ばれる神殿に祀られていることが多いです。人々は仏教寺院で仏に参拝するだけでなく、併設されているデーワーレにも行きます。デーワーレにはカプラーラ(kapurāḷa)と呼ばれる専属の職能者がいます。kapurāḷaというのは、原義としては「あいだをつなぐ者」を意味することばで、神と人を媒介する者です。カプラーラは僧侶とは異なり妻帯しますし、髪も剃っていません。デーワーレを訪れた人々は、カプラーラを通じて神々に願いをかなえてもらおうとするわけです。

 そこにデーワーレに祀られている神々は様々で、ヴィシュヌ神やカタラガマ神といったヒンドゥー教の神様も祀られています。これは余談ですが、第二次大戦後には、都市部の仏教徒のあいだでカーリーが崇拝されるようになり、その地位が急激に上昇するという現象が起こりました[ゴンブリッチ・オベーセーカラ 2002]。カーリーはヒンドゥー教の女神で、血と殺戮を好む獰猛な女神です。スリランカでは、仏教徒によってヒンドゥー教の神々が篤く信仰されてきたのです。

カーリー

 また、スリランカ仏教には、死霊や悪霊にまつわる信仰もあり、悪霊は人間を不幸に陥れたり、病気にさせたりすると信じられています。悪霊によって病気や不幸に陥った場合には、悪霊祓い師に頼んでトウィルという儀式を行ってもらうことで、悪霊をはらうという文化があります。この悪霊祓いの儀式は、占星術や仏教儀式を行うベラワーと呼ばれる特殊なカーストが中心になって執行してきました。もっとも、トウィルは近年はあまり見られなくなっているようです(ちなみに、スリランカには民間の占星術師や占い師が数多く存在しており、時には僧侶が占いに関わることもあります)。

 ここで、こう思った方もおられるかもしれません。「ちょっと待ってくれ。スリランカからやってきた上座部仏教の長老が、『仏教は宗教ではない』『仏教は心の科学である』『釈迦の教えは、神に対する信仰を説かない合理的なものだ』『上座部仏教では、釈迦の本来の教えが行われている』と説いているのをおれは見たことがあるぞ」と。

 確かに、スリランカから日本にやってきて教えを説いている長老のなかには、そのように主張する人もいます。それを聞いて、「上座部仏教圏では、釈迦の“本来の”教えに近い『科学的』な仏教が行われている」というイメージを持つ人がいるのも無理もないことです。しかし、スリランカやタイやビルマなどで実際に見られる仏教には、神々への信仰や呪術や儀式や習俗といった要素が含まれていますし、その点については日本仏教と変わりません。そういったイメージは、明らかに事実と異なると言わざるをえません。

 なにゆえ、スリランカやタイやビルマなどに実際に存在している仏教は、日本(の一部)で語られている上座部仏教のイメージから大きくかけ離れているのでしょうか。「上座部仏教は『合理的』であり『論理的』であり『科学的』である」という、日本(の一部)で時折見られる語り口は、一体どこからきたのでしょうか。

 私が本稿でお話ししたいのは、まさにこの問題です。前回及び前々回は、この問題についてお話しするうえで、どうしても必要な長い長い前フリだったのです。実はこのような語り口の背景には、19世紀以降に起った上座部仏教の変容があります。特にスリランカ仏教は、19世紀後半以降に、大きな変容を経験することになりました。結論から言うと、日本(の一部)で流通している上座部仏教のイメージは、この上座部仏教の大きな変容と絡んだ現象なのです。19世紀のスリランカで起こった仏教の変容については、後ほど詳しく見ることにします。


思想や瞑想を偏重する仏教観の問題点

 さて、上座部仏教圏に伝わっているパーリ仏典では、四諦や八正道や無常や縁起や無記や戒定慧といった教義が説かれていますし、無明や渇愛を滅ぼして涅槃に至る道が説かれています。しかし、そういった仏典で説かれる教義だけが仏教のすべてではありません。上座部仏教圏で見られるパリッタやサクヤンやヒンドゥー教の神々への信仰や悪霊祓いや占星術といった要素も、間違いなく上座部仏教の一部です。上座部仏教も日本仏教も、仏典で説かれる教義だけで成り立っているものではなく、呪術や習俗や神々への信仰などの要素も含み込んだものだという点では同じです。これは、仏教が広まっているアジアのどの地域を見ても同じことです。アジアのどの地域でも、およそ2500年に及ぶ仏教史において、呪術や習俗や民間信仰などを含まない仏教が定着したことはありません。「上座部仏教圏では、日本をはじめとする大乗仏教と違って、呪術や儀礼や習俗と無縁な仏教が行われている」などというとんでもないイメージが一部にあるようですが、それが事実と異なることは明らかだと言わざるをえません。

「“本来の”仏教は宗教というよりも生き方の哲学である」とか「その路線から逸脱して、呪術を行ったり習俗と合体したりしている仏教は堕落したものだ」といった見方は、私の非常に狭い観測範囲でも時折見かけます。しかし、仏教史をふりかえっても、実際に観察される仏教が呪術や儀式や習俗とは無縁な「生き方の哲学」だったことはありません。我々が仏教と呼ぶ現象は、アジアのどの地域でも、哲学的側面も宗教的側面も呪術的側面も含んだものであり続けてきました。現代人(の一部)の目からすれば「迷信」に見える呪術や儀式や習俗といった要素を切り落とした「生き方の哲学」こそが、“ほんとうの”仏教だと言えるだけの根拠が特に存在するわけではありません。そもそも、神々への信仰や呪術や儀式や習俗といった仏教文化から、仏教哲学を切り離すことは可能なのでしょうか。それが可能かどうかも、自明なことではありません。

 縁起や無常や無我や無記といったニカーヤで説かれる教えや、大乗の中観思想や唯識思想は、間違いなく仏教の一部です。そういう仏教思想を学ぶ人々や、「覚り」を求めて瞑想修行を行う人々が昔から存在し続けてきたことも間違いありません。しかし、仏教思想や瞑想修行といった要素はあくまでも、「仏教」と総称される複雑極まる現象の一部です。それらの要素が仏教のすべてだとは到底言えません。

 そもそも、約2500年に及ぶ仏教史において、仏教に関わってきた人々の大多数は、縁起や無我や無記や空といった思想を学んで生きる指針にしてきたわけでもなければ、「覚り」を求めて瞑想修行を行ってきたわけでもありません。彼らは仏や神々を篤く信仰したり、商売繁盛とか病気の治癒とか厄除けとか災害の防止とか来世で良いところに転生するといった現世利益を願ったり、死者供養を行なったりしてきたのです。「そのような神仏への信仰や現世利益の追求は、“ほんとうの”仏教から外れた不純なものであり、『覚り』を目指すことこそが“ほんとうの”仏教だ」などという単純な仏教観に飛びつくわけにはいきません。なぜなら仏教は、儀式や呪術なども含めた広い意味での仏教の実践に携わったり、仏や神を信仰したりしてきた無数の人々を離れては存在してこなかったからです。

 無数の人々が敬虔な信仰を抱いたり、現世利益を求めたりしてきたことを過小評価したり、“ほんとうの”仏教ではないと決めつけて切り捨てたり無視したりしたら、実際に存在する仏教のことを何も理解できないでしょう。「我々は昔の『迷信深い』人々にはわからなかった“ほんとうの”仏教を理解しているのだ」とか、「アジア全域で仏や神を信仰したり現世利益を願ってきたり人々は、“ほんとうの”仏教を理解することなく『迷信』になずんでいたのだ」などと主張することは、近現代人の驕り以外の何ものでもありません。

 そもそも、「仏教徒というのは『覚り』を求める人々だ」という見方は固定観念にすぎないのではないかと私は思っています。「何を言ってるんだ。仏典を読めば、『覚り』を得ることが仏教徒の目標だとされていることは明らかじゃないか」と思う方もおられるかもしれません。しかし、仏や神に敬虔な信仰を抱いたり、儀式や祭りや呪術に携わったり、現世利益を願ったりして仏教に関わった大多数の人々は、「覚り」を求めたわけでもそのための瞑想修行を行ったわけでもありません。彼らは仏教徒ではないことになるのでしょうか。

 ナーガールジュナやヴァスバンドゥなどの哲学者や、「覚り」を求めて瞑想修行を行ったりする人々は、仏教の重要な一部であることは間違いありませんが、仏教と呼ばれる複雑極まる現象全体から見れば、少数の人々です。仏教徒というのは「覚り」を求める人々だと考えるのであれば、それら少数の人々だけが仏教徒であり、それ以外は仏教徒ではないということになってしまいます。そのような見方をとるのであれば、仏教と呼ばれる現象についてうまく説明することはできないように思われます。


紙の上の「仏教」

 そもそも、「仏教は宗教ではなく哲学である」とか「キリスト教は信仰に基づくが、仏教は理性に基づいた合理的なものだ」といったような宗教観は、19世紀に新しくつくられていったものです。前回述べたことの繰り返しになるようですが、乱暴にかいつまんで言うと、西欧ではカトリックの支配が徐々に弱まり、宗教改革を通じてプロテスタントが出てきました。その後、近代科学の進展を背景に、万人に平等に備わっている「理性」によって世界を照らし出すことで、その隅々まで正確に知ることができるというもののものの見方が生まれ、広まっていくことになりました。前回も述べたように、キリスト教が徐々に公的領域から排除されて個人の内面へと押し込められるようになったり、もはやキリスト教を心の底から信じることができないという人々が出てくるようになったりしました。このような状況下で、19世紀の合理主義精神は、キリスト教の代わりとなるものを探し求めていました。

 そんな時代に仏教を「発見」した西洋の学者たちは、自分たちが理想としていた合理的で理性的な人間像を、釈迦に投影していったのです。西洋の学者たちは、大学の図書館や研究室や書斎にこもって、アジアに実際に存在している仏教を観察することなく(むしろ実際に存在する仏教は軽視しながら)、ほとんど仏典から得られる情報のみに基づいて、神話や呪術や迷信とは無縁な“ほんとうの”仏教の姿を描き出そうとしました。何度も申し上げているように、長い仏教史を通じて、神話や呪術や迷信とは無縁な仏教などというものが実際に観察されたためしはないにもかかわらず、です。

 その結果、釈迦は呪術や習俗や超能力や迷信といった要素を排除して、万人が平等であるという合理的な教えを説いた哲学者で、理性的で道徳的な人柄を備えていたという、それまでになかった新たな釈迦のイメージが創作されていったのです。「紙の上の仏教」が新しく創作されたのです。

 当時の東洋学者たちは、現存する堕落した仏教の対極にあると考える、「真正な原初の仏教」を解明しようと躍起になっていた。イギリスの学者で、南伝仏典が記された言語であるパーリ語の大家であったトーマス・リス=デイヴィズは、一八七七年に出版した著書の中で、原始仏教――彼はそれをプロテスタンティズムに比した――の「合理主義」と「純粋性」を、カトリックに比した大乗仏教の「迷信性」と「腐敗」に対比させた。

フレデリック・ルノワール/今枝由郎・富樫瓔子訳『仏教と西洋の出会い』トランスビュー、2010年、p.189

 しかし実際には、たとえ古い仏典であっても、輪廻説や神通力(超能力)とか、梵天や帝釈天のような神々や、釈迦を惑わそうとする悪魔など、彼らが抱いていた「合理的な」世界観とは相いれないような要素は登場します。そういった要素は、「仏教経典には釈迦を惑わせようとする悪魔が登場するが、これは悪魔が実在することを説いたものではなく、人間を惑わす煩悩を象徴的に表現したものだ」と理解されるようになりました。仏教を「合理的」に解釈しようとした当時の西洋の学者たちは、そうやって仏典に見られる「非合理的な」要素を認めず、無理やり排除したのです。

 このような近代仏教学の研究を通じて、仏教に関する新たな知見が蓄積されていったことは確かであり、様々な成果があがったのは事実です。しかし、今の目から見ると近代仏教学は、原典の文献学的な研究という「科学的」で「実証的」な方法論を採用し、「客観的」な装いをとってはいましたが、つい最近までイデオロギー的な偏りをかなり含んでいたと言わざるをえません。例えば、近代仏教学ではほんの50年ほど前まで、番外編で紹介した後期密教の世界は、本格的にはほとんど研究されてきませんでした。

「客観的」な仏教研究だというのであれば、古い時代の仏教も後期密教も同じくらい研究されていなければ話がおかしいのです。しかし実際には、近代仏教学の世界では、後期密教は最近まで本格的にはほとんど研究されてこなかった。「古い時代の仏教はすばらしかったが、時代が下るにつれて『堕落』していった」「釈迦が説いた教えは『合理的』ですばらしいものだったが、後世の仏教はそこから逸脱した『非合理的』でダメなものになってしまった」「インド仏教史において最後に出現した密教は、ヒンドゥー教化が進んで最も堕落した仏教だ。特に、性的要素を含んだ後期密教はくだらない『迷信』であり、もってのほかだ」などといった偏ったイデオロギーからなかなか脱却できなかったからです。

 かつて人類学者のエドマンド・リーチ(1910-1989)は、1968年に“Dialectic in Practical Religion”という本を出して、次のように指摘しました。

 ごく最近まで、西洋における仏教の理解は、専門的な仏教教義学者たちの近代的注釈によって注解され、古代パーリ語文献の学問的研究から生み出されている一方で、セイロンであれ、ビルマであれ、タイであれ、他の諸国であれ、本来の仏教国の地域教区における日常的仏教の現実については、ほとんど注意が払われてこなかった。…(中略)…唯一の<真正な>形態の仏教は、パーリ語文献から抽出可能な哲学的神学である一方、たとえ仏教の諸国に存在しても文献的に確認することができない宗教実践の要素は、いかなるものでも堕落した世俗的な捏造物であるか、あるいはアニミスティックなヒンドゥー教的迷信の残滓でしかない、と考えられてきた。

下田正弘「近代仏教学の形成と展開」『新アジア仏教史02 インドⅡ 仏教の形成と展開』佼成出版社、2010年、p..48

 また、宗教学者の林淳は、次のように指摘しています。

 東京大学の印度哲学科の歴史をうかがうと、三国史観が残っていると思うときがある。インドのサンスクリット語、パーリ語を使って、仏陀の時代に近い時代を研究する人が偉く、次に中国仏教を研究している人が偉く、日本仏教を研究している人は、あまり偉くない。さらに日本仏教でも、末木氏(末木文美士、引用者注)は平安仏教を研究していたからよかったが、最初から近代仏教を専門分野にしていたら、東京大学の教授にはなっていなかったはずである。サンスクリット語とパーリ語というのが近代仏教学の基礎語学であり、それができない人は仏教学者にはなれないという暗黙の条件があり、時代をさかのぼるほど価値が高まり、反対に時代が下ると価値が減り続け、嫌悪もある。一番輝き、価値があるのは仏陀の時代で、現代の日本仏教が、一番あってはいけない見本のようなものである。東京大学の印度哲学科からは、手を変え、品を変え、「日本仏教は仏教ではない」と主張する学者を輩出してきたが、そこには、東京大学印度哲学科特有の知的な土壌がある。
 仏教学者が、テキスト研究を通じて明らかにできた仏教の世界を、現実態としてある仏教とは比較できないはずなのに、比較を行なう。現実のインドなり中国と、現実の日本を比較すればよいのだが、一方で理念的でテキストから抽出された仏教像と、他方で日本仏教の現実とを比較することが間々ある。仏教学者は一般的に、自らの学が、近代的な学知の構築物であるという自覚に乏しいことに起因する、病がある。1990年代に話題になった批判仏教も、仏教学内部の提言にもかかわらず、「本当の仏教はこれこれだ」と断言して憚らない。仏教学者が、認識上の優越性を持っていることに無自覚で、仏教を実践する僧侶や修行者よりも、仏教を語ることができるという特権性を信じている。

大谷栄一編「書評特集 末木文美士『明治思想家論』『近代日本と仏教』を読む」『南山宗教文化研究所 研究所報』第16号、2006年

 古い経典から“ほんとうの”仏教とやらを取り出し、実際に存在する仏教を「堕落」していると安直に決めつけることがいかに大きな問題を孕んでいるかということは、これまでに述べてきたとおりです。例えば、『根本説一切有部律』が語るかつてのインドの僧院の実態が、経典から取り出された“ほんとうの”仏教とやらから大きく乖離しているということは、前々回で述べたとおりです。しかしながら、「“ほんとうの”仏教は『合理的』で『理性的』で『論理的』で『科学的』である」という仏教観は、本屋に行ってもインターネットを見ても、まだまだ見られるものです。


自分たちの問題や願望を投影

 ちなみに、現在では少し信じがたいことではありますが、当時の西洋では、仏教はキリスト教と非常によく似ていると主張(!)するインテリがいっぱいいました。仏教をプロテスタントと同一視し、バラモン教と仏教の関係はカトリックとプロテスタントの関係と同じだと見て、釈迦はルターのような宗教改革者だったと主張する人もいました。同様に、バラモン教と仏教の関係は、ユダヤ教とキリスト教の関係と同じだと主張する人もいました。また、釈迦はカーストの廃止を熱心に説いた社会改革者だと言う者もいました。ほかにも、アルトゥル・ショーペンハウアー(1788-1860)の哲学を投影して、仏教は厭世主義だと考える者や、フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の哲学を投影して、仏教は虚無の信仰だと考える者もいました。

 いずれも、現代の目から見ればいろいろと問題を含んだ見方ですが、こうした仏教観のなかには、現在でも根強く生き残っているものもあります。これらの仏教観には、西洋の一部の人々が理想としていた「合理的」で「理性的」な人間像とか、キリスト教のような「非合理的」な宗教に代わる新しい宗教が欲しいという願望とか、反ユダヤ主義的な(あるいは反カトリック的な)風潮とか、社会主義思想とか、ショーペンハウアーやニーチェの哲学などなどが投影されています。仏教を「発見」した西洋の人々は、当時の自分たちが抱えていた問題や願望や精神的危機を、勝手に仏教に対して投影して、新しい仏教観を創作していったのです。

 このような新しい仏教観のなかに、「仏教は無神論である」というものも含まれていました。「仏教は無神論的宗教である」と主張をする人は今でもいますが、これもやはり問題のある主張だと言わざるをえません。

 一口に仏教といってもいろいろありますが、まずはニカーヤで説かれる教えについて考えてみましょう。確かに、ニカーヤには啓典宗教が説くような全知全能の唯一の神は登場しませんが、梵天や帝釈天といった神々は登場しますし、簡単に無神論だと決めつけることはできません。

 それではニカーヤに描かれているのは多神教の世界なのかというと、そのように決めつけることもできません。そうした神々には寿命があり、輪廻を延々と繰り返している点では人間と変わりはありません。そうした神々も、寿命が尽きて死んだら餓鬼や畜生や地獄に生まれ変わるかもしれない点では人間と同じだし、仏のように輪廻から脱した者ではありません。要は、仏に比べれば全くたいした存在ではないわけです。人間に生まれ、修行を通じて35歳で仏になった釈迦の方が、そうした神々よりもはるかにエラいのです。よって、一神教だの多神教だの無神論といった枠組みは、うまくあてはまらないのです。

 それでは、大乗や密教の場合はどうでしょうか。大乗経典では、浄土三部経が説く阿弥陀仏や、『法華経』の久遠実成の釈迦牟尼仏のように、世界創造や最後の審判こそ行わないものの、超人化され救済神のような役割を帯びた仏も登場します。これは見ようによっては、一神教っぽく見えなくもありません。しかし、そうした仏たちも、啓展宗教が説く全知全能の神のように、我々人間から隔絶したところにいるわけではありません。後期密教では、本初仏と呼ばれる創造神のごとき仏も出現するようになりますが、これも我々人間から隔絶したところにいるわけではないことは同じです。

 一方、大乗や密教は、新たな菩薩や明王を創作したり、天部(護法尊)の神々をヒンドゥー教から取り込んだりもしています。こうした要素は、多神教っぽく見えなくもありません。その一方で大乗や密教には、このnoteで述べてきたように、すべては究極的には仏の法身(乱暴にたとえると、アルティメットまどかの円環の理みたいなものです)に帰するという思想も見られます。これは見ようによっては、無神論っぽく見えなくもありません。

 私が何を言いたいのかというと、「仏教には、一神教っぽく見える要素も多神教っぽく見える要素も無神論っぽく見える要素もあると言えばあるけど、一神教/多神教とか有神論/無神論といった、キリスト教を背景にした西洋の枠組みは仏教にはうまく当てはまらない。無理やり当てはめようとしても、仏教という複雑な現象を歪めて理解してしまうだけだ」ということです。

 話を戻すと、西洋の人々が、自分たちの問題を投影する形で新たに創作していった仏教観は、「仏教は『合理的』な哲学である」といったようなものばかりではありませんでした。仏教に超自然的な「東洋の神秘」を見い出そうとする人々もいました。前回紹介した神智学協会の人々は、その代表例です。

 神智学協会が描いた仏教のイメージはその後、仏教に「東洋の神秘」という「物語」を見い出そうとする西洋の人々に対して、長きに渡って大きな影響を与えていくことになります。当時の世界において神智学は、「西洋」の人々が「東洋」の宗教に触れる数少ない入口になっていました。神智学協会というオカルティックな団体は、東西の宗教が交流するハブのような役割を果たしていたのです。

 前回述べたように、「神智学以降の世代のアメリカ人たちは、ヨガ瞑想、禅の悟り、梵我一如、あるいはクンダリーニ、気、プラナといった“精妙なエネルギー”の存在などを好きなように語ることができるようにな」りました。西洋の人々のあいだに、アジアの宗教に対する誤解を含んだ神秘的なイメージが形成されてゆく過程に、神智学協会は大きく関与しているのです。神智学協会の活動が、仏教にどういう影響を与えていったのかという問題は、これから述べる予定です。


プロテスタント仏教の誕生

 さて、長い長い前フリはここまでです。話がここまでくれば、ようやく本題に入ることができます。私が今回記してみたいのは、

〇「上座部仏教は『合理的』であり『論理的』であり『科学的』である」という日本(の一部)で見られる上座部仏教に対するイメージは、一体どこからきたのか
〇日本(の一部)でまことしやかに語られている上座部仏教のイメージは、なにゆえスリランカやタイやビルマなどに実際に存在している仏教から大きくかけ離れているのか

という問題です。

 先ほども申し上げましたが、この問題には、19世紀以降に起こった上座部仏教の変容が絡んでいます。19世紀以降に上座部仏教圏で起こった大きな変化が、こういった仏教観にも影響を与えているのです。特にスリランカ仏教は19世紀後半以降に、大きな変化を経験することになりました。本稿では、その大きな変容がどういうものだったのかを、スリランカ仏教を中心に見てみたいと思います。

二つの仏教

 前々回で少し触れましたが、16世紀以降のスリランカは、ヨーロッパ勢力による植民地支配を受けることになります。まずポルトガルの支配を受け、次にオランダによる支配を受け、その後イギリスがオランダを追い出し、1815年にはスリランカ全島がイギリスの植民地になりました。私がこれから述べようとしているのは、スリランカがイギリスの植民地だった時代に起こった仏教の変容です。スリランカでは19世紀の終わりまでに、それまでになかった全く新しいタイプの仏教が登場し、勢力を広げ始めたのです。コロンボ(スリランカの最大の都市です)の英国国教会の当時の主教は、1892年にこう記しています。

 今日セイロンには二つの仏教がある。一つは過去何世紀にもわたる古い仏教(それは片田舎に生き残り、ヨーロッパの影響を受けていない人たちの習慣と生活様式を形成してきた)の残滓としての仏教であり、もう一つは遥かに自意識に目覚め、かつ人為的なものであって、これは仏教があるべき姿として常に公言したものを復活させることだけを目的としたが、しかしその公言に対する評価はヨーロッパ人の影響を大きく受けてきた仏教である。

リチャード・ゴンブリッチ/森祖道・山川一成訳『インド・スリランカ上座仏教史』春秋社、2005年、p.290、太字引用者

 この「人為的」で新しい仏教は、スリランカの「片田舎」の村から出てきたものではありません。この新しい仏教を支えたのは、官僚・実業家・弁護士・医師・教師といった知的な職業に就いて、主に都市部で暮らす人々でした。つまり、新しく勃興した中産階級の人々のあいだに、新たな仏教が広がり始めたのです

 私が知る限りでは、19世紀のスリランカに登場したこの新たな仏教について最初に学問的な記述を行って出版したのは、ドイツの仏教学者のハインツ・ベッヘルト(1932-2005)です。彼は『仏教――上座部仏教圏諸国における国家と社会』(全3巻。1966年から1973年にかけて出版)という著書のなかで、この新たな仏教を「仏教的近代主義」と呼びました。その後、スリランカ出身の文化人類学者であるガナナート・オベーセーカラ(1930-)は、1970年の論文のなかで、この新たな仏教を「プロテスタント仏教」と表現しました[Obeyesekere 1970]。この「プロテスタント仏教」という呼称は学術論文などで通用するようになり、19世紀のスリランカに登場した新たな仏教の問題が徐々に知られるようになりました(以下本稿では、この「プロテスタント仏教」という呼称を用いることにします)。

 それでは、新たに登場した「プロテスタント仏教」は、従来のスリランカの仏教とどう異なっていたのでしょうか。また、ここで言う「プロテスタント」ということばは、一体何を意味しているのでしょうか。「プロテスタントというのは、前回も出てきたキリスト教の宗派だよね。仏教と何か関係があるの?」と思った方もおられるかもしれません。それを探るために、19世紀のスリランカ仏教に何が起こったのかを見ていきたいと思います。


植民地支配と西洋近代との接触

 プロテスタント仏教が生まれた背景には、当時のスリランカをとりまいていた以下のような状況があります。

〇西洋との接触を通じて近代的知識や西洋風の教育がもたらされ、読み書き能力の向上や印刷物の増加が生じた。

〇イギリスによる植民地支配は、スリランカのすべての人々に経済的困難を与えたわけではなかった。急激な社会的・経済的変化にうまく対応して財産を築いた者たちもおり、彼らによって新興のエリート層が形成された。

〇財産を築いた新興のエリートたちの台頭と関連する事態として、キリスト教学校で英語教育を受ける者が出てくるようになった。キリスト教学校で英語教育を受けて、官僚・実業家・弁護士・医師・教師といった職業につく者が次第に増え、都市で暮らす新興の中産階級が登場した。

〇西洋からスリランカにやってきたキリスト教の宣教師が布教活動を行い、仏教を攻撃したのに対して、仏教徒が反撃し始めた。この反キリスト教運動の流れが、19世紀を通じてスリランカの各地で強まり、確固たるものになった。

 こういった状況について、もう少し詳しく述べましょう。まず、財産を築いて新興のエリートとなる者が出てきたという点について。彼らは、当時急速に拡大しつつあった黒鉛採掘・ココヤシやコーヒーの栽培・アラック酒販売などを通じて財を成しました。

 この背景には、1820年代以降にプランテーションの開発が急速に進んで、植民地経済の基軸となったという事情もあります。プランテーションはヨーロッパ人だけでなく、シンハラ人やタミル人やムーア人(イスラム教徒)やチェッティ商人(南インドの商人カースト集団)など、非ヨーロッパ人の手にも渡りました。非ヨーロッパ人もプランテーション経営に参入して、コーヒーやシナモンやココヤシの栽培を手掛けるようになり、財産を成す者も出てくるようになったのです。

 次に、学校教育の問題について。イギリス植民地時代の教育政策の特徴として、英語教育の振興やキリスト教学校(ミッション・スクール)の普及があげられます。イギリス当局が英語教育を振興した背景には、植民地統治のために、英語に堪能なスリランカ人の行政官を養成する目的がありました。

 イギリス植民地省が、スリランカの行政や経済や裁判制度の問題を検討し、改革案を提示するために設立したコールブルック・キャメロン委員会という組織があります。1832年にコールブルック・キャメロン委員会は、教育や行政や司法においては、英語を用いるべきだと強く主張する報告書を提出しました。また、コールブルック・キャメロン委員会は、公立学校は、キリスト教布教の中心としても機能すべきであるとも主張しました。

 1832年には学校教育の教授言語(学校の授業で使用される言語)は英語とされ、英語が民族間の交流やイギリスとの通商のための道具として必要な言語となった。1868年には、教育政策の改革を目的として母語を使用する学校を増やす計画が立てられ、その結果、母語(シンハラ語とタミル語)で教育を受けることができるようになった。ただし、それは初等教育に限られていた。当時は有償であった中等教育と高等教育を受けるには英語が必要で、教育費が支払えない人びとの教育機会は実質的に初等教育までであった。
 英語と母語の両方を併用するバイリンガル学校も開校されていたが数が少なく、併用教育は第1~第5学年の初等教育までで、第6学年からは英語が教授言語とされた。

B・M・プリヤンタ・ラタナーヤカ「教育制度の歴史」、杉本良男・高桑史子・鈴木晋介編著『スリランカを知るための58章』明石書店、2013年、pp.140‐141

 教育改革を通じて、5年間の初等教育を現地語で受けることは可能になったものの、それ以上の教育は英語で行われていたのです。

 学校教育の場で、圧倒的に優位に立っていたのはキリスト教系の学校でした。イギリスの植民地支配が始まると、プロテスタントの宣教師たちもやってきて布教活動を開始し、各地に学校を設立するようになっていました。

 一九世紀中頃までには、「西海岸のほとんどすべての重要な村」と内陸部の多くの地域にプロテスタントの学校ができていた。さらに、いわゆる政府校(government school)と呼ばれる公立の学校にも宣教師たちはかなりの影響を及ぼしていた。政府委員会と呼ばれる組織は宣教師たちと協力関係にあり、なかにはそうした委員会の委員を務める者たちもあった。

川島耕司『スリランカと民族』明石書店、2006年、p.22

 仏教徒が世俗的な学校をつくる流れもあったのですが、その展開は遅く、資金難などの要因で運営が困難になることも少なくありませんでした。西洋式のカリキュラムと英語教育を備え、資金力や組織力や人的資源に恵まれたキリスト教系学校の優位が脅かされることはほとんどなかったのです。実際、1880年の時点では、政府助成金を得られる仏教徒の学校はわずか四校しかありませんでした[川島 2006: p.39]。

 そして、英語で教育を行う学校を卒業した者には、政府機関などの要職や、社会的地位の高い職業に就職する道が開かれていました。スリランカでは当時から現在に至るまで、いわゆる支配層エリートになるためには、英語で教育を行う学校で高い教育を受けることがほとんど必須となっています。しかし、英語学校に通う経済的負担は大きく、英語教育を行うキリスト教系学校に進学できるのは一部の人々だけでした。ともあれ、英語学校を出て、官僚・実業家・弁護士・医師・教師といった職業に就いて、都市で暮らす新興の中産階級が登場することになったのです。

 英語によって教育を受ける者は必然的に、英語で書かれた教科書が語る西洋文化やキリスト教の世界観と接することになります。彼らは、西洋の近代的知識や科学の進歩について知ることになるわけです。彼らは、学校で単に知識を取得するだけではなく、近代科学は日進月歩であることを知ることになります。人間が持っている知識は、現在進行形で増え続けている。人間が持つ知識の総量は、今よりも昔の方がはるかに少なかった。増え続ける知識を手にしている“進んだ”西洋人は、圧倒的なパワーで世界に覇を唱えている。そういう認識を持つようになるわけです。

 そうすると、今よりもはるかに少ない知識しか持っていなかった、昔の人が説いた伝統的な宗教には、おのずと限界があるのではないか――そういう認識をどこかで持たざるをえなくなるという問題が生じてくることになります。かくして、従来の世界観は「脱神話化」されることになります。このような事態が、スリランカ仏教に影響を及ぼしていくことになるのです。


反キリスト教運動――「戦う仏教」の興起

 さて、キリスト教の宣教師たちは、仏教を激しく攻撃し、上から目線で改宗を迫りました。彼らにとっては、仏教徒はくだらない「迷信」を盲目的に信じている無知な人々であり、仏教よりもキリスト教の方が優れていることは自明でした。宣教師たちは、学校や印刷所をつくり、教育や文書や説教を通じて布教を試みました。

 宣教師による仏教攻撃に対して、仏教徒たちも徐々に反撃し始めるようになります。例えば、宣教師と同じようにパンフレットを発行して、キリスト教を攻撃する仏教僧が出てくるようになりました。仏教徒たちは1855年にコロンボ(スリランカ最大の都市です)で印刷所を手に入れ、その直後にゴールにも印刷所をつくりました。彼らは、これらの印刷所で反キリスト教的な文書を大量に印刷して、配布するようになりました。

 こうした印刷物のなかには、西洋の無神論者の主張や、キリスト教内部の異端的な思想家の主張を取り入れたものも多く含まれていました。やがて、こうした印刷所から学校の教科書なども発行されるようになります。いずれにせよ、印刷所の設立が反キリスト教運動を大きく活性化させたことは間違いありません。仏典を読んだり、キリスト教を批判するために聖書を読んだりする会合が頻繁に開かれるようにもなっていきました。 

 この初期の反キリスト教運動や、キリスト教の宣教師との論争において中心的な役割を果たしたのが、ミゲットゥワッテー・グナーナンダ(1823-1890)と、ヒッカドゥウェー・スマンガラ(1826-1911)という二人の僧侶です。

 グナーナンダは、印刷所を設立して、仏教を擁護しキリスト教を攻撃する文書を大量に印刷する活動の中心となっていた人物です。キリスト教の幼児洗礼を受け、仏教僧とキリスト教宣教師のもとで初等教育を受けて、英語を身につけた後に出家しました。

 英語という要素は、彼が反キリスト教思想を構築するうえで重要な役割を果たしました。というのもグナーナンダは、西洋で行われていたキリスト教批判を研究し、西洋の反キリスト教的な文献を翻訳して出版するということもやっているからです。彼は演説の才能があり、物事を単純化して、人々にわかりやすく説明する能力がありました。スリランカの反キリスト教運動は、グナーナンダのもとでより組織的に行われるようになりました。

 もう一人のスマンガラは、幼くして仏門に入り、仏教僧からシンハラ語とパーリ語を教わり、在家信者から英語を習いました。ゴールの仏教徒たちのグループ(先ほど触れたゴールの印刷所を管理していたのはこのグループです)に加わって活動し、スリランカ各地に仏教徒学校を設立するために力を尽くしました。


パーナドウラ論争

 さて、グナーナンダとスマンガラが1860年代にキリスト教に反論する書を相次いで出版したことが契機となって、キリスト教の宣教師と仏教僧のあいだで、公開討論が数回に渡って行われることになりました。この公開討論による論争は、1873年まで断続的に続いていくことになります。仏教とキリスト教の教義論争の火蓋が切って落とされることになったのです。

 一連の論争において最も重要なのが、1873年にコロンボの南のパーナドゥラというところで行われた論争です。これはパーナドゥラ論争と呼ばれています。この論争ではグナーナンダが、デイヴィッド・ダ・シルワとF・S・シリマンナという二人のキリスト者と二日にわたって論争し、多くの聴衆を集めました。二対一ですが、聴衆の大多数は仏教徒でした。

 グナーナンダはキリスト教について詳しく知っていました。先ほど申し上げたように、グナーナンダは宣教師のもとで初等教育を受け、英語を身につけ聖書をはじめとするキリスト教の書物にも、西洋の反キリスト教的な書物にも親しんでいました。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」じゃないけど、論敵に精通していたわけです。

 グナーナンダは、例えば次のように言いました。

 旧約聖書の「創世記」(Genesis)第六章六節を見ると
  「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、」
とあります。
 エホバに心配ごとが生じたのは、この世に人間を造ったからなのであります。将来の悔いを自分から造ったとは、なんと愚かなことでありましょう。一切の知者であり、我々人間を創造したお方が、将来悔いるようなことを自ら選択したとは、どう考えてもおかしいではありませんか。したがいまして、これだけみてもエホバは未来を見通す聖なる智慧を持っていないことが明らかであります。このように智慧のないものを全知全能者といい得るでありましょうか。
(中略)
 旧約聖書「出エジプト記」第一二章ニ三節によりますと、
  「主が行き巡ってエジプトのひとびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。」
 このようにエホバは、何かある印(mark)がなければ、エジプト人の家を見分けることができないのであります。(中略)このように、ごく一般的な智慧しかもっていない者を、全知全能なる神として、我々はなぜ敬い信じなければならないのでしょうか。

中村元監修/西村公朝挿画/釈悟震訳注『改訂 キリスト教か仏教か』山喜房仏書林、1998年、pp.41-43

「ある出来事の結果を知りながらそれを行って後悔するのは、愚か者だけがすることである。全知全能の神が後悔するのはおかしい」「印がないと敵と味方の区別すらできないようなやつが、全知全能の神なわけがない」というわけです。あら探しのようではありますが、このような論法は、現代の無神論者にも用いられているものです。

 また、キリスト教側が「いかなる探検家も須弥山を未だに発見していない。この小さな地球には、あれだけ巨大な山が存在することはできない」と言ったのに対して、グナーナンダはこうやり返しました。

 彼のいうように、我々が肉眼で見たことがないものはすべて存在しないとするならば、世の中でだれも見たこともないのですから、バイブルに現れる「禁断の樹」も存在しないことになるのではありませんか。自らの命をかけて世界を旅行する探検家が、「禁断の樹」が生殖しているところを発見したということを書いてある文献が存在するというようなことは、噂にも聞いたことがありません。

同前、pp.192-193

「おまえの言うことはブーメランだ」というわけです。ともあれ、グナーナンダの大立ち回りによって、仏教側の勝利が聴衆に強く印象づけられました。論争が終わると、会場は大歓声に包まれたのだそうです。

 モーホッティワッテ・グナーナンダ師の対論が終わると一万余の仏教徒およびキリスト教徒たちが一斉にサードゥ、サードゥ(sādhu, sādhu)と声高く唱えた。

同前、p.193

 sādhuというのは、「よきかな」「よくやった」「すばらしいことだ」といった意味のパーリ語・サンスクリット語で、仏典によく出てきます。圧倒的な経済力と軍事力で世界に覇を唱えていた西洋人の宗教を相手に勝利をおさめたということで、植民地支配下にあったスリランカの仏教徒が、誇りや自信を取り戻す契機の一つになったのです。


鏡像

 さて、ここでまず指摘しておきたいことがあります。グナーナンダが語った仏教には、(少なくとも思想の面では)既存の仏教と大きく異なる新たな要素が含まれていたとまでは言えないかもしれません。しかし、彼が用いたスタイルや表現法には、それまでのスリランカ仏教には見られなかった新たな要素が含まれていました

 まず、従来の比丘は教えを説く際には、在家の人々(説法を聞くとき、彼らは通常床の上にあぐらをかいて坐っています)より一段高い場所に座り、払子の後ろから平板な落ち着いた口調で語ります。芝居がかったところは全くなく、聴衆は比丘の顔を見ることもできなかったりします(説法という行為が「非個人化」されているわけです)。スリランカでは、現在でもこのようなスタイルで教えを説く比丘は多いです。

 しかし、グナーナンダは公開討論の場で、従来のスタイルではなくキリスト教の宣教師のスタイルをとったのです。彼はすわらずに、歩き回りながら大きなジェスチャーも交えて、雄弁に語ったのです。静かに教えを説くのではなく、論敵であるキリスト教の宣教師のごとく、布教者として闘争的に振る舞ったのです。グナーナンダは、僧院を出て公共の場を巡回して辻説法を行いましたが、これもキリスト教の宣教師を真似たものです

ミゲットゥワッテー・グナーナンダ

 これは、パーナドゥラ論争に臨むグナーナンダを描いたものです。見てのとおり、右手を上げて人差し指を傲然と突き立てており、彼が始めた新しい説法のスタイルを雄弁に物語っています。ちなみに、現在のパーナドゥラに立っているグナーナンダ像を見ても、右手を上げて人差し指を立てていたりします。

 そもそも、印刷所をつくって、印刷物を通じて自分たちの主張を広めるという手法も、キリスト教の宣教師から取り込んだものです。さらに言うと、公開討論というイベントも、キリスト教の宣教師が行っていたものです。宣教師たちは、スリランカ以外の非ヨーロッパ地域でも、現地の「異教徒」を相手に公開討論を行い、「異教徒」をやりこめることで信者を獲得しようとしていました。スリランカの仏教徒たちは、公開討論という宣教師の手法を逆手にとって、キリスト教を攻撃するために用いるようになっていきました。その頂点がパーナドゥラ論争だったわけです。

 さらに言うと、1862年にグナーナンダがつくった仏教普及協会という団体があります。これは、1840年にキリスト教の宣教師がつくった福音普及協会という団体を真似たものです。この仏教普及協会は、スリランカの仏教徒による最初の本格的な組織となりました。

 ともあれここで注意しておきたいのは、キリスト教を学び英語にも堪能だったグナーナンダは、キリスト教の説教スタイルで仏教を語り、西洋の反キリスト教的な言論や無神論者の見解を利用し、西洋人が抱えていた問題を(ある程度)トレースする形で相手をやりこめたということです。まるで鏡に映った像のように、論争相手のキリスト教宣教師と似ているのです。とはいえ彼の語る仏教は思想の面では、それまでの仏教と大きく異なる新たな要素を含んでいたとまでは言えないかもしれません。しかし、これから見ていくように、グナーナンダの後の世代になると、従来の仏教と思想の面でも実践の面でも大きく異なる仏教が姿を現し始めることになるのです。


神智学協会という「黒船」

 さて、パーナドゥラ論争の経緯は、シンハラ語の新聞や英語の新聞に掲載され、その内容を記した英語の書籍も出版されました。かくして西洋にも知られるようになり、西洋の人々が仏教に注目する大きなきっかけの一つになりました。この論争の経緯を知って、スリランカの仏教に大いに関心を抱いた人物が、ヘンリー・スティール・オルコットでした。前回述べたようにオルコットは、ヘレナ・P・ブラヴァツキーとコンビを組んで、1875年に神智学協会を設立した人です。

 パーナドゥラ論争がきっかけとなって、オルコットやブラヴァツキーは、グナーナンダやスマンガラと定期的に連絡を取りあうようになります。先ほど述べたように、グナーナンダは西洋で行われていたキリスト教批判を研究し、反キリスト教的な文献を翻訳しました。そうした反キリスト教的な文献のなかには、ブラヴァツキーの初期の著作である『ヴェールをとったイシス』も含まれていました。これは、グナーナンダの活動を知ったブラヴァツキーが、彼に贈ったものです。かくして、近代のスリランカの仏教運動に、神智学協会というオカルティックな団体が大きく絡んでくることになったのです。

 ブラヴァツキーとオルコットは、1880年に初めてスリランカを訪れ、仏・法・僧の三宝に帰依し、在家信者が守るべき五戒を正式に授戒しました。少なくとも形式的には、二人とも仏教徒になったわけです。

 ブラヴァツキーとオルコットは、スリランカで大歓迎を受けました。植民地支配を受けていたスリランカには、西洋は自分たちよりも“進んでいる”という意識があり、先進国崇拝の風潮がありました(ご存じのとおり、明治以降の日本にもそういう風潮はあります。もっとも今の日本では、「自分が生まれた頃には日本はとっくに先進国になってたし、特に西洋コンプレックスみたいなものはないなぁ」という人が多いこともあって、そういう風潮も昔よりは弱くなりました。とはいえ現在でも、いんたあねっとすらんぐで「出羽守」と呼ばれる人々は一定数存在し続けています)。乱暴に言えば、「西洋人は西洋人だというだけで価値がある」時代だったのです。

 しかも、オルコットはアメリカ人です。ご存じのとおり、アメリカは本国のイギリスに反旗を翻して独立した国です。当時のスリランカはイギリスの植民地だったこともあり、アメリカ人はイギリスの支配に対して反乱を起こして成功を収めた反植民地主義者だと思われていました。

 さらに、オルコットは南北戦争に従軍し、物資の不正購入を暴くなどの成果をあげて、陸軍大佐まで昇進した人物です。戦後は法律を学んで辯護士になり、主に関税や保険業に関する辯護士活動を行い、保険会社の取締役をも務めました。高度な実務能力を備えていたのです。「西洋人が西洋人だというだけで価値がある」時代に、「仏教には太古の叡智が秘められている」などと言って仏教を褒めたたえるアメリカ人が出現し、(少なくとも形式的には)仏教徒になった。しかもその人は元陸軍大佐で辯護士で、組織をつくったり資金を調達したりする実務能力も備えていた。これが歓迎されないわけがなかったのです。

オルコットとブラヴァツキーの仏教観

 さて、それではブラヴァツキーやオルコットは、どのような仏教観を抱いていたのでしょうか。ブラヴァツキーが『シークレット・ドクトリン』などの著作で展開した「仏教」は、前回紹介した霊魂の七段階の進化を組み込んだ宇宙論や身体論を中心に、ヒンドゥー教や仏教などの用語を散りばめたものでした。多くの研究者が指摘していることですが、ブラヴァツキーが描いた「仏教」は、東洋思想と西洋オカルティズムの混合物です。ブラヴァツキーは、ヒンドゥー教や仏教から、彼女が理解できた要素や利用できそうな要素を取り込んで、それを新プラトン主義やカバラなどの西洋の神秘主義思想とミックスすることで、神智学の教義を構築しました。

 ブラヴァツキーが描いた「仏教」は、現代の我々から見るとちょっと「仏教」には見えないかもしれません。しかし、このような仏教のイメージがその後、仏教のなかに「東洋の神秘」(?)という「物語」を見い出そうとする西洋の人々に対して、長きにわたって大きな影響を与えていくことになったことは間違いありません。

 一方、オルコットの仏教観はブラヴァツキーのそれとは結構異なっていました。オルコットは1881年に、『仏教問答』(Buddhist Catechism)という仏教の入門書を出版しています。わかりやすく書かれていたため、すぐにスリランカ全土に普及しただけでなく、20ヵ国語以上に訳され、版を重ねました。

 この本では、四諦八正道や五戒などの仏教の基本が解説されています。ブラヴァツキーが描いた「仏教」とは異なり、一見するとオーソドックスな仏教理解が示されているように見えます。しかし、実際にはオルコットが提示したのは、それまでのアジアになかった新しい仏教でした。アジアになかった「仏教」を創作して提示したという点では、ブラヴァツキーと同じだったのです。

 というのも、オルコットはスリランカで受戒して、(少なくとも形式上は)仏教徒となった直後に、日記にこう記しています。

 仏教徒になることと、堕落した現代仏教の宗派に属すことは、全くの別物である。私自身とブラヴァツキーのために弁明しておけば、もし私たちを強制して信じさせようとするような協議が仏教に一つでもあれば、受戒することもなかったし、仏教に一〇分間とどまることはなかっただろう。私たちの仏教はマスター=アデプトのゴータマ・ブッダの仏教であり、アーリヤのウパニシャッドの知恵宗教と同じである、すべての古代の信仰の魂と一致する。私たちの仏教は、一語でいえば、哲学であって、信仰箇条ではない

吉永進一『神智学と仏教』法蔵館、2021年、p.16、太字引用者

 前回述べたように、ブラヴァツキーは、「自分たちがやっていることは宗教ではなく科学である」と主張していました。また、キリスト教はイエスという人物を除いては何の価値もないものだと主張しました。仏教についても、アジアに実際に存在する仏教は無知な民衆に教えるためのものであり、重大な誤りを含んでいると言いました。「古代のイエスや釈迦はキラキラした優れた存在だったが、実際に存在する教団はダメなものだ」というものの見方が見て取れるわけです。

 ブラヴァツキーと同様に、オルコットにも「自分たちがやっていることは宗教ではなく科学である」「かつてのイエスや釈迦はキラキラした優れた存在だったが、実際に存在する教団はダメなものだ」という思想が見られます。実際に存在する宗教の制度や教団が果たしている役割を軽視して堕落しているとみなし、個人の内面的な「霊魂」を重視するという思想が見て取れるのです。

 このようなオルコットの仏教について、宗教学者のステファン・プロテロ(1960-)は、オルコットによって“ほんとうの”仏教に外から付加されたとみなされた信仰や儀礼が刈りとられたものだと指摘しています[Prothero 1996: pp.8-9]。

 大佐がみずからお墨付きを与え、復権させようとした仏教とは、数々の儀礼や宇宙観、神話、信仰を含んだ宗教としての仏教ではなく、合理的でプラグマティックで、知的で論理的な、真の「内面的な諸機能を開発する科学」としての仏教、つまり、近代性に富んだ仏教であった。

フレデリック・ルノワール/今枝由郎・富樫瓔子訳『仏教と西洋の出会い』トランスビュー、2010年、pp.189-190

 オルコットも、仏教を「合理的」で「論理的」な哲学だと解釈しようとする、19世紀の西洋の風潮と無縁ではなかったわけです。ともあれ、「仏教は宗教ではなく哲学である」という見方や、「釈迦の教えは『合理的』ですばらしいものだったが、後世の仏教は堕落していった」という堕落史観は、今でも本屋や図書館やいんたあねっとでちょくちょく見られるものです。興味深いことに、21世紀の日本でもちょくちょく見られるそのような仏教観は、オルコットのそれと非常に親和性があるのです。


オルコットの運動

 さて、スリランカに上陸したオルコットは、さっそく神智学協会の二種類の支部を設置しました。仏教神智協会とランカー神智協会です。ランカー神智協会はやがて消滅しましたが、仏教神智協会は、爾後のスリランカの近代史に影響を与えていくことになります。仏教神智協会は、僧侶部門と在家部門に別れていました。仏教神智協会の活動には、スマンガラやグナーナンダも大きく関与しました。在家部門には、都市に住む新興のエリートたちが集まっていました(先ほど触れたように、英語で教育を受けた人々です)。

 仏教神智協会の活動のなかでも特に重要なのが、仏教学校の設立です。オルコットは通訳を連れて、牛車に乗って村々を回り、学校設立のための寄付を募って資金を集めました。スマンガラも、仏教神智協会とともに、各地に仏教徒学校を設立するために力を尽くしました。先ほど申し上げたように、政府助成金を得られる仏教徒の学校は、1880年の時点ではわずか4校で、生徒数は246人でした。しかし、オルコットの努力もあって、その数は増えていきました。

 イギリスが行ったセンサス(国勢調査)によれば、1900年に政府の助成金を得ていた学校は1328校でした。その内訳は、プロテスタントの学校が781校、ローマカトリックの学校が336校、仏教徒の学校が142校、「ヒンドゥー・その他の私立校」が65校、イスラム教徒の学校が4校でした(“Census of Ceylon, 1901,” Colombo: Acting Government Printer, 1902,vol.Ⅰ, p.128)。8割以上がキリスト教系の学校で、仏教徒の学校は1割強ですから、多いとは言えません。しかし、たった4校だったものが20年で142校にはなったことや、その背景にオルコットの運動があったことは事実です。

 仏教神智協会は、キリスト教のミッション・スクールをモデルにして仏教学校をつくりました
キリスト教に対抗するために、英語で教育を行っていたキリスト教系の学校をモデルにして、英語で仏教を教える学校をつくったわけです。神智学協会員が英語の普及に協力し、アニー・ベサント(前回触れたように、オルコットの死後に神智学協会の会長になり、指導的な役割を果たした人です)もそれを経済的に支援しました。かくして、仏教神智協会によってつくられた学校は成功をおさめ、有力な指導者層を生む母体になりました。

オルコットとスマンガラ

 オルコットの活動によってつくられていった学校に、仏教日曜学校があります。これは文字通り、日曜日に仏教を教える学校です。ただ、この日曜学校の起源は、産業革命の時代を迎えた18世紀後半のイギリスで展開された日曜学校運動にあります(正確に言うと、日曜日に若い人々を集めて「教育」を施すという発想や、実際に日曜学校を設立した事例は、産業革命以前のイギリスにも存在したのですが、日曜学校の設立が社会運動として本格化するのは18世紀後半以降のことです)。日曜学校運動の先駆者だったロバート・レイクス(1736‐1811)は、キリスト教の精神を子供に教えるために、日曜学校で聖書を教科書として用いました。仏教日曜学校は、近代のキリスト教世界の文化を取り入れたものだということになります

 オルコットは1886年に、仏教日曜学校を母体にして、スリランカ初の仏教英語学校であるペッター仏教徒英語学校をコロンボに設立しました。このペッター仏教徒英語学校は、現在のスリランカでも由緒ある名門校だとされるアーナンダ・カレッジの前身です。アーナンダ・カレッジは、現在でもスリランカの仏教教育の中心地の一つとなっています。ともあれ、仏教日曜学校は、現在のスリランカでも重要な機能を果たし続けています。

 仏教神智協会や仏教日曜学校に関連して、1898年に仏教神智協会の本部で、C・S・ディッサナヤケ(この人はカトリックから改宗した仏教徒です)が中心となって、青年仏教協会(Young Men’s Buddhist Association。略してYMBA)が設立されました。YMBAは、仏教の研究や、仏教に関係する問題の議論や、仏教の実践を勧めることなどを目的につくられた在家組織です。YMBAという文字列を見て気づいた方もおられるかもしれませんが、これはYMCA(Young Men's Christian Association。キリスト教の精神に基づき、主に青年の教育や福祉などの活動を行う非営利団体です)を真似て設立されたものです。YMBAはその後、スリランカで最も重要な在家仏教組織の一つとなりました。

 また、オルコットは仏旗(仏教を象徴する旗)を考案しました。

仏旗

 この仏旗は、第二次大戦後に設立された仏教徒の国際組織である世界仏教徒連盟(上座部仏教の影響力が強い団体です)によって採用され、広く用いられるようになりました。ただ、ここで指摘しておきたいのは、そもそも仏旗をつくるという発想自体が西洋から持ち込まれたものだということです。仏教を象徴する旗をつくるなどという発想は、スリランカをはじめとする上座部仏教圏にはなかったものです。現在広く用いられている仏旗は、オルコットのアメリカ的な背景から生まれたのです。

 オルコットが新たにつくり出してスリランカに定着させた文化は他にもあります。例えば、現在のスリランカでは、月に一度の満月の日はポーヤ・デー(Poya Day)と呼ばれる祝日となっており、労働や飲酒や肉食を絶ち、寺院に参拝する日とされます(ちなみに、ポヤ・デーでは酒の販売が禁止されるので、この日はどこに行ってもアルコール類が買えなくなります)。毎年5月のポーヤ・デーは特別で、この日を中心に、釈迦の誕生と成道と入滅を記念するウェーサーカ祭という伝統的な行事が盛大に行われます。

 オルコットはイギリス当局と交渉し、1885年にウェーサーカ祭をスリランカの公的な祝日とすることに成功しました。またオルコットは、ウェーサーカ祭で仏教聖歌を歌うことも勧めました。この仏教聖歌も、元々はスリランカになかった文化で、クリスマス・キャロルをモデルにして新たにつくられたものです。クリスマス・キャロルというのは、主にキリスト教文化圏でクリスマスに歌われる讃美歌で、イエスの誕生を祝う歌などを中心にしています。日本で最もなじみのありそうなクリスマス・キャロルといえば、やはりこれでしょうか。キリスト教に全くなじみがない人でも、一度くらいは聴いたことがあるでしょう。

 ともあれ、オルコットの提案が契機になって、仏教聖歌を英語で(!)歌う習慣が生まれました。英語で仏教聖歌を歌う習慣はその後廃れてしまいましたが、ウェーサーカ祭で仏教聖歌をシンハラ語で歌う文化は、今でも存在します。また、オルコットはウェーサーカ祭でウェーサーカ・カードを交換する習慣も生み出しました。これはクリスマス・カードを交換するキリスト教圏の習慣(日本にも一応入ってきてますね)をモデルにしたもので、現在のスリランカでも盛んに行われています。オルコットは、キリスト教に対抗するために、キリスト教の祭りをモデルにしてウェーサーカ祭を再編成したのです


アナガーリカ・ダルマパーラ――近代という名の十字架

 さて、どうでしょうか。「なんだかキリスト教と戦っているうちに、キリスト教に似てきてしまってないか?」と思った方もおられるかもしれません。しかし、今までに述べてきたことはこれでもまだ前フリに過ぎません。本題はここからです。話がここまでくれば、近代のスリランカに新たに登場した「プロテスタント仏教」について語り始めることができます。

 オルコットは以上のような業績をあげたものの、プロテスタント仏教を生み出した張本人というよりはむしろ、そのパトロンとでも言うべき人です。プロテスタント仏教の誕生に大きく関わっているのは、アナガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)という人物です。この人は、スリランカの近代仏教史上最も重要な人物です。後に、スリランカの「国民的英雄」として扱われるようにすらなりました。1960年代には、ダルマパーラにちなんだ祝日があった時期すらあったのです。スリランカの各地には、ダルマパーラの名前にちなんで名づけられた街路がいくつもあります。この人物こそが、今回の本題なのです。


幼年期の宗教的分裂

 アナガーリカ・ダルマパーラ(本名ドン・デイヴィッド・へーワ―ウィターラナ)は、1864年にゴイガマ・カーストの裕福な家具商人の息子としてコロンボに生まれました。「ドン・デイヴィッド・へーワ―ウィターラナ」という本名は聖書にちなんだ名前で、「ドン」というのはスペイン語圏やポルトガル語圏で用いられる尊称です。スリランカがかつてポルトガルの植民地だったことや、植民地支配下でキリスト教の強い影響下にあることを反映した名前です。

 父のドン・カロ―リスは1860年にH.Don Carolis and Sonsという家具会社を興しました。この会社はその後成功し、世界各地に家具を輸出するようになり(これはスリランカ史上初のことだったようです)、財産を築きました。この会社は現在もスリランカの大手の家具会社として健在です。母のマッリカは、コロンボの木材商人の娘で、富裕な家庭の出身でした。そういうわけで、ダルマパーラは都市に住む新興の富裕な家庭に生まれ、生涯を通じて金銭面では苦労することはなかったようです。

【参考までに】H.Don Carolis and Sonsのホームページ
https://doncarolis.com/index.php?route=common/home


 ダルマパーラが最初に通った学校は、英語教育を行う幼稚園でした。8歳から10歳まではシンハラ語を教える学校に通いました。その後カトリック系のセント・ベネディクト学園に通い、そこからイギリス国教会系統の団体であるCMS(Church Missionary Society)の英語寄宿学校に転校し、さらに国教会系統のセント・トマス・カレッジに移って1883年まで在籍しました。つまりダルマパーラは、幼い頃からキリスト教のミッション・スクールで学び、カトリックや国教会をハシゴして、そこでキリスト教や英語を叩きこまれたのです。聖書の勉強はかなり熱心に行ったようです。ダルマパーラの講演やエッセイや手紙を集めたReturn to Righteousnessによれば、CMSの英語寄宿学校時代に、出エジプト記・ヨシュア記・4つの福音書・使徒行伝を暗記したのだそうです。

 一方、ダルマパーラの親族の多くは、熱心な仏教徒でした。彼の父はスマンガラやグナーナンダのパトロンでしたし、母のマッリカも、毎朝夜明け前に起きて仏像に向かって祈りを捧げる熱心な仏教徒だったようです。母方の祖父も、仏教神智協会の会長を務めた人物です。ダルマパーラは、植民地支配によってもたらされた宗教的な分裂に直面せざるをえないような環境で育ったわけです。Return to Righteousnessで、彼は後にこのように語っています。

 飲酒し、肉食し、快楽的な私の宣教師の教師たちとは対照的に、僧侶は忍耐強く禁欲的である。私は僧侶とのつきあいを好み、静かに隅っこに座って、たとえ私の頭ではとてもわからなくとも、その知的な話を聞くのが好きだった。

杉本良男『仏教モダニズムの遺産 アナガーリカ・ダルマパーラとナショナリズム』風響社、2021年、p.53

 しかし一方で、ダルマパーラはキリスト教の聖典の授業が得意で、聖書の一部を何も見ずに唱えることもできました。実際、後のダルマパーラの著作や講演には、聖書のことばや引用がいっぱい出てきます


神智学への憧れ

 さて、ダルマパーラの父はスマンガラやグナーナンダのパトロンだったので、ダルマパーラは小さい頃からこの二人と接していました。ですのでダルマパーラは、オルコットとブラヴァツキーがスリランカにやってくる前から、スマンガラやグナーナンダを通じて神智学協会のことを知っていました。

 1880年に、オルコットとブラヴァツキーがスリランカに初めてやってきた際には、ダルマパーラは二人に直接会って話を聞き、神智学にますます関心を深めました(なんてったって当時のダルマパーラはまだ10代です。いんたあねっとスラングで「中二病」などと呼ばれる時期であります)。ダルマパーラは1884年に、神智学協会への入会希望をオルコットに直接伝えて、年齢が満たなかったものの特例で認められました。オルコットが寄付を募るためにスリランカ各地を回る旅に出た際には、ダルマパーラも通訳として同行しました。

 彼らが訪れた地域の多くは、コロンボとは異なり、経済発展から取り残されていました。都会の裕福な家庭に生まれたダルマパーラにとって、農村部の状況を直接目の当たりにするのはおそらく初めての経験であり、地方には飲酒や貧困や犯罪や牛肉食といった問題が広く見られるという認識を抱きました。そして、これらの問題の根源には、外国の影響や仏教の衰退があると考えるようになりました。このような経験が、彼の思想の骨格を徐々に形成していくことになります。

 ともあれ、1880年代の後半を通じて、ダルマパーラは仏教神智協会でいろんな活動を行いました。オルコットの通訳もその仕事のうちの一つですが、翻訳も行いました。例えば、先ほど触れたオルコットの『仏教問答』(Buddhist Catechism)の簡略版を、シンハラ語に訳すのに携わっています。また、仏教神智協会の機関紙である『ことばの光線』(Sarasavi Sandaresa)の出版を軌道に乗せ、チャールズ・レッドビーター(1854-1934。神智学協会の初期の指導者です)が編集長を務めた『ブディスト』(The Buddhist)という英語の雑誌の発行に力を尽くしました。『ブディスト』は英語で書かれていたので、欧米や日本やオーストラリアなどでも読まれることになりました。結果的にダルマパーラの名を広め、彼の活動範囲を拡大することにつながりました。

 後にダルマパーラとオルコットの関係は悪化し、1905年にはダルマパーラは「仏教徒は誰も神智主義者たりえない」と宣言し、神智学協会から離反することになります。しかし、その後1920年代になっても、マハートマー書簡は霊感に満ちているなどと発言していますし、クートフーミ(神智学の教義でマハートマーだとされている人物です)に傾倒し、その弟子だと好んで自称してもいました。このように、神智学の思想はスリランカの近代仏教史上で最も重要な人物にも影響を与えたわけです。


『在家規律』とヴィクトリア時代の価値観

 さて、それではダルマパーラの仏教思想が従来のスリランカ仏教とどのように異なっていたのかを見ていきましょう。ダルマパーラは1898年に、『在家規律』(Gihi Vinaya)というシンハラ語で書かれたパンフレットを発刊しました。これはタイトル通り、在家信者が日常生活において守るべき約200種類の規定を定めたもので、版を重ねました。食事のマナーとか、トイレの使い方とか、清潔な衣服を着ましょうとか、朝目が覚めたら子供たちと一緒に仏に祈りを捧げて、五戒を守ることを誓うべきだとか、ポーヤ・デーには八斎戒を守るべきだとか、週に一度は説教を聞きにお寺に行くべきだとかいった規則が書いてあります。しかし、この『在家規律』には、従来のスリランカ仏教とは似ても似つかない要素が明らかに含まれています

 まず『在家規律』には、フォークとスプーンで食事すべきだとか、お通じに行くときは水を使う前にトイレットペーパーを使うべきだといったことが書いてあります。言うまでもなく、このような規範は従来の仏教で説かれていたわけではありません。西洋的な規範がそのまま採用されているわけです。ダルマパーラは、自分が育った新興の裕福な階級で行われていた西洋的な規範をもとに、ヴィクトリア時代(ヴィクトリア女王がイギリスに君臨していた1837年から1901年の期間)のイギリスのエチケット集をお手本にして、『在家規律』を書きました。在家の仏教徒が守るべきものだと言いながら、19世紀の西洋的価値を持ち込んだものになっているのです。

 ヴィクトリア時代のイギリスでは、産業革命を背景に富を得た新興の中産階級の人々には、厳格な一夫一婦制を理想とし、勤勉や禁欲や節制といった価値観を貴び、厳しい性道徳を支持する風潮がありました。この風潮は、ダルマパーラにも影響を与えています

 例えば、『在家規律』には女性の作法が説かれている箇所があるんですが、そこにはサリーとブラウスをおなかを出して着てはいけないという規定があります。ダルマパーラは、女性がおなかが露出するようなサリーを着たり、女生徒が足が出るようなスカートをはいたりするのはよくないことで、お腹も足も露出しない「ハーフ・サリー」を身につけるべきだと述べたりもしています。ですが、実際にはスリランカでは古くから、おなかが出るようなサリーを着る習慣が存在していました。ダルマパーラはそれを知っていながら、これはインドのケーララ地方の習慣が影響したものだなどと言ってごまかすということをやっています。

 当時のスリランカでは、キリスト教の宣教師による布教が性道徳に強い影響を与えていました。宣教師たちはミッションスクールで、キリスト教会的な性道徳を生徒に叩き込んでいました(先ほど申し上げたように、仏教学校はミッションスクールをモデルにしていましたから、その方向性が仏教学校でも採用されました)。ダルマパーラや、プロテスタント仏教の誕生に貢献した在家の指導者たちは、このラインに沿って厳格な性道徳を説きました。この性道徳が、在家信者の守るべき規範として、都市に住む新興の中産階級のあいだで受け入れられるようになっていったのです。その結果、「一夫一婦婚がスリランカの古くからの伝統である」という「物語」が新たにつくられました。
 
 しかし、これは事実ではありません。実際には、従来のシンハラ農村では一夫一婦婚のみならず一妻多夫婚の習慣も見られましたし、仏教もそれを許容してきました(多重婚の習慣を攻撃したのは、キリスト教の宣教師たちです)。ダルマパーラは、西洋的な価値に仏教という装いを施し、「仏教的正統性」を与え、新たな仏教を生み出したのです。「敵と戦っているうちに敵と似てきてしまった」のです。


「出家/在家」という区別の廃絶――新しい「伝統」の創作

 話がここまでくれば、プロテスタント仏教について述べることができます。先ほど申し上げたように、ダルマパーラの『在家規律』は、約200種類ものこまごまとした規定を守るよう在家に対して説いています。ここには、在家の生活全体に仏教が染みわたっているべきであり、在家こそが社会全体に仏教を浸透させるよう努力すべきだという思想が見てとれるわけです。

 問題の核心はここにあります。仏教の行方を決めるのは、サンガ(僧団)を構成する出家者だけではない。在家信者にも、仏の教えを守り、それを繁栄させていく責任がある。出家者した比丘(尼)だけでなく、在家信者を含めたすべての仏教徒に、仏教を実践し、仏教を広め、仏教を繁栄させていく責任がある。比丘(尼)だけでなく、在家も涅槃に至るための仏教の実践を行い、涅槃に至るように努力すべきなのだ。これこそが、プロテスタント仏教に顕著に見られる新たな思想なのです。

 このような考え方のどこが新しいのかわからないという方もおられるかもしれません。また、仏教の目標は涅槃に至ることだとされている以上、出家であろうが在家であろうが、涅槃を目指すのは当たり前のことじゃないかと思う方もおられるかもしれません。ここは重要なところなので、順を追って見てみたいと思います。

 まず、ちょっとだけおさらいをしておきましょう。第8回で述べたように、仏教では在家信者は、①不殺生戒(殺さない)・②不偸盗戒(盗まない)・③不邪淫戒(不倫などの道徳に反する性行為をしない)・④不妄語戒(嘘をつかない)・ ⑤不飲酒戒(酒を飲まない)という五戒を守るべきだとされています。五戒は言わば守るべき「心がけ」で、これを破った在家信者に対する罰則などはありません。

 また在家信者に対しては、出家者やサンガへ食事や薬や衣といった財物を施し(施)、戒を守って道徳的な生活を送ることで(戒)、死後に天上界に転生(生天)できるという教えが説かれました。これを施論・戒論・生天論と言います。比丘(尼)やサンガに布施をしたり五戒を守ったりすることには功徳があり、功徳を積むと良い果報があり、死後により良い場所に転生したりできるというわけです。

 これが在家信者が実践すべきとされる仏教の基本です。スリランカに限らず、アジアの在家の仏教徒のほとんどは、サンガに布施をしたり、現世利益を願ったり、儀式や呪術や祭りに加わったり、神仏に祈りを捧げたり、死者を供養したり、戒という倫理を守ったりすることを通じて、仏教を実践してきました。今で言うヴィパッサナー瞑想のような仏教瞑想を実践して「覚り」を目指していたわけではありません。ちなみに、南アジア研究を専門とする人類学者の杉本良男(1950-)は、次のように指摘しています。

 同じ仏教といっても、スリランカの仏教には、森の仏教(林住)と村の仏教(村住)との二つの存在形態がある。上座仏教の教義から見て、森の仏教が正統的であるが、じっさいは妥協の産物ともいえる村の仏教が常に主流であり続けてきた。そして、僧団になんらかの危機が訪れると、常に森の仏教から村の仏教への批判が澎湃として沸き起こり、論争が繰り返されてきた。それはすでに二千年にも及ぶ歴史を持っている。
 森の仏教は、上座仏教の伝統を忠実に遵守して、僧侶が人里離れた森の中に庵を結び、自己の修行に励む類の仏教のあり方である。正統的な仏教の伝統に棹さしているとはいえ、森住の僧院はスリランカの仏教寺院全体の一割にも満たない。これに対して、村の中に寺院をつくり、村の人びとと日常的につきあいをもつ村の仏教が圧倒的多数をしめている。村の人びとは、何かにつけて、こうした村の仏教寺院とのかかわりを持ちつづけている。

杉本良男『スリランカで運命論者になる 仏教とカーストが生きる島』臨川書店、2015年、pp.179-180、太字引用者

 伝統的にアジアの仏教徒の大多数は、在家であろうと出家であろうと、瞑想を通じて「覚り」を目指していたわけではありません。儀式を通じて現世利益を願ったり、戒という倫理を守ったり、死者供養を行なったりといった形で仏教を実践してきたのです。私が先ほど、「仏教徒というのは『覚り』を求める人々だ」という見方は固定観念に過ぎないのではないかと言ったのは、そのためです。「仏教徒というのは『覚り』を求める人々だ」と言うのであれば、アジア全域に存在してきた無数の仏教徒たちのほとんどは、仏教徒ではないと言うしかなくなってしまいます。繰り返しになるようですが、それではアジアに実際に存在してきた仏教のことを何も理解できないでしょう。

 在家も涅槃に至るための仏教の実践を行い、涅槃に至るように努力すべきだというのは、近代的で極めて新しい考え方なのです。少しだけ脱線すると、現代の世界では欧米を中心に、在家の生活を続けながら、仏教書や仏典や瞑想法のマニュアルなどを読んで、ヴィパッサナー瞑想などの仏教瞑想を実践している人々がいます。これは従来のいわゆる上座部仏教圏ではありえなかった、非伝統的で極めて新しい事態です。涅槃に至るための瞑想法は通常、出家者のためだけのものでした。出家者は伝統的に、瞑想を師匠について学んでいました。瞑想は1対1で個人的に指導されるものだったのです。瞑想を学びたければ、事実上出家するしかなかったのです。

 瞑想の実践こそが仏教の核心であり、瞑想は仏教になくてはならないものであると主張する人や、瞑想を実践しないと仏教を実践したことにはならないなどと主張する人が時々います。しかし、もしそれが正しければ、アジア全域に存在してきた無数の仏教徒たちのほぼすべては仏教徒ではないし、仏教を実践してこなかったのだというわけのわからないことになってしまいます。近年は欧米を中心に、在家の生活を続けながら仏教瞑想を行う人々が数多く出てきていますが、これは非伝統的な非常に新しい事態です。

 また、言ってみれば当たり前のことではあるのですが、そもそも仏教書や仏典や瞑想法が書かれた本などを読むということ自体が、識字能力や印刷技術の存在を前提とした話です。スリランカの場合、19世紀に入るまでシンハラ語の印刷物はほぼ皆無でしたし、文字化された仏典にしても、印刷されたテキストではなく手書きの写本でした。その写本は、ほとんど僧院にしかありませんでした。よって当然のことながら、在家が仏典を直接読み、そこから瞑想法を取り出したり、仏典に基づいて瞑想法を開発したり、それを自分で実践したりするなどということもありえなかったのです(誤解がないように大急ぎでつけ加えておきますが、私は出家せずに仏教瞑想を実践すること自体が良くないことだと言いたいわけでは決してありません。およそ2500年の仏教史全体から見れば、それは非伝統的な極めて新しい事態だいうことが言いたいだけで、それを悪いことだと言うつもりは毛頭ありません)。

 ちなみにダルマパーラは、指導者に頼らずに書物から瞑想法を学習した最初の仏教徒だと言われています。彼は1890年頃に、瞑想に関するパーリ語の写本を研究し、独自の瞑想法を開発したのです。興味深いことに、ダルマパーラが開発した瞑想法には、真言を唱える行法(!)などが含まれており、今日の我々がイメージする上座部仏教の瞑想とはかなり異なるものでした[Frost 2002: p956]。

 もっとも、ダルマパーラの瞑想法はその後、大きな広がりを見せることはありませんでした。ダルマパーラの時代は、在家の人々が瞑想指導者に出会う機会はほぼ皆無でした。スリランカを含めた上座部仏教圏で、在家による瞑想の実践が広まるようになるのは、第二次大戦後のことです。スリランカの場合、在家で瞑想を実践している人の多くは、ご多分にもれず中産階級の人々です(在家による瞑想の広がりという極めて新しい現象をめぐる問題については、後ほど述べることにします)。

 さて、在家の役割の問題について別の角度からも見てみましょう。前々回で述べたように、かつてタイ研究者の石井米雄は、タイの政治と宗教の関係を図式化し、正法・王権・僧伽(サンガ)の三元構造のモデルを提示しました。つまり、王権が僧伽を支援して物質的な基盤を与え、僧伽は正法を保持し、正法は王権を正統化するという三元構造になっているのだというわけです。この三元構造は、スリランカでも行われてきたと言えます。「サンガが危機に陥った際には、王様が介入してサンガを粛正したり、他国から出家の伝統を再導入したりする」ということも行われてきました。

 そして前回申し上げたように、この正法・王権・サンガという三元構造においては、在家は埒外ですここには、仏教がピンチに陥った際にはサンガを刷新するという発想はあっても、在家のあり方を改革するなどという発想はありません。つまり、仏の教えを保っていく責任は、在家ではなくサンガに属する出家者たちにあったのです。この点では在家は蚊帳の外に置かれていたのです。

 このように、「仏教の行方を決めるのは、サンガ(僧団)を構成する出家者だけではない。在家信者にも、仏の教えを守り、それを繁栄させていく責任がある。出家者した比丘(尼)だけでなく、在家信者を含めたすべての仏教徒に、仏教を実践し、仏教を広め、仏教を繁栄させていく責任がある」という思想は、非伝統的な非常に新しいものなのです。

 そういうわけで、スリランカで生まれた新しい仏教においては、個々の在家信者にも仏教を守っていく責任があり、在家も執着を捨てて仏教を実践し、涅槃に至ることを目指すべきだとされます。これは、出家してサンガに入らなくても、仏教徒は老若男女を問わず誰でも平等に、涅槃に向かって歩むことができるし、歩むべきだという考え方です。在家は在家であると同時に「出家」でもありうる。働いたり結婚したり子供をもうけるなどして世俗の世界で生きながら、同時に世俗を離れることができる。そういう話なのです。

 これは裏を返せば、伝統的なサンガの特権が揺らぐということでもあります。仏の教えを保持して受け継いでいったり、仏の教えを説いたり、瞑想を実践したりすることは、事実上比丘だけの特権でした。しかし今や、在家信者も印刷物という新たなメディアを通じて仏教の世界に触れることができるし、涅槃を目指して仏教を実践すべきだという思想が生まれたのです。サンガを通してのみ涅槃を求めることができるという発想が否定されることになるわけです。

 そうなると、従来のサンガを中心とした体制に在家の仏教徒が疑問を抱いたり、批判的になったりするなんてことも起きてきます。サンガや坊主と積極的に敵対するわけではないけど、坊主を尊敬するにしても、瞑想を実践し修行を積んだ少数の特殊な比丘のみを尊敬し、頭を剃って黄色い衣をまとっているというだけの坊主には敬意を払わない、ということも起きてきます。

 実際、ダルマパーラのReturn to Righteousnessには、「セイロンの比丘たちは、怠惰で、究極の真実(Paramattha Dhamma)を知らない。パーリ語の文法やサンスクリット語の韻律の生半可な知識だけで、今の地位を保っているのだ」とか「痰壺をいっぱいにするためだけに存在する比丘」などといった過激な文言が出てきます[ゴンブリッチ・オベーセーカラ 2002: p.338]。

仏教の内面化と、「迷信」(とみなされたもの)の排除

 また、教団を通してのみ涅槃を求めることができるという発想が否定され、出家も在家も平等に涅槃を求めることができるし、そうすべきだということになると、教団という制度的で外面的なものの価値が掘り崩され、個人の宗教的な責任が強調され、個人が己の内面に責任を持つべきだということになってきます。仏教が内面化され個人化されて、仏教は個人の内面の問題であり、個人の領域で生じる事態であるという考え方につながることになるのです。

 つまり、祭りや儀式や呪術や神々への信仰や習俗といった要素や、仏像などの「仏教美術」は仏教の本質的な要素ではなく二の次三の次であって、真に重要なのは人間の「こころ」のなかで起こっていることだ、仏教は「こころの科学」なのだという見方に結びつくわけです。人々を「同一の道徳的共同体に結びつけ」たり、生死を超えた「虚構の人格」によって人間社会の「統合を保ち」、「さまざまな社会形態を創出」し、人間の生死について物語り、人々を結びつけて共同体を築くという宗教の制度的な側面が軽視されることになるのです。このような宗教観は何ら普遍的なものではなく、偏りを含んだかなり特殊なものだということは前回述べたとおりです。

 先ほど述べたように、スリランカ仏教にはヒンドゥー教の神様に対する信仰や、死霊や悪霊にまつわる信仰といった要素が含まれています。ダルマパーラはそういった要素を「迷信」だとみなし、釈迦牟尼仏のみを信頼せよと主張しました。儀式や呪術的信仰のようなものは捨てて、お釈迦様が説いた“ピュアな”仏教に回帰せよと主張したのです。

「アイドルはウンコをしない」じゃないけど、お釈迦様の時代の仏教はウンコをしない“ピュアな”ものだったんだから、儀式や呪術のような夾雑物にまみれた実際に存在している仏教を否定して、“ピュアな”仏教に戻れというわけです。このような原理主義的な仏教観を説くわけです(これまでに何度も述べてきたように、釈迦の時代の仏教がウンコをしない“ピュアな”ものだったことを客観的に証明するすべはないんですけどね)。

 ちなみに、ダルマパーラはこんな人です。

アナガーリカ・ダルマパーラ

 見てのとおり、髪を剃っていません。ダルマパーラは正式に出家した比丘ではありません。サンガが行う受戒という正式な手続きを踏んで出家した人ではないのです。この人は、出家せずにアナガーリカ・ダルマパーラという法名を名乗ったという点でおそろしく革命的なのです。

 例えば、誰でもいいですけど日本の例をあげると、天台宗を中国から日本に輸入した最澄という人の場合、最澄という名前は得度(出家して仏門に入ること)した際に名づけられたものです(元々の幼名は三津首広野と言います)。法名というのは、手続きを踏まずに自分で名乗るものではありません。ところが、このドン・デイヴィッド・へーワ―ウィターラナという人は、受戒を通じた出家や剃髪を行わずにアナガーリカ・ダルマパーラと名乗り、八斎戒を守る生活に入りました。出家でも在家でもない新しい仏教徒のスタイルを提示したのです。これは、伝統的な出家と在家の区別を廃絶するものだと言えます。

 さて、どうでしょうか。おそろしくどこかで見たことがあるような仏教観だと思った方もおられるかもしれません。ダルマパーラとよく似た仏教観を開陳して、既存の日本仏教を攻撃する人は、今の日本にも一定数存在します。例えば、「釈迦が説いた“ほんとうの”仏教は『覚り』を求めて修行するものだった。だが、日本仏教は葬式や法事ばかりやっていて、習俗のなかに埋没してしまっている。“ほんとうの”仏教からかけ離れた堕落したものになってしまっている」とか「仏教は『こころ』の科学である」などといった類の仏教観は、日本でもしばしば見られるものです。とはいえここでは結論を急がず、もう少しダルマパーラの仏教について探ってみましょう。


十字架を背負ったダルマパーラ

 これまで述べてきたようにダルマパーラは、出家してサンガに入らなくても、仏教徒は誰でも平等に、瞑想を通じて涅槃に向かって歩むことができるし、歩むべきだという新しい考え方を提示しました。サンガを通してのみ涅槃を求めることができるという発想を否定するわけです。もうお気づきの方もおられるかもしれませんが、このような新たな仏教観は、前回述べたキリスト教のプロテスタントの発想と非常によく似ていますなぜなら、プロテスタント(抗議する者)というのは元をただせば、「教会の外に救済はない」(ラテン語でextra ecclesiam nulla salus)と説いていた既存のカトリック教会にプロテスト(抗議)した人々だからです。

 前回述べたように、中世のローマ・カトリック教会には、教皇が地上におけるイエスの代理人であり、教会こそが神の恩恵につながることができる唯一の機関であるという意識がありました。カトリック教会は聖職者と一般信者を厳しく区別し、一般信者は教会の聖職者が行う秘蹟(サクラメント)と呼ばれる儀式によってのみ神の恵みが受けられると主張しました。「教会の外に救済はない」というのが、カトリック教会の中心的な教義の一つとなったのです。

 プロテスタントを成立させるきっかけになった宗教改革において、中心的な役割を果たしたルターは、この「教会の外に救済はない」という主張を全面的に否定しました。ルターは、人が神によって「義とされる」(ただしい人間であると認められる)のは、ただ内面的な信仰だけによるのであり、善い行いやサクラメントの儀式によるのではないと主張したのです(信仰義認説)。「聖書のみ」というスローガンを掲げ、聖書こそが最高の権威だとして、ローマ・カトリック教会の権威ではなく聖書のみを信仰の中心にせよと主張しました。ローマ・カトリック教会によって独占されてきた聖書を解釈する権利は、全キリスト教徒に与えられるべきだと言ったのです。神と人のあいだにカトリック教会が介在することを否定したのです。

 神と人のあいだにカトリック教会が介在することを否定するということは、聖職者と一般信者を厳しく区別するカトリック教会の立場を否定するということでもあります。聖職者の権威が否定され、神の前ではキリスト者は誰もが平等に祭司だという話になるわけです。このようなルターの考え方は、万人祭司主義と呼ばれています。

 また、ルターは聖書をドイツ語に訳しています。中世のローマ・カトリック教会では、聖書はラテン語訳に統一されており、ラテン語がわからない一般人が聖書を直接読む方法はほぼ皆無でした。一般人は聖書を直接読むのではなく、カトリック教会の聖職者の説教を通じてキリスト教に触れていました。聖書の解釈は、少数の聖職者や知識人に独占されていたのです。

 ところがルターは、当時のドイツの各地方の方言を取り入れながら、聖書をドイツ語に翻訳しました。ルターによるドイツ語訳聖書は、15世紀に実用化された活版印刷に支えられて広く普及し、近代ドイツ語の統一がはかられたとも言われています。ともあれ、印刷機という新たな技術を背景に、一般人が教会を通さずに、聖書を直接読む道が開かれたわけです。

 宗教改革の流れは、信仰を個人的なものへと純粋化し、内面化するものでした。教会の装飾や儀礼といった外面的な要素や制度よりも、内面的な信仰が重視されるのです。

 すでにセバスティアン・フランク(Sebastian Franck)は宗教改革の意義を明らかにしようとして、いまやすべての●●●●キリスト者は生涯を通じて修道士とならねばならなくなった、としているが、これはこうした宗教意識の性質の説明としてまことに核心を衝いたものだ。

マックス・ヴェーバー/大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫、1989年、p.207、傍点原文

 さて、話がここまでくれば、私が何を言いたいのかわかったという方も多いでしょう。そうです。ダルマパーラの仏教観は、キリスト教のプロテスタントの立場とよく似ているのです。「出家してサンガに入らなくても、仏教徒は誰でも平等に、瞑想を通じて涅槃に向かって歩むことができるし、歩むべきだ」という考え方は万人祭司主義と同型です。「儀式や呪術的信仰のようなものは捨てて、釈迦が説いた“ピュア”でウンコをしない仏教に回帰せよ」というのも聖書中心主義と重なる考え方です。儀式や祭りや習俗や宗教美術といった外面的な要素や、仏教の制度的な側面や、人々を結びつけて共同体を形成する側面が軽視され、己の内面の方が重視されるという点もプロテスタントと同じです。

 さらに言えば、印刷技術という新たな要素が絡んでいる点でもプロテスタントの誕生と共通性があります。先ほど申し上げたようにスリランカでは、19世紀に入るまでシンハラ語の印刷物はほぼ皆無でした。文字化された仏典にしても、印刷されたテキストではなく手書きの写本でしたし、その写本はほとんど僧院にしかありませんでした。

 そこに西洋人によって印刷機が持ち込まれ、宣教師たちがキリスト教に改宗するよう促すパンフレットや定期刊行物の類を刷ったりするようになると、状況が変わってきます。仏教側もそれに対抗してキリスト教側の手法を取り込み、仏教系の新聞や定期刊行物を世に出すようになったのです。1862年には、スリランカ史上初のシンハラ語新聞である『ラク・ミニ・パハナ』が創刊されました。その後、グナーナンダが関与した『ラク・ミニ・キルラ』とか、スマンガラが関与した『ランコ―パラカヤ』とか、仏教神智協会の機関紙である『ことばの光線』などが刊行されていきました(『ことばの光線』ではダルマパーラもコラムを執筆していました)。

『ことばの光線』は、仏教徒に広く自分の意見を表明する場を与え、それを全国に行き渡らせる機能を果たしました。印刷技術という新たな要素によって成立したメディアが、それまでサンガや僧侶が独占していたパーリ語仏典に関する知識を人々に知らしめ、新しい仏教を支えたのです。ともあれ、敵に抵抗しているうちに敵に似てきてしまうということが起こったのです(ダルマパーラは幼い頃からキリスト教のミッション・スクールで学び、カトリックや国教会をハシゴましたが、親族の多くは熱心な仏教徒だったということを思い出してください)。

 ここで、1899年5月のダルマパーラの日記を見てみましょう。

 五日―ボードガヤーにて。[仏陀がその下で悟りを開かれた]聖なる菩提樹の下で昼のひとときを過ごす。ああ、何という至福だろう。だが私はいつ、煩悩のない至高の境地に達することができるのだろうか。私の心の中に平安が訪れるのはいつのことだろうか。
 六日―ガヤーにて。ボードガヤ―の聖地に永遠にとどまって、瞑想(dhyāna bhāvanā)を続けることができたらどんなにいいだろう。今、暑い風が吹きつけている。だが瞑想のおかげで、私の心の中は穏やかだ。
 八日―多くの人たちに法を説いた。有益な仕事を終えたあとは、身体は疲れているが、心は豊かになる。だがそれでもまだ、私の中には煩悩が残っている。しかしそれも、すぐに滅することだろう。

リチャード・ゴンブリッチ、ガナナート・オベーセーカラ/島岩訳『スリランカの仏教』法蔵館、2002年、pp.323-324

 インターネット上でも、在家の立場で仏教瞑想を実践しながら、自分の身心や実存の変化について、(ここまで大仰ではないにしても)ダルマパーラと同じように綴っている方はおられます(繰り返しになりますが、私はそれを悪いことだと言っているわけではありません)。およそ2500年にわたる仏教史において、涅槃を求める者が存在し続けてきたことは間違いありません。しかし、ダルマパーラのような形で涅槃の探求にまつわる感懐を書き記した者は、近代以前には存在しませんでした。ダルマパーラは、自己の苦悩や感懐や、己が涅槃に向かって向上してゆくことに対する責任感を、まさにプロテスタントの宣教師のような言い回しで語ってみせた最初の仏教徒の一人なのです。


プロテスタント仏教の二重の意味――創作される「伝統」

 話がここまできたことですし、ガナナート・オベーセーカラが提唱した「プロテスタント仏教」ということばが何を意味しているのかを明らかにしておきましょう。このことばには、二重の意味あいがこめられています。

①外に向かっては、西欧(特にイギリス)の植民地支配に対してプロテスト(抗議)する仏教
②内に向かっては、キリスト教のプロテスタントと同型の倫理を基調として、神々への信仰や儀礼や呪術を「迷信」とみなして排除しようとする仏教

 私がこれまでに述べてきたのは、②に関するお話です。ダルマパーラは植民地支配下でイギリス流の教育を受け、英語やキリスト教や西洋文化や近代科学と接触することを通じてスリランカ仏教の「伝統」に目覚め、従来の仏教を近代的・プロテスタント的に改変した新しい仏教を生み出したのです。仏教の語彙をプロテスタントの「文法」に載せて語る新たな仏教が生まれたのです。このプロテスタント仏教が、植民地支配下のキリスト教学校で、英語によって近代的な教育を受け、官僚・実業家・弁護士・医師・教師といった職業に就いて、都市で暮らす新興の中産階級のあいだに受け入れられていったのです。


サンガの権威の低下

 ともあれこうなってくると、従来のサンガの権威は低下せざるをえなくなってきます。これまでは仏典はサンガによって保持されており、説法をすることも瞑想を実践することも、事実上比丘だけの特権でした。しかし今や在家信者も、サンガや僧侶を介せずに印刷物という新たなメディアを通じて仏教の世界に触れることができるし、在家信者も涅槃を求めて努力すべきだという話になりました。説法の面でも瞑想の面でも、サンガの特権が在家によって掘り崩されることになったのです。

 従来は、仏教の教義はサンガに属する比丘の手中にあり、説法をするのはほとんど比丘の特権でした。在家信者は主に、ジャータカ(釈迦の前世の物語です。パーリ仏典では小部に収録されています)が語る仏教説話や、それを翻案したシンハラ古典文学や、有名な経典などの内容を比丘から口伝えで聞いて、仏の教えに感化されていました。比丘は、村の知識人としての役割を果たしていたのです。

 しかし、キリスト教系の学校で、英語による教育を通じて近代的な知識や世界観に触れる者が増えたり、印刷技術によってそれまで比丘が説いていた内容が印刷され出回るようになると、話が変わってきます。比丘の説法を聞かずとも、印刷物を通じて仏教の世界にアクセスすることが一応はできるようになりましたし、従来型の比丘は、西洋人が持ち込んだ近代的な知識のことなど知らずにいました。かくして、比丘は村の知的リーダーではいられなくなったのです。

 その後のスリランカでは、在家が説法を行うということも増えていきました。在家の人間がアビダンマの哲学を解説したり、瞑想の重要性に焦点を当てて講義をしたりするなんてことも起きてきます。これもまた、どこかで見たような光景であります。かつての日本でも、お坊さんが村の知識人としての役割を果たしていた時代があったのをご存じの方も多いでしょう。また、ただのサラリーマンのくせに仏教沼にのめり込んで、アビダルマがどうの中観がどうの唯識がどうの後期密教のタントラがどうの馬祖禅がどうの看話禅がどうの本覚思想がどうのと、noteやSNSでクダをまくどこぞの誰かのような輩が出てくるのも、根は同じ現象だと言っていいでしょう。

 あるいはこう考えてもいい。いま急に仏教に興味を抱いたとして、その時、あなたはまずどこに行くだろうか? 自分の檀那寺の住職に相談に行く人はまずいないだろう。まずは図書館、あるいは巨大書店の宗教の棚をみるのではないだろうか。そこで最初に手に取る本は、たとえば五木寛之の著書であったりするかもしれない。あるいは、さらに詳しい知識を求めていたら、とりあえず大学教授の肩書きのある執筆者の書いたものを探すだろう。そして、それらの仏教書で得心すれば、寺に参拝することもないかもしれない。読書だけで完結する仏教、居士仏教者の著作、大学という権威。こうした形の仏教というのは、やはり明治以降になって形成された仏教としか言いようがないだろう

大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎編『増補改訂 近代仏教スタディーズ』法蔵館、2023年、p.vii、太字引用者

 ダルマパーラの少し後の時代に見られたやや極端な事例をあげておくと、1941年に設立されたヴィナヤウァルダナ・サミティヤ(仏教の律を改善するための協会)という在家の仏教運動があります。ヴィナヤウァルダナ・サミティヤは、サンガの比丘の堕落はもはや改善不能なレベルに達しており、サンガの“本来の”機能は完全に廃れてしまっていると考えました。

 そこで彼らは、かつてのパーナドゥラ論争などの、キリスト教と仏教の一連の論争をモデルにして比丘に公開論争を挑み(実に皮肉なことです)、比丘の知識や行いをこき下ろそうとしたのです。ヴィナヤウァルダナ・サミティヤはさらに、説法を行うという比丘の役割それ自体に疑問を呈するようにすらなっていきました。彼らはそうすることで、既存の仏教の因習を一掃して、“ピュアな”仏教に立ち戻ることができると考えていました。この運動は一時的に影響力がありましたが、その後フェードアウトしていきました。とはいえ、プロテスタント仏教の流れが、このような運動をも生み出したのは事実です[ゴンブリッチ・オベーセーカラ 2002: pp.347-348]。


出家の在家化

 ともあれダルマパーラは、正式に出家せず、非僧非俗の新たなスタイルを提示し、在家信者も出家のように涅槃を求めて禁欲的に努力すべきだという思想を示し、主に新たに勃興してきた中産階級の人々に影響を与えました。これは言い換えれば、従来のスリランカ仏教で厳格に行われていた出家と在家の区別に揺らぎが生じ、「在家の出家化」が起こったということです。このような揺らぎが生じた結果、逆に「出家の在家化」とでも言うべき事態も起きてきます。近現代のスリランカでは、比丘がプロテスタントの牧師のごとく、社会的な活動や政治的な活動に関与するという新たな現象が見られるようになったのです。

 例えば、刑務所で受刑者などに対して教育を行い、改心するよう導く教誨師になったり、病院に専属したりといった形で、社会的な団体に専属して仕事をする比丘が出てくるようになります。軍隊に専属する従軍僧(!)が出現したり、看護婦の労働組合を比丘が指導するなんていう現象も起きてきます。また、まるでキリスト教の宣教師のようにわざわざ海外にまで出かけていって仏教を布教する比丘や、給与をもらいながら学校で仏教を教える比丘も出てきます。比丘(尼)が対価や利益を求めて労働を行なうことは、サンガの運営規則である律に抵触するのですが、第二次大戦後は、比丘が給与の支払われる学校教師になることは珍しくなくなります。

 1970年代には、次のような極端な事案も起きています。ナクルガムウェ・スマナという比丘が、法律大学を出て弁護士登録を申請(!)して、議論を巻き起こしたのです。結局この申請は最高裁で却下されたのですが、彼は政府の官僚機構で職を得ることになりました[ゴンブリッチ・オベーセーカラ 2002: pp.343-344]。

 ほかにも、露骨に政治活動を行う「政治比丘」(political bhikkus)と呼ばれる坊主たちも出現しました。政治比丘はすでに第二次大戦前に存在しており、そのなかには、カーストを否定した釈迦の思想と、階級の平等を主張するマルクス主義は一致するなどと主張する坊主もいました。比丘は世俗の政治にコミットすべきではないと主張する人々もおり、比丘が政治に関与することの是非が政治問題にまでなりました。

 以上のような現象は、出家と在家の区別を廃絶しようとするダルマパーラの理念が浸透した結果だと考えることができます。髪を剃らずに非僧非俗で生きるというダルマパーラのスタイル自体は普及しませんでしたが、出家と在家の区別を廃絶するという理念は、広く影響を及ぼしていったわけです。


「仏教と科学は一致する」という主張

 さて、プロテスタント仏教のその他の特徴も見てみましょう。プロテスタント仏教は、「仏教は哲学であって宗教ではない」「仏教は『合理的』で『科学的』なものである」とも主張しました。ダルマパーラにも、「仏教は科学的宗教である」とか「仏教は他の科学の知識に等しいものだ」という発言は見られます。

 この種の仏教観は、近現代においては世界中で見られるものです。私が最近いんたあねっとで目にしたものだけを適当にあげても、「空の思想は相対性理論と一致する」「華厳思想と量子力学は一致する」「日蓮上人の教えは最先端の科学と一致する」「仏教と脳科学は一致する」などといったものがあります。前回取りあげた引き寄せ系の自己啓発本もそうですが、この手の主張を行う人々のあいだでは、どういうわけか量子力学が大人気で、自分の主張と量子力学が一致すると主張したがる人がいっぱいいます。ちなみに最近は、進化心理学と仏教の親和性を主張する本もあります。

 近代科学と仏教をすりあわせようとする説は今に始まったことではなく、近代以降に手を替え品を替え出現し続けてきました。こうした説においてはどういうわけか、仏教は最先端の科学と一致するとされます。

 仏教と科学について論じた文章は、近代以来、たくさん書かれており、現在もそうした本が発売されていますが、面白いことに、その場合、仏教は必ず最先端の科学と一致するとされます。不思議ですね。なぜ、八十年前の誰それの科学理論とよく似ているなどとならないのでしょうか。アインシュタインの相対性理論が有名になった時も、戦後の量子力学に基づくニューサイエンスのブームの時も、必ず「仏教は最先端の科学と一致する」と言うのですよ。科学の権威にすがるようで、ちょっと情けないですね。私は、仏教はいわゆる「宗教」でなくても構わないし、科学と一致しなくても全く構わないと思うのですが、仏教は科学と矛盾しないと言う人は、必ず最先端の科学と一致すると言うのですね。

石井公成「東アジア諸国における『大乗起信論』の受容と展開」『衆會』第26号、九州教学研究所、2021年

 ダルマパーラもこの例にもれません。Return to Righteousnessでダルマパーラは、当時の最先端だった進化という概念についてこう語っています。

 進化についての仏陀の教説は明快で広範である。(アレンによれば)私たちは宇宙について自然法にしたがって整然たる秩序のなかで自己展開する不断のプロセスだと考えるように求められている。

杉本良男『仏教モダニズムの遺産 アナガーリカ・ダルマパーラとナショナリズム』風響社、2021年、p.133

 ダルマパーラのなかでは、釈迦は進化論を説いたことになっているのです。前回述べたように神智学は、近代において宗教と科学のあいだに亀裂をもたらした進化という概念を宗教の領域に取り込み、両者を融合させようとしました。また、繰り返しになりますがブラヴァツキーは、神智学は宗教ではなく神聖な知識または神聖な科学であるとして、自分たちがやっていることは宗教ではなく科学であると主張していました。ダルマパーラはこういった点では、ブラヴァツキーと同じ方向性をとっています

 近代における心霊現象へのアプローチの仕方を決定づけているのは、超自然的な現象を科学的に説明しようとする強迫観念である。

吉村正和『心霊の文化史』河出ブックス、2010年、p.172、太字引用者

 この種の主張はダルマパーラにだけ見られるものではなく、プロテスタント仏教に一般的に見られるものです。例えば、仏教学者で、外交官でもあったG・P・マララセーケーラ(1899‐1973)は、次のように言っています。

 ブッダは人類史上最初の偉大な科学者であった。ブッダは科学者が今になって発見したことをすでに発見していた。この世には物質と呼べるものも、精神と呼べるものも個別には存在せず、これらは絶えず作用し合う力の結果として存在し、消えてはまた現われる、ということを……。

リチャード・ゴンブリッチ/森祖道・山川一成訳『インド・スリランカ上座仏教史』春秋社、2005年、p.326

 これまた、令和の日本でも見られる仏教観です。もう一例あげましょう。1960年代頃に、新聞やラジオを通じて中産階級の仏教徒たちに大きな影響を与えたと言われている大学教授のK・N・ジャヤティレケ(1920‐1970)は、釈迦が説いた輪廻説が科学的に証明可能であることを示そうとしたり、釈迦の教えがマルクスやフロイトやヴィトゲンシュタインなどの理論を先取りしていたことを証明しようとしたりしました。

 このような主張が広まったためスリランカには、「仏教は哲学であって宗教ではない」などと主張する仏教徒が一定数存在するようになりました。

 たとえば、われわれは、コロンボのスラムにある寺院で、中年の英語教師が、気分をよくするために、また彼の気分を害した人に復讐するために、カタラガマ神、フーニヤン神、カーリー女神に供物を捧げに来たところに出くわしたことがあるのだが、そのとき彼は、自分はローマ・カトリックの家に生まれたのだが、仏教だけが「作用と反作用」を説く唯一の宗教なので、仏教に改宗したのだと説明していた。

リチャード・ゴンブリッチ、ガナナート・オベーセーカラ/島岩訳『スリランカの仏教』法蔵館、2002年、p.333

 先ほども申し上げましたが、カーリーは血と殺戮を好むヒンドゥー教の女神です。まぁお釈迦さんも、後世の人々から進化論を説いていたとか、マルクスやフロイトの理論を先取りしていたとか、作用と反作用を説いたなどと言われることになるとは想像しなかったでしょう。スリランカ出身の長老のなかには、日本にやってきて「仏教は宗教ではない」「仏教は『科学的』である」「仏教は『こころ』の『科学』である」などと説いている人もいますが、それはスリランカ仏教の以上のような流れを汲んだものです


「仏教徒の宗教は宗教ではない」?

 ところで、「仏教は宗教ではない」というプロテスタント仏教の主張には、次のような問題もあります。[ゴンブリッチ・オベーセーカラ 2002: p334-335]によれば、1965年にスリランカ政府が発行した教科書には、文字通りには「仏教徒の宗教は宗教ではない」としか訳せないシンハラ語の一文がある(!)のだそうです。そのシンハラ語の一文というのは、Buddhāgamaya āgamayek noveというものです。āgamaは、現代のシンハラ語では「宗教」を意味する語です。つまり、この文は文字通りには、buddha(仏)のāgama(宗教)はāgamaではないということです。

 なぜこんな矛盾したケッタイな文ができあがるのかというと、この教科書を書いた人が、自分の持っている英語の概念を一語一語シンハラ語に翻訳しようとしたからです。そもそもプロテスタント仏教を生み出したのは、英語で教育を受けた人々でした。プロテスタント仏教が仏教を語る際に用いたシンハラ語は、英語から語義を借用したものです。つまり、プロテスタント仏教が語ったシンハラ語は、一般的に用いられるシンハラ語と異なり、英語の翻訳語だったのです。先ほどの「仏教徒の宗教は宗教ではない」というスリランカの教科書の一文は、昔からのシンハラ語ではなく、西洋語を介して仏教を語ることばを紡ごうとした結果生まれたものだということになります。

 英語とプロテスタント仏教の距離をめぐっては、こんなエピソードもあります。シンハラ人の利益を尊重する「シンハラ人優遇政策」を掲げ、シンハラ・ナショナリズムを煽って1956年の選挙で圧勝し、首相に就任し、独立後のスリランカ政治に大きな影響を与えたソロモン・バンダラナイケ(1899‐1959)という政治家がいます。興味深いことに、彼は1944年に、ブッダの教えや仏教の文化や教義を研究するためには、シンハラ語よりも英語の方が有用であると発言(!)したことがあります。以上のような一連の現象は、植民地支配下で生まれたプロテスタント仏教という現象がいかなるものであるのかを雄弁に物語っています。

 ちなみに、バンダラナイケは英国国教会の信者の裕福な家庭に生まれて育った人で、イギリスのオックスフォード大学に留学して哲学や政治学や経済学などを学び、イギリスで初めて仏教について学んだと述懐しています。ダルマパーラは、イギリス流の教育を受け、英語やキリスト教や西洋文化や近代科学と接触することを通じてスリランカ仏教の「伝統」に目覚めた人でしたが、ここでもそれと同じようなことが起きているわけです。


結語

 さて、本稿で私は、以下の問いを扱ってきました。


〇「テーラワーダ仏教(上座部仏教)は初期仏教であり、釈迦が説いた『合理的』な“ほんとうの”仏教を忠実に継承している」という、日本(の一部)で見られる上座部仏教に対するイメージは、一体どこから出てきたのか
〇日本(の一部)でまことしやかに語られている上座部仏教のイメージは、なにゆえスリランカやタイやビルマなどに実際に存在している仏教から大きくかけ離れているのか

 こうした問いに対する答えは、すでに半分以上出てしまいました。19世紀以降に、仏教が西洋の文化やキリスト教や近代科学と接触した結果、新しい仏教が生み出されました。日本で語られる「合理的」で「科学的」で「釈迦の教えに忠実」な「上座部仏教」なるものは、そのできたてほやほやの新しい「伝統」を受け継いだものだったわけです。そういう語り口で仏教を語る長老や仏教関係者は、上座部仏教で実際に行われているヒンドゥー教の神々への信仰や、占星術や呪術や悪魔祓いなどの要素については教えてくれなかったりするわけです。

 正統的な仏教を求めてスリランカにやってきて、村の仏教の実情を見た日本や欧米の僧侶などが、「これは本当の仏教ではない」などと憤慨するのによく出会うが、まことにもって余計なお世話である。

杉本良男『スリランカで運命論者になる 仏教とカーストが生きる島』臨川書店、2015年、p.182

 わたしたちがスリランカでお目にかかる仏教の多くの部分は、伝統の皮をかぶった新しい仏教である。最古の伝統に連なる上座仏教を奉ずるとはいえ、この間複雑な歴史的過程を経ており、また、十八―十九世紀にはむしろ外来のヒンドゥー教徒王が、仏教王権の性格を再建教化した経緯もある。それだけに、もっとも純粋仏教に近いと評価する向きと、そこから外れるとぼろくそにいう向きとが混在している。いずれも、外からさまざまなフィルターをかけたイメージに支配された評価にすぎない。

同前、p.194

  ただし、誤解のないように大急ぎでつけ加えておきますが、私はスリランカで生まれたプロテスタント仏教が、できたてほやほやのつくられた「伝統」だから無意味だとか無価値だなどという見解はとりません。私は、そのような見解には全く同意しないとここで明言しておきます。先走って言うと、本稿で扱ったプロテスタント仏教は、新たな「仏典」を創作し、新しい「宗派」を立ち上げようとする流れではなかったかと私は考えています。

 例えば、『般若経』や『法華経』や『華厳経』や『金剛頂経』や『カーラチャクラ・タントラ』などの大乗経典や密教経典は、古い時代の仏教とは異なるより新しい教えが含まれています。しかし、だからといってこれらの経典が無価値だということには全くなりません。それと同様に、プロテスタント仏教も、できたてほやほやの新しい仏教だからといって無価値だということには全くなりません。プロテスタント仏教も、名もなき人々が大乗経典や密教経典を創作して新たな仏教を生み出していったのと同様に、近代という巨大な新しい事態に対応するために、新しい「仏典」を創作し、新しい「宗派」を立ち上げようとするものではなかったか(この点については、次回以降に述べる予定です)。

 字数がかなり多くなってきたので、今回はいったんこれくらいにします。

次回はこちら

参考文献

<和文>
石井公成「東アジア諸国における『大乗起信論』の受容と展開」、『衆會』第26号、九州教学研究所、2021年
マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫、1989年
大谷栄一編「書評特集 末木文美士『明治思想家論』『近代日本と仏教』を読む」『南山宗教文化研究所 研究所報』第16号、2006年
大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎編『増補改訂 近代仏教スタディーズ』法蔵館、2023年
川島耕司『スリランカと民族』明石書店、2006年
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リチャード・ゴンブリッチ、ガナナート・オベーセーカラ『スリランカの仏教』島岩訳、法蔵館、2002年
リチャード・ゴンブリッチ『インド・スリランカ上座仏教史』森祖道・山川一成訳、春秋社、2005年
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杉本良男・高桑史子・鈴木晋介編著『スリランカを知るための58章』明石書店、2013年
杉本良男『スリランカで運命論者になる 仏教とカーストが生きる島』臨川書店、2015年
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ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論3』今村仁司ほか訳、岩波文庫、2021年
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星飛雄馬『60分でわかる! 仏教書ガイド』Evolving、2017年
前田惠學『前田惠學集 別巻 2 現代スリランカの上座仏教』山喜房仏書林、2006年
吉永進一『神智学と仏教』法蔵館、2021年
吉村正和『心霊の文化史』河出ブックス、2010年
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