「即」という名のアポリア 第29回

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イントロ

 前回でインド中期大乗の話は一区切りがついたので、今回は後期大乗の時代の仏教をのぞいてみたいと思います。この時代に大きな勢力になったのが、密教です。密教というのは、インド大乗の最終段階において展開された仏教です(密教という語は「秘密仏教」を略したものだとされます)。時期的には7世紀頃に、『大日経』や『金剛頂経』といった本格的な密教経典が新たに出現するようになり、大きなムーヴメントになっていきます。

 さて、「密教」は「秘密仏教」のことだと申し上げました。この「秘密」というのはどういうことかというと、密教は、「仏の究極の教えは難解で奥が深いものであるから、すべての人に仏の究極の教えを公開するわけにはいかない。密教は選ばれた特別な者にしか説き明かされない秘密の教えである」という立場をとります。このような立場をとる密教では、これまでに見てきた部派や大乗などの、密教ではない仏教のことを「顕教」と呼ぶことがあります。これは「秘密にされることなく公開され、顕(あきらか)に説かれている教え」ということです。密教の立場では、この雑文で今までに取りあげてきた仏教はすべて「顕教」です。この「顕教」ということばには、「仏が初心者に対して方便で説いたレベルの低い教えであり、究極の教えではない」というニュアンスがあります。レベルの高い究極の教えは、選ばれた者にしか公開されないというわけです。

 この「密教/顕教」という区別は、言うなれば「大乗/小乗」という区別と似たようなところがあります。第11回でも申し上げたように、紀元前後に新たに書かれるようになった大乗経典には、それまでの部派仏教に「小乗」というレッテルを貼って、大乗の方が優れているのだと主張するものがあります。「顕教」ということばもこれと同じで、密教の側がそれまでの仏教に貼りつけるレッテルだという面があります。

 ただ、ここでちょっとだけ厳密な話をすると、「密教」というのは東アジア仏教で用いられている呼称で、インドには「密教」に対応することばはなかったようです。サンスクリット語のmantrayānaとかvajrayānaといったことばが「密教」に対応する語だと言われることもありますが、密教研究者の松長有慶によればこれには問題があります。mantrayānaという語は11世紀以後に成立、あるいは著述された文献に散見されるに過ぎない上に、明確な意味をもって用いられたものではなく、後世に至るまで独自の概念をもったことばとして広く用いられるには至らなかったと見てよいと松長は指摘しています。また松長は、vajrayānaも『金剛頂経』系統の密教を指すことばであり、密教全般を指す語ではないとも指摘しています(松長有慶「mantrayāna, mantranaya, vajrayāna」参照。『印度學佛教學研究 Vol.21 , No.2』所収)。

 このように、「密教」という日本語にピタリと対応する当時のインドのことばは見当たらないようです。とはいえ、『金剛頂経』のような本格的な密教経典で説かれる教えと、それ以前の仏教の教えを区別する考え方自体は存在していました。例えば、8世紀頃のブッダグヒヤという人が書いた『大日経広釈』という書物には、波羅蜜を行って「覚り」に至る方法と、真言の読誦によって「覚り」に至る方法の二種類が説かれています。

 また、11~12世紀頃のアドヴァヤヴァジュラという人が書いた『タットヴァラトナーヴァリー』という文献にも、大乗には「波羅蜜のやり方」(pāramitānaya)と「真言のやり方」(mantrayana)の二種類があると書いてあります。また、同じ大乗でも「真言のやり方」は「波羅蜜のやり方」よりも深い教えであり、通常の人間ではアクセスできないとも言っています。ですので、密教以前から説かれていた波羅蜜を実践する「波羅蜜のやり方」はいわゆる「顕教」に相当し、「真言のやり方」は「密教」に相当することになります(「真言」というのが何なのかについては後ほど説明します)。このような区別自体はインドでもなされていたわけです。
 
 話が細部へと脱線しました。以上のような、「仏の究極の教えは難解で奥が深いものであるから、選ばれた特別なものにのみ説き明かされる」という密教の考え方は、古い時代の仏教とは異なっています。例えば、第26回以降何度か取り上げているパーリ長部の『涅槃経』には、こうあります。

 わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は、存在しない。

中村元訳『ブッダ最後の旅』岩波文庫

 ここで釈迦は、自分には秘密の教えなど存在しないとはっきり言っています。良いか悪いかは別として、釈迦の時代からはるか後世に登場した密教は、かつての仏教とは異なる考え方をするわけです。

現世肯定的傾向の昂進と仏身の問題

 ともあれ密教についてもうちょっと具体的に見ていきましょう。密教と一口に言っても、様々な要素を含んだ複雑な文化現象ですから、その特徴を一言で言うのは難しいものがあります。それでもあえて、密教と呼ばれる現象に広く見られる特徴をまず一つ申し上げるなら、今までこの雑文で見てきたいろんな仏教と比べると、現世肯定的な傾向が強いということが言えるように思います。

「現世肯定的な傾向」ということで言うと、密教以前の大乗経典でも、時代が下るにつれて現世肯定的な傾向が強まっていく側面はありました。第27回で見たように、中期大乗の時代に展開していった如来蔵思想を説く大乗経典には、仏の法身は「常楽我浄」であると説くものや、すべてを法身に帰す一元的世界観を語るものがあります。如来蔵思想では、空ではない永遠に不滅な領域が認められており、「すべては空である」と説く初期大乗の空の思想よりも現世否定感が緩和されていると言えます。

 密教では、さらに現世肯定的な傾向が強まることになります。具体的に言うと、先ほど触れた『大日経』や『金剛頂経』といった本格的な密教経典では、この世のすべては仏のあらわれであるという思想が説かれているのです。『大日経』には、次のような一節があります。

 そのとき、普賢菩薩をはじめとする菩薩たちと、秘密主である金剛手をはじめとする金剛を持つ者たちは、毘盧遮那如来の不思議な力に加護されて、みずからの身体が如来のそれと異ならないことを勇ましく示そうとする境地に入り、続いてみずからの言葉と心も如来と異ならないことを勇ましく示そうとする境地に入った。(もっとも)かれらが、如来の身体・言葉・心に入ったのか、あるいは出てくるのかということは、他の誰にもわからなかった。
 しかしながら、世尊毘盧遮那如来が、身体と言葉と心のあらゆる行為によって、すべての生けるものに対して、いたるところで秘密の真言の言葉を用いて、教えを説いているのが見られたのである。

頼富本宏訳『大乗仏典 中国・日本篇8 中国密教』中央公論社、太字引用者

 まず、ここに出てくる「金剛手」というのは金剛手菩薩のことです。多くの密教経典で、仏と衆生を結ぶ接点として重要な役割を果たしている菩薩で、金剛薩埵とも呼ばれます。金剛手菩薩(金剛薩埵)はその後のインドやチベットではさらに出世して、ここに登場する毘盧遮那如来よりもエラいということになっていったりするのですが、その話はまた後ほどすることにします。

 次に、ここに出てくる「毘盧遮那如来」という仏について申し上げると、これは『大日経』や『金剛頂経』で究極の仏として描かれている大日如来のことです。『大日経』や『金剛頂経』では、大日如来は究極の仏であり、この世のすべては大日如来のあらわれであるとされるのです。ここで、「あれ? 『華厳経』でも毘盧遮那仏という仏が出てきたぞ」と思った方もおられるかもしれません。そのとおりです。『華厳経』に登場する毘盧遮那仏は、サンスクリットのヴァイローチャナ(vairocana)を漢訳したものなんですが、『大日経』や『金剛頂経』で究極の仏だとされる大日如来はというのは、マハーヴァイローチャナ(mahāvairocana)を漢訳したものです。両者は関係が深いと言われています。思想的に見ても、「毘盧遮那仏の智慧がすべての衆生に浸透している」という『華厳経』の思想は、「この世のすべては大日如来のあらわれである」と説く『大日経』や『金剛頂経』の思想に繋がっていくものがあります。初期大乗経典の『華厳経』は、後の密教にも影響を与えているわけで、密教と関係が深い経典です。

 ただし、『華厳経』の毘盧遮那仏と密教の大日如来には、無視するわけにはいかない大きな違いもあります。『華厳経』では「毘盧遮那仏の智慧がすべての衆生に浸透している」と説かれるものの、毘盧遮那仏は衆生に対して教えを説いたり、衆生に対して能動的にはたらきかけることはなく、最初から最後まで沈黙を守っています。ところが、密教の大日如来は非常に能動的で活動的です。先ほどの『大日経』の一節をもう一度見ていただきたいのですが、ここには「世尊毘盧遮那如来が、身体と言葉と心のあらゆる行為によって、すべての生けるものに対して、いたるところで秘密の真言の言葉を用いて、教えを説いているのが見られたのである」と書いてあります。この雑文で何度も用いたたとえで言うと、それまでの大乗では、法身というアルティメットまどかちゃんの円環の理は、魔獣と戦い続けるほむらちゃんに語りかけることはありませんでした。しかし、密教の大日如来の法身という円環の理は、いつでもどこでも、ほむらちゃんを含めたすべての魔法少女たちに「がんばって」と言い続けているのだということになるわけです。

 この世のすべては大日如来のあらわれであり、大日如来は「身体と言葉と心のあらゆる行為によって、すべての生けるものに対して、いたるところで秘密の真言の言葉を用いて、教えを説いている」というのであれば、それはこの世のすべてにポジティヴな価値を認めることと同義です。かくして密教では、いわゆる「初期仏教」で説かれていた「原因によって生じた『もの』はすべてドゥッカ(苦)である」という教えとは異なる、現世肯定的な世界観が語られることになるわけです。

 ところで、この雑文では第26回以降、インド仏教における仏身をめぐる思想の展開をいろいろと見てきました。以上のような密教の世界観は、この仏身をめぐる問題にも絡んできます。というのは、密教のようにこの世のすべてが仏のあらわれだと言うのであれば、それはこの世のすべてが仏の身体だというのと同じことです。これまで見てきたように、仏身をどう考えるかという問題をめぐっては、仏の遺骨を祀ったストゥーパ(仏塔)を信仰するという方向性もあれば、般若波羅蜜を仏身だと考える方向性もあれば、経典それ自体を仏の身体だと考える方向性もありました。『華厳経』のように、毘盧遮那仏の身体はこの世のすべてに浸透しており、その智慧はこの世のすべての衆生に行き渡っていると説く経典もありました。中期大乗の時代には、如来蔵思想のように、永遠に不滅な仏身がすべての衆生のなかにあるのだという思想も登場しました。そこからさらに時代が下ると、『大日経』や『金剛頂経』が登場し、ついにこの世のすべては仏の身体だとまで言われるようになったというわけです。

 これは、空の思想の変容とも関わってくる問題です。第26回でも述べたように、空の思想は元々、あらゆるものごとには実体がないということでした。ところが時代が下ると、空の思想は、「空はあらゆるものごとを貫いている真理である」と解釈される傾向が強まっていったのです。元々は空の思想は、いかなる「もの」も他の「もの」との関係(≒縁起)によって存在するように見えている蜃気楼のような「もの」であり実体はないという話だったのですが、それを肯定的に解釈する傾向が強まっていったのです。「机や椅子やりんごやみかんといったあらゆる『もの』には実体がない」というよりもむしろ、「机や椅子やりんごやみかんといったあらゆる『もの』は、空という宇宙の法則のような『もの』に貫かれている。空はこの世のすべてを貫いている」という方向で空の思想を解釈する傾向が強まっていきます。言わば、「すべては空である」という話が「空はすべてである」という話に横滑りしていくのです。この世のすべてが空という宇宙の法則のような「もの」に貫かれていると捉えるのであれば、それはこの世のすべてを「聖なるもの」としてポジティヴに捉えるのとほぼ同義です。空の思想をこのように解釈する傾向は時代が下るにつれてどんどん強まっていき、密教ではついに、この世のすべてが仏のあらわれであると言われるに至ったのです。

神秘・象徴・呪術

 密教についてもう少し見てみましょう。先ほども申し上げましたが、密教は様々な要素を含んだ複雑な文化現象ですから、一言でスパッとまとめるのは難しいのですが、それでもあえて密教の特徴をやや乱暴に一言で言うと、「儀礼的」で「呪術的」で「神秘主義的」で「象徴主義的」な傾向があるということが言えるように思います。まず、ここで言う「儀礼的」とか「呪術的」というのは、「儀式や呪術を盛んに用いる」ぐらいの意味です。先ほども申し上げたように、密教は現世肯定的な傾向が強いので、例えば儀式や呪術によって自然災害や病気を防ごうとしたり、豊作や商売繁盛を祈ったり、長生きを願ったりといったような形で現世利益を求めるといったことも行われます。こうした儀式や呪術は、単に現世利益を得るためだけではなく、「覚り」を得るためにも行われます。「儀礼的」とか「呪術的」というのはそういうことです。

「神秘主義的」傾向――三密の一致

 次に「神秘主義的」とか「象徴主義的」という点について。「『神秘主義』とか『象徴主義』ということばには非常に曖昧なところがあり、明確に定義されたことばだとは言い難い。このような表現を安直に用いることには問題があるのではないか」と思う方もおられるでしょうから、ここで言う「神秘主義的」とか「象徴主義的」というのが何を意味するのかを少し述べておこうと思います。まずここで言う「神秘主義的」な傾向というのは、密教には「『絶対者』である仏と『自分』が直接的に一体化することを重視する傾向がある」という意味です。先ほど見たた『大日経』の一節をもう一度見てみましょう。

 そのとき、普賢菩薩をはじめとする菩薩たちと、秘密主である金剛手をはじめとする金剛を持つ者たちは、毘盧遮那如来の不思議な力に加護されて、みずからの身体が如来のそれと異ならないことを勇ましく示そうとする境地に入り、続いてみずからの言葉と心も如来と異ならないことを勇ましく示そうとする境地に入った。(もっとも)かれらが、如来の身体・言葉・心に入ったのか、あるいは出てくるのかということは、他の誰にもわからなかった。
 しかしながら、世尊毘盧遮那如来が、身体と言葉と心のあらゆる行為によって、すべての生けるものに対して、いたるところで秘密の真言の言葉を用いて、教えを説いているのが見られたのである。

同前

 これは、「自分」と大日如来は“本来的に”同一なのだという思想です。「自分」の身体と言葉と心は、仏の身体と言葉と心と異ならないというのです。

 この身体と言葉と心というのは、第7.5回で少し触れた三業のことです。仏教では、人間が行う行為を身業・口業・意業の三種類に分類します(これは古くから仏教で説かれていた分類です)。身業というのは身体による行為のことで、口業は言語による表現行為で、意業は何かをやろうと意思することです。この身業・口業・意業の三つをあわせて三業と言います。要は三業というのは、人間の行為や活動すべてを指すことばで、それを假に身・口・意の3つに分類したものだということになります。

 先ほどから述べているように密教では、この世のすべてが仏のあらわれであり、仏が「身体と言葉と心のあらゆる行為によって、すべての生けるものに対して、いたるところで」教えを説いているのだとされます。よって、衆生が行う身・口・意による行為は、仏が行う身・口・意による行為と“本来的”に一致するのだということになります

 密教ではこのような思想に基づいて、三業のことを三密と呼びます。仏が行う身・口・意による行為は、我々一般人が見たり聞いたりできるわけではないし、一般人には知ることができない秘「密」が隠されている。そういうわけで三密と呼ぶわけです。そういうわけで密教では、仏の印契(手の指を使って仏や菩薩が覚った真理を象徴的に示した形のことです)をでつくり、仏をたたえる呪文(この呪文のことを真言と言います。後ほど説明します)をで唱え、仏の姿をありありとに思い描くという、三密すべてを用いた修行が行われます。そうやって心身ともに仏と相似した状態に達し、「自分」の身・口・意と仏の身・口・意が一致し「自分」と仏が融合・一体化した状態に到達する。そういう話になるわけです。

「大我」の問題

 先ほど、密教には「神秘主義的」で「象徴主義的」な傾向があると言いましたが、ここで言う「神秘主義的」というのは、このような「自分」と仏が融合・一体化した境地を重視する傾向があるということです。もうお気づきの方もおられるかもしれませんが、この世のすべては仏のあらわれであり、「自分」と仏は“本来的”に同一であるという密教の思想は、バラモン教・ヒンドゥー教の梵我一如の思想と似ています。第27回で申し上げたように、中期大乗の時代に登場した如来蔵思想も、ものの見方の面で梵我一如の思想と似たところがありましたが、密教は大日如来という大宇宙と「自分」という小宇宙が一致するという話ですから、より梵我一如に接近していると言えます。

 ついでなので申し上げると、『大日経』には次のような一節があります。

 真言者誠諦に 漫荼羅を図画せよ 自身を大我と為し 囉字をもって諸垢を浄む 瑜伽の座に安住して 諸もろの如来を尋念し 頂に諸もろの弟子に 阿字の大空点を授くべし 智者妙花を伝えて 自身に散ぜしめ 為めに内に見る所の 行人宗奉の処を説くべし 此れ最上の壇なるが故に 応に三昧耶を与うべしと 

福田亮成校注『新国訳大蔵経 インド撰述部12 密教部1 大日経』大蔵出版、太字引用者

 ここに出てくる「自身を大我と為」すというのは文字通り、自分自身を大いなる我と為すべきだということです。この世のすべては仏のあらわれであり、「自分」と仏は“本来的”に同一である。ゆえに、「本当の自分」=大我=大日如来である。そうことになるのでしょう。これは、従来の仏教思想に見られた厳格な無我説とは異なっています。厳格な無我説と異なり、「本当の自分」=大日如来が大我として肯定されていることになります。第27回で見たように如来蔵思想は、仏の法身は常楽浄であり、仏の法身は「アートマン」であると主張していました。それと思想の枠組みとしては同じです。ともあれインド仏教は、時代が下るにつれてヒンドゥー教の影響を受けるようになり、如来蔵思想や密教思想のように、厳格な無我説ではなく梵我一如に近い思想を語る傾向が出てくるわけです。

象徴の論理――象徴と象徴されるものの一致

 さて、密教には「象徴主義的」があるという点についても述べておきましょう。そもそも「象徴(シンボル)」とは何ぞやというのは考え始めると非常に難しい問題ですし、本格的に論じようとすると本が何冊もできてしまうような話ですが、ここでは、「具体的には捉え難い対象を、何らかの事物によって代わりに表現する形式」という程度の意味です。例えば日本では、「ハトは平和の象徴である」などと言われることがあります。この言い回しでは、「平和」という抽象度が高くて捉え難い概念が、ハトという具体的な事物によって代わりに表現されているわけです。

 ところで、これはこの雑文で何度も申し上げていることですが、仏教は古い時代から、人間の言語は現象世界を文字通りに言い表しているわけではないと説いてきました。この世に存在していると人間が思っている「もの」の多くが言語的な仮構であるという思想は、いわゆる「初期経典」にも十分に認められます。そのような思想を大規模に発展させたのがナーガールジュナだということも何度も述べたとおりです。

 密教にもこの思想は受け継がれていて、仏の覚った究極の真理は、我々が用いている日常的な言語では表現できないとされます。そこで密教では、真理や仏の世界を、日常的な言語ではなく象徴や象徴的な行為によって表現します。また、そういった象徴的な行為によって「自分」と仏が一体化する体験を目指しもします。

 先ほどの三密で言うと、修行者が手でつくる仏の印契も、口で唱える仏をたたえる呪文も、心に思い描いた仏のイメージも、すべて象徴です。修行者の三密、すなわち身心全体が仏の象徴と化すわけです。そして修行者が、象徴を通じて心身ともに仏と相似の状態に達すると、象徴を通じた相似の関係がイコールの関係へと飛躍して、修行者は仏とイコールになるというのです。ここに見られるのは、象徴(修行者の身心)と象徴されるもの(仏の身心)はイコールだという思想です。先ほどの例で言うと、「ハトは平和の象徴である」というとき、ハト(象徴)と平和(象徴されるもの)はイコールではありません。ところが密教では、象徴(修行者の身心)と象徴されるもの(仏の身心)が修行を通じて相似状態となり、修行者が仏になりきることで、象徴と象徴されるものがイコールの関係へと飛躍するのだというわけです。荒唐無稽だと思う方もおられるかも知れませんが、ともかくも密教にはこのような思想が見られます。

様々な密教

 さて、以上のような思想は『大日経』という密教経典に見られるものです。『大日経』や『金剛頂経』は7世紀に登場した本格的な密教経典なんですが、密教がこの時代に突然誕生したわけではありません。『大日経』や『金剛頂経』が登場する以前から、密教はその姿を見せ始めていました。如来蔵思想や唯識思想が展開していく中期大乗の時代には、例えば『牟梨曼陀羅呪経』や『不空羂索呪経』や『金光明経』といった、密教的な要素を多く含んだ経典が出現していました。こうした流れが発展して、7世紀頃になると『大日経』や『金剛頂経』のような本格的な密教経典が成立するに至るのです。

 一口に密教と言っても様々なものがあります。近代以降の日本で行われている密教の分類法として、インド密教を初期密教・中期密教・後期密教の三段階にわけるというものがあります。これはどういう分類かというと、先ほど触れた『大日経』や『金剛頂経』といった本格的な密教経典が生まれた7世紀頃の段階の密教を中期密教と呼び、それ以前の密教を初期密教と呼び、中期密教以降にさらに新しく登場する密教については後期密教と呼ぶというものです。

 まず初期密教は、呪術によって現世利益を得ようとすることを主な目的とする密教です。具体的に言うと初期密教経典では、干魃や洪水などの水害から人々の生活を守るために雨ごいをしたり、雨が降るのをとめる呪法とか、災害を防ぐ呪術とか、病気を癒したり長生きをもたらしたりする呪術などが説かれています。主な経典に、先ほど触れた『牟梨曼陀羅呪経』や『不空羂索呪経』や『金光明経』などがあります。初期密教では、このように現世利益を得ることを主な目的としており、「覚り」をひらくことについてはあまり説いていません。

 その後7世紀頃に、『大日経』や『金剛頂経』といった本格的な密教経典が新たに登場し、現世利益だけでなく「覚り」を得ることも中心的な課題としてとりあげられるようになります。この時代を中期密教と呼ぶわけです。そこからさらに時代が下ると、『秘密集会タントラ』(8世紀頃の成立と言われています)とか『ヘーヴァジュラ・タントラ』とか『カーラチャクラ・タントラ』といった新たな密教経典が生まれ、中期密教までの密教にはなかった新たな要素が見られるようになります。そこで、こういった密教は中期密教と区別して後期密教と呼ぶというわけです。

 以上、日本で行われている初期・中期・後期という分類についてざっくりと説明しました。これに対してチベット仏教では、14世紀頃のプトゥンという人が行った四分類が用いられてきました。これは、密教経典を所作タントラ・行タントラ・ヨーガタントラ・無上ヨーガタントラの四つに分類するものです(チベット仏教では、密教経典はすべてタントラと呼ばれています)。まず所作タントラというのは、主に現世利益を得るための儀式を行うための所作(宗教的行為)しか説かれておらず、「覚り」を得るための修行については説かれていない密教経典のことです。行タントラというのは、「覚り」を得るための修行について説かれ始める段階の密教経典で、『大日経』はこの行タントラにあたります。ヨーガタントラは、「覚り」を得るための修行について本格的な内容が説かれている密教経典で、『金剛頂経』はヨーガタントラにあたります。無上ヨーガタントラは、「覚り」を得るための究極の方法について記されている密教経典で、『秘密集会タントラ』や『ヘーヴァジュラ・タントラ』などは無上ヨーガタントラです。図にまとめると、次のようになります。

 初期・中期・後期という分類法とプトゥンによる分類法は、厳密に一致するわけではないのですが、ざっくり言うと所作タントラは前期密教にあたり、行タントラとヨーガタントラは中期密教にあたり、無上ヨーガタントラは後期密教にあたります。チベットの分類では『大日経』は行タントラであり、『金剛頂経』はヨーガタントラであるとされており、二つの経典の間に区別を設けている点は異なっています。『大日経』と『金剛頂経』はいずれも密教経典ではあるのですが、説かれている内容には結構違いがあります。『大日経』の方が少しだけ成立が早く、『大日経』の後に『金剛頂経』が成立したのですが、両者は思想的な系統が異なっており、『大日経』が直接的に発展して『金剛頂経』が誕生したという関係にはありません。ですから、行タントラとヨーガタントラを区別するのは、それなりの理由があると言えます。

 さて、密教はインドから中国に伝わり、そこから日本にも入ってくるのですが、日本で広く浸透したのは初期から中期までの密教で、『大日経』や『金剛頂経』に基づく密教、つまり先ほどの分類で言うと中期密教が最高の密教だとみなされました。後期密教については、中国で宋の時代に『秘密集会タントラ』などの後期密教経典が一応漢訳されたりはしているのですが、そうやって漢訳された経典が東アジア仏教に与えた影響は極めて限定的なものでした。よって、日本には後期密教が浸透することはありませんでした。『大日経』や『金剛頂経』までの密教しか根づかなかったわけです。一方、チベットには後期密教が伝わり、無上瑜伽タントラが最も重視されました。そのため、日本の密教とチベット密教は、一口に密教と言っても結構違ったものになっていたりします。

初期密教の時代

 分類の話はこれくらいにして、次に、インド仏教の世界に密教が台頭してきた背景についても簡単に述べておきます。

 4世紀の前半頃にはグプタ朝という王朝によって北インドが統一され、繁栄を極めていました。しかし6世紀半ばにグプタ朝は崩壊すると、その後はインドを統一する王朝はなかなか出現しない分裂の時代が長く続いていくことになります(ちなみに、グプタ朝の時代はインド大乗で言うと、ざっくり如来蔵思想や唯識思想が展開していく中期大乗の時代にあたります)。7世紀の前半に活躍したハルシャ=ヴァルダナという王様や、8世紀の前半に活躍したヤショーヴァルマンという王様によって北インドが一時的に統一されることはありましたが、いずれも短命に終わりました。その後、プラティハーラ朝が北インドを、パーラ朝が東インドを、ラーシュトラクータ朝が南インドを支配することになり、三つどもえの抗争が続いていくことになります。

 このような状況において、勢力を大いに拡大していったのがヒンドゥー教でした。(狭義の)ヒンドゥー教は、バラモン教が民間信仰や土着の習俗と融合することで形成されていった、インド独自の宗教です。仏教やジャイナ教に少し遅れてその原型が形成され、徐々に勢力を拡大し、特にグプタ朝の時代以降大きく発展しました。彼らは、王様に対して権力を教化する儀式や、敵対者を破るための儀式を提供し、王様たちの支持を得ていきました。一方、仏教はパーラ朝や、8世紀以降インドの東海岸のオリッサ北部を支配したバウマカラ朝の王様から支持されましたが、インド全体で見るとあまり人気を得られず、衰退していく傾向にありました。

 このように仏教がライバルのヒンドゥー教に押されるようになると、成功しつつあるヒンドゥー教の要素を仏教のなかに積極的に取り込んで人気を回復しようとする動きが、仏教の内部で目立つようになっていきます。インド大乗の最終段階において展開された密教は、ヒンドゥー教の要素を取り込むことで形成された面が強い仏教なのです。

天部(護法尊)――換骨奪胎という手法

 仏教がどのようにヒンドゥー教の要素を取り込んでいったのかを少し見てみましょう。第11回で述べたように、初期大乗の時代には、阿弥陀仏や薬師仏や毘盧遮那仏といった新たな仏や、文殊菩薩や観音菩薩や普賢菩薩といった菩薩が創作されていきました。この流れはその後も続き、中期大乗の時代には地蔵菩薩や虚空蔵菩薩や除蓋障菩薩といった新たな菩薩も登場しました。仏教はこのようにいろんな尊格を新たに生み出す一方で、ヒンドゥー教で人気があった神様をも次々に取り込んでいきました。

 仏教に興味がない方も、毘沙門天とか吉祥天とか弁財天といった神様をご存知の方は多いでしょう(第7.5回でも少し申し上げましたが、「天」というのは神様のことです)。こういった「〇〇天」という日本人にもなじみがある神様の多くは、元々はバラモン教やヒンドゥー教の神様です。例えば、毘沙門天は元々は、バラモン教とヒンドゥー教の聖典であるヴェーダに登場する神様です。吉祥天も、ヒンドゥー教の女神のラクシュミーを仏教が取り入れたものです。日本で七福神の一員になっている弁財天も、元々はサラスヴァティーというヒンドゥー教の女神です。日本で「〇〇天」と呼ばれる神様の多くは、元々は仏教がバラモン教やヒンドゥー教の世界から取り込んだものなのです。その仏教が中国を経由して日本に伝えられると、それらの神様も日本にいっしょに入ってきて親しまれるようになりました。こうした神様のことを「護法尊」とか「天部」と言います。元々は仏教外の神様だったんだけど、仏教を護る神様に転じたということで、そのように言うわけです。

 ちなみに、第11回で紹介した梵天勧請のエピソードに出てくる梵天も、元々はバラモン教の神様です。梵天はバラモン教では人間とは次元が全く違うレベルの創造神なのですが、何度か申し上げたように、仏教では天は仏に比べると大した存在ではありません。天は人間よりも寿命が長いけれども、いつかは死ぬという宿命を背負っている点では人間と同じです。バラモン教の権威を承認しない宗教として登場した仏教は、元々バラモン教で人間をはるかに超えるレベルの神様だった梵天を、仏に比べれば大したことのない存在へと変えて、仏教の内部に取り込んだわけです。名前だけを見ると同じ神様なんだけど、中身は別物に変わっているのです。このように「概念の名前や外見はそのままにしておいて、中身を自分たちの立場と合致するものへと改変して取り込む」というのは、インド思想史や仏教思想史において何度も何度も何度も何度も繰り返されてきたパターンです。

 日本語には「換骨奪胎」という四字熟語があります。国語辞典とやらをひくと、「先人の発想や表現法を取り込みながらも趣旨を変化させて、新たに独自の作品を作り上げること」といったような定義がなされています。インド思想史や仏教思想史は、まさに換骨奪胎の連続です。

 例えば、ヒンドゥー教の多くの伝統では、ブッダ(仏)はヴィシュヌ神という神様の化身だとされており、「ブッダは(ヒンドゥー教の立場から見れば)誤った教えを愚か者にあえて説いて、彼らを破滅させるのだ」と説く派もあります。換骨奪胎を通じて、相手側が説いている概念を自分の立場と調和する内容に改変して取り込んでしまうという手法は、仏教の側もヒンドゥー教の側も行っているわけです。

 こういったことは、仏教の内部でも行われています。例えば「縁起」ということば一つとっても、「初期経典」で説かれている縁起と、前回紹介した唯識思想で説かれている阿頼耶識縁起は、「縁起」ということばは同じでも、中身は異なっています。「空」ということばにしても、『般若経』などの初期大乗経典や『中論』で説かれている「すべては空である」という思想と、前回紹介した唯識思想で説かれる「「Aという“場所”にBという『もの』がないとき、AはBについて空である」という思想は、「空」ということばは同じでも、中身は異なっています。「仏」にしても、パーリ長部の『涅槃経』で語られている食あたりで80歳で亡くなった釈迦と、『法華経』の久遠実成の釈迦牟尼仏と、密教の大日如来ではえらい違いです。

 このように、「換骨奪胎によって概念を(自分たちに都合のいい形に)改変する」ということは仏教の内部でも行われ続けてきたことです。換骨奪胎を通じて仏教思想は変化を続け、多様な解釈や多様なセクトが生まれることにもなりました。そのため仏教では、流派やセクトによって「空」とか「縁起」といったいろんな概念が、全く違う意味あいで用いられていたりします。ですので、仏教の話をするときには、いろんな概念がどういう文脈で語られているのか、どういうセクトや流派による主張の流れを汲んだものなのかに十分注意を払う必要があります。そうでないと、「仏」や「空」や「縁起」といった同じことばを使っても中身が異なるわけですから、話が全くかみ合わず、混乱が深まるだけで終わってしまうでしょう。

儀礼・呪術の整備

 さて、仏教がバラモン教やヒンドゥー教から取り込んでいったのは神様だけではありません。バラモン教やヒンドゥー教では、儀式を盛んに行います。そこで仏教は、ヒンドゥー教が得意としてきた様々な儀式を、これまた換骨奪胎して取り込んでいったのです。一例をあげると、日本仏教でも行われている護摩という儀式をご存知の方は多いでしょう。火のなかに供物や木を投げ入れて、災害を防いだり長寿を願ったり、(仏の智慧の)火によって煩悩を燃やし尽くそうとしたりする目的で行われる儀式です。この護摩は、元々はバラモン教で行われていた「ホーマ」と呼ばれる儀式で、いろいろな供物を火に投げ入れて燃やし、神々に供物を捧げる儀式でした。サンスクリットの「ホーマ」ということばを漢訳したのが「護摩」です。バラモン教で行われていたホーマを換骨奪胎して、「(仏の智慧の)火によって心のなかの煩悩を燃やし尽くそうとする儀式だ」という新解釈を行い、取り込んだわけです。このようにバラモン教やヒンドゥー教などから儀式や呪術が仏教に取り込まれ、世俗的な願望を叶えたり現世利益をもたらしたりするための具体的な儀式が形成されていくようになります。例えば、病気などの災いを取り除く息災法とか、長寿や商売繫盛をもたらす増益法と呼ばれる儀式が形づくられていくわけです。

呪殺の問題

 ここでちょっと一言しておきたいのは、このような儀礼や呪術には、病気が治るとか長生きができるとか商売が繁盛するといった明るい面だけでなく、おどろおどろしくて暗い面もあるということです。というのも、このような儀式の一種に、調伏法(降伏法)というものがあります。これはどういうものかというと、悪人や悪い神様や敵対している相手などを打倒したり屈服させたり、あるいは彼らの悪しき心を捨てさせたりする儀式です。そして初期密教経典のなかには、この調伏法によってターゲットを呪い殺したり、死に至らしめることができるとはっきり書いてあるものもあります。例えば、様々な儀軌(儀式を行う際の作法や規則)を集めた『陀羅尼集経』という初期密教経典には、次のような一節があります。

 是の法印大呪は能く一切を伏す。若しは天、若しは龍、若しは諸外道、若しは神、若しは鬼、若しは藥叉、若しは羅刹、若しは乾闥婆、鳩槃荼等なり。種種の雜類、不善を爲す者、及與び人に病患を作す鬼神、障難を爲す者が是の呪聲を聞かば、皆悉く地に倒れ悶絶して死なん

 又の法、毒藥と人血相和して、一呪一燒一百八遍せば、一切の鬼死なん

『大正新脩大蔵経第18巻』大蔵出版

 ここでは、呪術によって悪い神様や鬼などを苦しめて気絶させたり、死なせたりする方法が説かれています。もう一例あげると、『蘇悉地羯囉経』という初期密教経典には、盗人に物を盗まれたときに、盗んだものを返却させる調伏法が説かれている箇所があります。

 其の物を偸みしもの、慞惶し恐怖し、齎持して親しく行者に付せば、便ち応に彼に無畏を施すべし。時に彼の与に扇底迦の法を作せ。若し作さずんば、彼便ち命終らん。

三崎良周・林慶仁校注『新国訳大蔵経 インド撰述部 インド撰述部12 密教部2 蘇悉地経・蘇婆子童子経・十一面神呪経』大蔵出版

 ここに書いてあるのは、この呪法を行って、盗人が盗んだものを返したら、息災法(扇底迦の法)を施してあげなさいということです。もしそこで息災法を施さなければ、盗人は調伏法の効果で死んでしまうというのです。俗に「仏教は平和的な宗教だ」というイメージがあるようですが、密教の歴史を辿ると、敵を呪い殺そうとしたり、敵対する神を無理やり調伏して従せたりといった面も出てくるということは知っていただきたいと思います。

明呪・真言・陀羅尼

 ともあれ、こういった形で神々や儀式が導入されるようになると、仏や菩薩や神々を対象とした様々な祈祷や儀式が行われるようになり、儀軌(儀式を行う際の作法や規則)が次第に整備されていくことになります。それに伴って、儀式で唱えられる「明呪」や「真言」や「陀羅尼」と呼ばれる呪文が増加していくことになりました。

 この明呪と真言と陀羅尼は、元々は別物であり起源が異なっているのですが、ひとまず明呪から見ていきましょう。「明呪」というのはサンスクリット語のvidyā(パーリ語ではvijjā)ということばを漢訳したものです。このvidyā(vijjā)ということばは、「知識」や「学問」を意味するのと同時に、「呪文」をも意味します。このことは、古代インドにおいては学問と呪法は一体のもので、未分化であったことを物語っています。古い時代の仏教がこの明呪をどう見ていたかというと、パーリ長部に入っている『沙門果経』という経典には、次のような一節があります。

 たとえばまたある種の高徳な沙門・婆羅門たちは、信者から与えられた施し物を食べて(生活しながら)、次のような卑しい術、邪悪な手段で生活を営んでいます。すなわち、四肢の特徴により、前兆により、自然現象の異変により、夢見により、身体の特徴により、鼠に噛まれた衣服によるなどの諸種の運命判断、また火をたく護摩の術、(用法の異なる種々の)杓子を用いる護摩、もみがら・ぬか・脱穀した穀物・凝乳・油をそなえる護摩、種子などを口から火中に吐き出して行なう護摩、(右膝からとった)血をささげる護摩、また(指の関節などの)身体を見て呪文を唱えて行なう運命判断、家を建てる土地の相の判断、畑の相の判断、山犬の鳴き声による占いの術、悪霊祓いの呪術、(秘教の)知の呪文、蛇に嚙まれた傷をなおす呪文、毒物に対する呪文、蠍に嚙まれたときの呪文、鼠に嚙まれたときの呪文、鳥や烏(の鳴き声)による運命判断、人の寿命の予知、矢から身をまもる呪文、動物(の鳴き声)による運命判断(などを生活手段としている)。しかしこのような卑しい術を断つことが、これまた比丘の戒律の一つです。

長尾雅人訳・『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』中央公論社

 ここで「呪文」と訳されていることばがvijjāです。この経典では釈迦は、明呪や火を使った護摩や占いなどのバラモン教の呪術を否定しています。バラモン教の権威を認めない宗教として登場した仏教には、バラモン教の呪術的な儀礼を否定する思想があったわけです。

 ただ、パーリ仏典をひもとくとあらゆる呪文が禁止されているわけではありません。呪術としての明呪は否定されているものの、護身のために用いるパリッタ(paritta)と呼ばれる呪文を唱えることは許されています。例えば、パーリ律には、蘊護呪(Khandhaparitta)という呪文が出てきます。これは毒蛇から身を守るための呪文で、蛇を含むすべての衆生に慈悲を示し、その慈悲によって毒蛇にかまれることを防止しようとするものです。このパリッタは、時代が下ると単なる護身の効果だけでなく、様々な効果をもたらす呪文として用いられる傾向が出てきます。例えば、いわゆる「初期経典」より成立が新しい『ミリンダ王の問い』(第3回で紹介しました)には、次のような一節があります。

 また尊き師は、護呪を説示されました。すなわち、ラタナ・スッタ(宝経)、カンダ・パリッタ(蘊護呪)、モーラ・パリッタ(孔雀護呪)、ダジャッガ・パッリタ(幢首護呪)、アーターナーティヤ・パリッタ(阿吒曩胝護呪)、アングリマーラ・パリッタ(鴦掘摩護呪)です。
(中略)
 その護呪を唱えることによって、すべての病気は鎮まり、すべての災難は離散します。(中略)護呪が、或る人にたいして唱えられたとき、<毒>蛇はかれを嚙もうと欲しても、噛まず、開いた口を閉じます。盗賊どもが振りあげた棒も役にたたず、かれら<盗賊>は棒を放棄して、<かれを>親切にあつかいます。暴れる象も、<かれに>出会うと、静止します。燃え上がる大きな火のかたまりも、かれに近づくと、消滅します。<かれが>食べたハラーハラ毒も変じて、アガダ薬となり、あるいは、食物となります。殺害者が殺そうと欲して、<かれに>近づくと、<この男は>変じて、奴隷のごとくなります。<かれが>落ちこんだわなも、<かれを>捕えません。

中村元・早島鏡正訳『ミリンダ王の問い2』東洋文庫

『ミリンダ王の問い』のこの箇所が成立した頃にはいろんな種類のパリッタが成立していたことや、パリッタが様々な効果をもたらす呪文として用いられていたことがうかがえます。毒蛇を避ける呪文はその後、大乗で発展して『孔雀王呪経』という経典に受け継がれ、その後の密教にも受け継がれていくことになります。

 そういうわけで古い時代の仏典では、パリッタは禁じられていないものの、(呪術としての)明呪を斥ける思想が見られます。ところが大乗では、明呪が様々な効果をもたらす呪文として肯定的に語られるようになっていきます。一例をあげると、初期大乗経典の『八千頌般若』には、次のような一節があります。

 良家の男子や女子がこの知恵の完成を習い、覚え、唱え、理解し、宣布し、説き、述べ、教示し、読誦するとしよう。もしこの良家の男子や女子がこのように知恵の完成を習い、覚え、唱え、理解し、宣布し、説き、述べ、教示し、読誦しながら、戦闘が起こるときに前線に赴くとしよう。この洗浄に向かい、踏み入り、超えていき、あるいは戦闘のさなかに達し、立ち、またすわっている良家の男子や女子にとって、彼がこの知恵の完成に心を集中し、それを習い、覚え、唱え、理解し、宣布し、説き、述べ、教示し、読誦しているかぎり、彼の命が絶たれるということは、カウシカよ、ありえず、機会を得ないことである。他人の攻撃のために彼が命を絶つことになる、ということはないのである。また、カウシカよ、そこでだれかが彼に向かって剣や棒や土塊その他のものを投げつけるとしても、それは彼の身体に当たらないであろう。
 
 それはなぜかというと、カウシカよ、この知恵の完成というものは偉大なる呪術である。カウシカよ、この知恵の完成というものは量り知れない呪術である。カウシカよ、この知恵の完成というものは限りのない呪術である。カウシカよ、この知恵の完成というものはこの上ない呪術である。カウシカよ、この知恵の完成というものは比類のない呪術である。カウシカよ、この知恵の完成というものは至高なる(無等等)呪術である。

梶山雄一訳『大乗仏典2 八千頌般若経Ⅰ』中公文庫

 第26回で述べたことの繰り返しになりますが、ここで「知恵の完成」と訳されているのはprajñāpāramitā(般若波羅蜜)という語で、「呪術」と訳されているのが先ほど申し上げたvidyāという語です。釈迦をはじめとする仏たちは、般若という智慧を完全に覚ることで仏になったのであり、般若波羅蜜というのは仏を生み出す母親のようなものである。そして、般若波羅蜜というのは偉大な明呪(vidyā)であり、般若波羅蜜という明呪を「習い、覚え、唱え、理解し、宣布し、説き、述べ、教示し、読誦」すれば、例えば戦場に赴いても死なずにすむなど、大きな現世利益がある。そう説いているのです。以上のように、呪文・呪術としての明呪は、大乗では肯定的に説かれるようになり、密教にも受け継がれていくことになります。

 明呪についてはいったんこれくらいにして、次は「真言」について見てみましょう。「真言」というのは、文字通り「真実の言葉」ということですが、これはサンスクリットのマントラ(mantra)ということばを漢訳したものです。このマントラの原型は、バラモン教の最古の聖典である『リグ・ヴェーダ』に出てくる、神々を讃えるための呪文です。『リグ・ヴェーダ』には、病気の治療、災いの除去、雨ごい、戦いに勝つことなどを願って神々に対して唱える呪文がいろいろと出てきます。これが密教に取り入れられたわけです。

 次に「陀羅尼」についても見てみましょう。「陀羅尼」というのは、サンスクリットのダーラニー(dhāraṇī)ということばを漢訳した語で、元々は「経典の内容や教えを記憶して忘れないこと」を意味していました。しかし時代が下ると、一定の効果をもたらす呪文のことを陀羅尼と呼ぶようになりました。やがてこの陀羅尼信仰が発展すると、効果が絶大だと考えられた陀羅尼が仏格化され信仰されるという現象まで起きてくるようになります。仏像や菩薩像のように、陀羅尼を特定の姿に彫刻した像が作られるなんてことも起きてきます。まぁ今の日本の一部で非常に盛んに行われている「擬人化」のようなもんです。このように陀羅尼を「擬人化」することで誕生していった仏格の一つが、「明王」です。

明王

 明王というのは「明(vidyā)の王者」という意味で、呪文を唱えると絶大な効果がある尊格ということです。不動明王、降三世明王、愛染明王などが有名です。不動明王なんかは日本では昔から非常に人気があり、多くの人の信仰を集めてきました(ちなみに、チベット密教には明王という概念はなく、「忿怒尊」(khro bo)と呼んでいます)。

 これが降三世明王です。明王はこのように恐ろしい表情をしていたり、顔や腕がいっぱいあったりすることが多いです。明王は、仏や菩薩が通常の手段では救いがたい衆生を救済するために、怒りの姿をあらわしたものだとされてきました。また、降三世明王は見てのとおり二人の男女を踏みつけています。この二人は誰なのかというと、ヒンドゥー教のシヴァ神と、シヴァ神の奥さんのウマーです。密教では、ヒンドゥー教の神々は「通常の手段では救いがたい衆生」の典型であり、降三世明王にはヒンドゥー教の神々のなかでも特に強力なシヴァ神を仏教に強制的に従わせるパワーがあると考えられていました

 実際、『金剛頂経』の「降三世品」にはこんな場面があります。金剛手菩薩(降三世明王は金剛手菩薩が明王の姿であらわれたものだとされています)は、シヴァ神を仏教に帰依させようとしましたが、シヴァ神は拒否し続けました。最終的に金剛手が左足でシヴァ神を、右足でウマーを踏みつけて真言を唱えると、シヴァ神は死んでしまいます。それを見た大日如来はシヴァ神を憐れんで、慈悲の真言を唱えました。するとシヴァ神は甦り、新たに怖畏自在王如来という仏に生まれ変わったのだというのです。

金剛頂経』のサンスクリット写本でこの箇所を見ると、シヴァ神はmṛta(死んでしまった)とはっきり書いてあります。ここでは、ヒンドゥー教の神様を仏教に取り込むという思想と、殺害という行為が結びついているわけです。先ほど、『陀羅尼集経』や『蘇悉地羯囉経』などの初期密教経典にターゲットの死を伴う調伏法が説かれているのを紹介しましたが、密教にはこういうおどろおどろしい面もあるのは否定しがたい事実です

 なお、先ほど紹介した毘沙門天や吉祥天や弁財天といった天部の神々(護法尊)は、明王とは異なります。明王は、ヒンドゥー教から取り入れられた護法尊とは異なり、あくまでも仏教内部の尊格であって、仏や菩薩の特殊なあらわれだとされています。護法尊はヒンドゥー教から仏教に改宗する側で、明王は改宗させる側です。確かに、明王とヒンドゥー教の神々は、外見や機能の点で共通点が見られることが多く、いろんな面で影響関係が指摘されています。しかし、改宗する側と改宗させる側はひとまず区別しておいた方がいいでしょう。

 さて、以上のように明呪・真言・陀羅尼はそれぞれ起源は異なっているのですが、時代が下ると次第に統合されるようになり、密教を構成する重要な要素になっていきます。そして、単に病気を治したり災いを取り除いたりといった現世利益をもたらすだけでなく、己の「覚り」を得るために用いられる呪文だとされるようにもなっていくことになります。

「AかBか」ではなく「AもBも」

 ともあれ、密教が登場してくる背景について見てきました。ざっくりまとめると、ヒンドゥー教の神々や儀式などを換骨奪胎して取り込んだり、現世利益をもたらしてくれる呪文や儀式を整えたりといったことが行われたわけです。いろんな要素が仏教に取り込まれていくことになったのです。この点は密教について考えるうえで重要なので一言しておくと、密教には、「自分とは異質な要素を『異端』とみなして排除したり抹殺したりするのではなく、取り込んで同化しようとする」「互いに矛盾する要素や夾雑物に見える要素も貪欲に取り込んで、一つの調和した体系へと統合しようとする」という傾向があります。密教は、「坐禅だけをやる」「南無阿弥陀仏と唱えることだけを選びとる」「南無妙法蓮華経という題目の読誦だけを行う」といった具合に、一つの修行法だけを選びとるようなことはしません。そのような方向性とは全く逆に、AかBかで迷ったらAもBも取り込んで包摂しようとするのです。「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」の道なわけです。これは密教に強く見られる傾向です。

 さて、先ほども述べましたが、初期密教経典は呪術や儀式を通じて現世利益を得ることを主な目的としており、「覚り」をひらくことについてはあまり説いていません。ですが、中期密教経典の『大日経』や『金剛頂経』では、現世利益だけでなく「覚り」をひらくことも中心的な課題として取り上げられるようになります。「自分」と仏が“本来的”に同一であることを体得するための修行法も整備されるようになります。そういうわけで次回は、本格的な密教経典である『大日経』や『金剛頂経』について見ていきたいと思います。今回はこれくらいにします。

第30回はこちら


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