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人類学の本を読んでまたSNSがやりたくなった話

『うしろめたさの人類学』という本を読んだ。紀行文のような爽やかな読み口で、エチオピアをフィールドに「構築人類学」を提唱する人類学者の知見に触れる。

まったく知らなかったのだけど、エチオピアには戸籍がないらしい。日本では基本的にじぶんの名前はひとつだが、それは生まれたときに役所に出生届を出すからだ。

ところがエチオピアではたとえば一人の子どもをおじいちゃんが「ドゥカモ」と呼び、お母さんが「アジャイボ」と呼び、お父さんはまた別の名前で呼ぶなんてことがあるという。地域によっては成人した際に別の名前を付けることもあるし、自分で好きな名前を名乗ることもある。

生まれたときに役所に届けた名前をテストの答案用紙や自分の持ち物、いろんな書類に記入するぼくら日本人にとって、たとえばSNSで複数のアカウントを使い分けるということはあっても現実世界で複数の名前を使い分けるのはかなり自由に感じる。

「名前」はその人のアイデンティティとイコールではない。むしろ、社会的な関係や状況に応じて呼び方が変わったり、同時に複数が併用されたりする。相手をどの名前で呼ぶかによって、その人との関係が示される。

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p.105

そんな自由なエチオピアだが、世界でも有数の「最貧国」のひとつだ。

エチオピアを訪れた日本人が最初に戸惑うのが、物乞いの多さだ。街の交差点で車が停まると、赤ん坊を抱えた女性や手足に障がいのある男性が駆け寄ってくる。生気のない顔で見つめられ、手を差し出されると、どうしたらよいのか、多くの日本人は困惑してしまう。
「わたしたち」と「かれら」のあいだには、埋めがたい格差がある。かといって、みんなに分け与えるわけにもいかない。では、どうすべきなのか? これは途上国を訪れた旅行者の多くが抱く葛藤かもしれない。

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p.31

外を歩いてるとみすぼらしい身なりのひとがなんの躊躇もなく手を差し出してくる。著者は現金を渡すことに抵抗があるので、エチオピアに行くときはガムを常備しておくという。ガムなら現金より気楽に渡せるから。

現金で渡すのには抵抗があるのに、ガムならOKという感覚はなんとなく理解できるけれども、その理由はうまく言語化できてなかったから、著者の説明に個人的にとても感心した。わかりやすい。

ひとつは、お金のやりとりが不道徳なものに感じられること。特別の演出が施されていない「お金」は「経済」の領域にあって、人情味のある思いや感情が差し引かれてしまう。だから、ひとになにかを渡すとしたら、それはお金ではなく「贈り物」でなければならない。

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p.32

もうひとつは、お金がなんらかの代償との「交換」を想起させること。物乞いが、ぼくらのために働いてくれるわけでも、なにかを代わりにくれるわけでもない。このとき「わたし」が彼らにお金を払う理由はない、となる。

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p.33

この「贈り物(=贈与)」と「交換」がこの本では繰り返し対比される。

たとえば、「家族」という領域は、まさに「非経済/贈与」の関係として維持されている。家族のあいだのモノのやりとりは、店員と客との経済的な「交換」とはまったく異なる。

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p.29

ここで例として挙げられてるのが母親が作った料理に対して子どもがお金を支払うことは基本的にはありえないといったことだ。家庭は市場経済とは別の領域であり、(建前であれなんであれ)「子どもへの愛情」といった感情などで脱経済化されることが望ましいと考えられてるという。

「家族」にせよ、「恋人」にせよ、「友人」にせよ、人と人との関係の距離や質は、モノのやりとりをめぐる経済と非経済という区別をひとつの手がかりとして、みんなでつくりだしているのだ。

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p.30

なるほど言われてみれば確かにそうかもしれない……とおもったのも束の間、脳裏にTwitterが嫌いになり始めてからのあれこれがフラッシュバックした。

以前に「Twitterをやめた話」で話したのと似たような話になるから、読んだひとはここから2段落くらいは斜め読みでも構わない。

ぼくはもともとTwitterが好きだったし、20代の頃に考えたことや行動に移したことには、意識的であれ無意識的であれ、なんらかの形でTwitterが関わってたとおもう。なぜ好きだったかといえば気心の知れたひととの交流があったからだ。ただ、大学を卒業したあたりからそのひとたちをタイムラインで見かけることが徐々になくなり、ぼくのつぶやきに対する反応は日に日に減っていった。当時600人ほどフォロワーがいて、ひとつの投稿に付くいいねの数は多くても3くらいだった。

今でこそ自明のことだけど、有り体に言ってしまえば、承認欲求が満たされなければSNSで発信などしない。たまに涼しい顔をして「じぶんは情報収集ツールとしてしか利用してない」なんていう投稿も目にしたものだけど、じぶんの利用目的をわざわざ投稿することに情報収集の意図はないだろう。もしそのことに自覚的でないなら痛々しさはより増す。

それはいいとして、SNSでの反応が減っていくなかでぼくはじぶんの投稿の価値について考えるようになった。少なくともじぶんの投稿は無価値ではない。読んだ本や観た映画の感想は、それが読んだひとの参考になったらいいなとおもいながらTwitterに書いていた(今はそんなこと考えてないけど)。文章を書くのには何かと時間が掛かる。だから、それに対して対価があって然るべきだとおもうようになった。何も金を払えというわけじゃない。ただ、いいねボタンを押してくれたらそれでいい。それがじぶんにとってはいちばん嬉しい報酬だとおもっていた。だから「良かったらいいねしてください」と包み隠さず言うようになった。それは当然のことだとおもっていたから。

しかし、今おもえば、ぼくがここでTwitterに持ち込んだ考え方は、お母さんの料理に金を払いなさいと子どもに要求するようなものだったのかもしれない。TwitterはもともとユーザーがAPIを利用して自由に機能を追加開発できるのが特徴だった。パッと思い浮かぶだけでもFavsterやTwipic、Togetterといったサービスがある(あった)。すべては自由、ユーザーが勝手に作ったものだからたいてい少し不便、でも無料。そういう文化が根っこにあるから、長年使ってるユーザーのなかにはTwitterに対して料金を払うということに抵抗があるひとが少なくなったのではないだろうか。はじめてTwitter Blueが発表されたときにはもしかすると(Twitter社が財政的に苦しいことを頭では理解しつつも)道端で物乞いに手を差し出されたのに似た感覚を覚えたひともいるかもしれない。

つまり、Twitterは家庭と同じ、非経済領域だったのだ。そこにぼくは市場経済的な価値観を持ち込んだ。その結果どうなったかというと、反応の数は何も変わらなかった(ポカーンという感じだったのかもしれないし、そもそも読まれてないだけだったのかもしれない)。ただ、お願いをした結果として反応の数が変わらなかったから、イヤな気持ちだけが膨らむことになった。ぼくは大事なことに気づいてなかったのだ。

SNSで対価を求めるようなことはしてはいけない。そこは贈り物を贈り合う場なのだ。そもそもぼくだってTwitterに入り浸ったのは他人からの贈り物に酔いしれていたからだった。

贈与は「結果」や「効果」のためになされるわけではない。そうするしかない状況で、自分がそうしたくて、他者に投げかけられる。少年が蜂蜜や私の古着をほんとうに喜んでくれるかはわからない。「効果」があるとしたら、モースが言ったように、そこに「つながり」が生まれるだけだ。
私が少年によって喚起された共感、そして、おそらく私の行為によって彼に生じた共感は、私と少年をつなぎとめる。それが公平さへの第一歩となる。なぜなら、不均衡を覆い隠しているのが、「つながり」の欠如だからだ。「つながり」は次の行為を誘発し、「わたし」とは切り離されたようにみえる世界のなかに、小さな共感の輪をつくる。

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p.185

Twitterのアカウントを消して1年以上が過ぎた。アプリを開くという習慣自体がなくなって久しいが、贈与に関するこの文章を読んで、SNSで贈り物を贈り合っていた日々を懐かしくおもった。錯覚でも構わない、「つながり」ができたという密かな喜びが次の贈答へと回路をひらいてくれた。あれは麻薬に近い享楽だったのかもしれない。会ったこともない誰かに何かを贈ることの面白さ、楽しさ、そしてそれゆえの難しさが恋しい。

実際はほとんど届いてないかもしれないし、贈ったつもりのないものが届いているかもしれない。教員の側には、つねに「届きがたさ」だけが残る。教育とは、この届きがたさに向かって、なお贈り物を贈り続ける行為なのだと思う。

松村圭一郎『うしろめたさの人類学』p.182

そう、「届きがたさ」だ。眩しくなるような言葉の響き。教育者ではないぼくにとって、それを手軽に味わえるツールがかつてのTwitterだった。もうあの頃の気心の知れた仲間たちはその大半が今どこで何をしているのかすらわからないし、名前の変わったTwitterでまたあらたに始め直すのは少々億劫だ。

だが幸いにしてインスタのアカウントはまだあるし、昨年スレッズのアカウントを作ってちょこちょこ覗いてはいたので、それを利用して「SNSごっこ」を再開してもいいかもしれない。もちろん単なる思いつきかもしれない。明日にはもう別のことに興味が移ってるかもしれない。それでも今日、いまは久しぶりにそんな気がしていて、なんだかとても気分がいい。


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