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言葉のお暇

言葉ってとても難しい。だけど相変わらず好きだし、時々呆れることすらある。形も責任もないのに、なんなら空気の振動なのに、どうして胸に響くんだろう。

(最後に追記)書いてたら途中から言葉の話ではなくなりました。コトバは関係ない。本文とは関係ない。

モノを売るために言葉が不可欠な時代だと思う。言葉があってもなくても機能自体は何も変わらないのに、その背景を伝える言葉があるだけで欲しくなる。むしろ言葉がないと買わない。

歌も言葉は大事だ。”歌詞”という単語すらある。同じメロディでも別物になる。100人聞けば100人が似たような状況を想像して共感できる歌(back numberとか)もあれば、100人聞けば100人違う何かを想像する歌(the birthdayとか)もある。

共感させることも、させないことも、どちらもすごい。だけど前者の方が一般的には好まれる。わかりやすいに越したことはない。だけど僕は後者が好きで、理解されない哀しみを勝手に共感し、理解されなくてもいいという”つよがり”に憧れる。

価値観や関係性や過ごした時間で、同じ言葉でも全く違う捉え方をされることもある。そういう意味じゃないのにって。良い意味で発した言葉を悪い意味にとられると面倒だ。かといって弁明するのも面倒。


ちょっとずれるけど「凪のお暇」というドラマを途中から見ている。最初は妻が見ているのを同じ部屋で音声を聞く程度だったのに、いつの間にかしっかり見ている。ダイニングでPC作業しながらだったのに、今はソファーに移動して見てる。

ドラマを見ながら「えー」とか「それは・・・」とか言うもんだから隣の妻から「静かにして」と言われる。しんじを可哀そうだと応援することもあれば、ゴンさんを可哀そうだと言うこともあり、「結局どっちなの?」と妻に聞かれ、「しんどそうな方」と答えるありさまなほどしっかり見てる。どちらの辛さにも共感させられている。

そのドラマの中で、「相手のして欲しいことがわかるから、してあげる」というセリフがあって、思わず妻に聞いた。「えっ? わかる?」と。

僕はあまりわからない。仕事の話ならそこそこわかる。相手はこうして欲しいと思うだろうから、こうしようって。けどプライベートな話だとわからない。自分が好かれているのか、嫌われているのかもわからない時がある。

ちなみに妻は相手のして欲しいことがわかるらしい。まあ、そうでしょうねって感じの人だ。やたらいろんな人から相談されている。ちなみに僕への相談は仕事系ばかり。相手の気持ちがわかる人が羨ましい。

相談されないことに嫉妬した僕が「絶対、僕の方が優しいのに」とブーブー言うと「そうだと思う。私の方が薄情だ」と妻は言う。それでも妻の方が社会的に優しい人として通っている。なんか腑に落ちないが、相手のして欲しいことを返すんだから当たり前で。

僕が妻の領域に達するのは難しい。それなら「僕のして欲しいことがわかるでしょ。してよ」と言うと「あなたにはあまりできないんだよな」と妻は笑ってた。

相手に合わせて疲れた時の妻のイライラを受け止めるのは僕だ。

なんか損してる気がする。

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