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村上春樹 「一人称単数」 読書完了


 はじめまして!2022年12月から始めました、くしゃみと申します!これから本の感想を気ままに書いていきたいと思ってます!何卒よろしくお願い申し上げます🙇

今回は村上春樹の短編小説集「一人称単数」から表題作 一人称単数 の感想?というか、自分なりの解釈で短い文章を書いてみました。興味があればぜひ読んでいたたげると嬉しいです。


 
 私は日本で最も有名な小説家がであり、ノーベル文学賞候補に毎年名前が挙がる、いわば文学的思想的ファッションとなっている村上春樹の短編を1つを読み終わったところだ。私はここで今一人称単数という短編について感想を書こうとしているがなかなか指が進まない。いつも感想を書くときには上手く、伝わるような、鋭く個性的な文章を書こうとする私と、等身大の私が意識の中で入り乱れて違和感を感じるのだ。

 ここで私は違う短編の感想を書こうか迷い出す。やっぱり「石のまくらに」のほうが書きやすいか。(なんか短歌が入ってて風雅っぽいしテーマもスッキリしててオシャレにかけるかもだけど逆に短歌が入っててオシャレアピールしてると思われても嫌だし…。)

 しかし私は自分を偽っている罪悪感と違和感を感じながらゆっくり時間をかけてこの感想を書こうとする。しかし何度意識を集中させても頭にはただ真っ白な無。もういいかめんどくさい。とりあえず伊達メガネを手に取り再び書店へ向かった。そして特に用はないが、なんとなく新たな彼の作品を漁る。そこで私は村上春樹の「風の歌を聴け」を読んでいると、急にふと後ろから「恥を知りなさい。」と、その女は言う。

 以上です。私はこの作品を非常にエゴイスティックなものとして捉えたようです。皆さんはどのように解釈しましたか?
 
 余談ですが、英語の「I」を日本語で学術的に表現すると「一人称単数」ということになりますね。どこかで村上春樹さんが翻訳について、英語の翻訳は代名詞をどうするかに尽きる、というようなことを書いておられて、本作ではそこの部分、日本語での人称をどうするか、ということに注目して書かれたんでしょうかね。英語では自分を表現する言葉は「I」でほとんど済んでしまうのが日本とは全然違います。どこかの本で書いてあったのは、男の教師は自分について言うとき、生徒には「先生」、妻は「俺」、子供には「俺orお父さんorパパ」、校長先生は「僕or私」、見知らぬ子供には「おじさん」など、相手との関係性によって一人称が変わります。つまり相手に依存して自分の名称に規制が設けられる。これは英語ではどんな相手に対しても「I」が使えるのとは対照的ですね。小説は自我(エゴ、セルフ)をどう表現させ、変化させていくのかが大きなポイントになってくるはずだから、翻訳での「I」の訳が本来の小説としての意味と異なると場合によっては小説の本筋まで変わってしまいかねない。
 日常生活でこういったことに直面する場面といえば、飲み会で先輩と後輩と話しているときに敬語で話せばいいか分からない、自分をなんて呼べばいいのかもやもやするという経験が挙げられます。結構困るし面倒くさい…
なんだか要領を得ませんが今回はこれで以上とさせていただきます。


最後まで読んでくださりありがとうございます。良いなと思ったり感じたことがあればコメントやスキ、フォローでのフィードバックお待ちしております。

普段は小説、新書の感想記録を書いてます。工学系の学生ですが、専門知識ばかりあってもだめだと思い読書を始めました。他の投稿も覗いてみて下さい!

それでは、ありがとうございました!

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