狩猟採集の現代人

もうすっかり、人類の進化は止まってしまっているんだ。あとは頂上面でぐるぐるするだけ。ぐるぐるしないと飽きて死んでしまう。

必要な不必要をするポストモダンに対応しないと、なにごとも無用に複雑になってしまう。こういったテンションで挙動していくことが周知されないと、時代は落ち着いてこないのかもしれない。

「進化ではなく浸透の方が伸びがある」


「多分そこに誰かがいる」そんな気がする、本当はいないけど。

廃墟に残る構造がそう思わせる。廃墟は見る人の感じ方でどうにでもなり、時代の空気で違う価値に見えてしまう。いいか悪いかなど、既存の道徳基準などで固定ができない。

どのような場でも、立ち位置を多く経験し、複数の価値判断を持っている者は流動的になれる。それは人の気分を軽くする。

新しいものが必要なのではなく、新しいイメージが必要なだけだから。本当はいないものが見えていて、いるかのようにしている。


人ではなく社会の方をいうのなら、政治はデジタル回路を取り入れた有機体:サイボーグに近づいてもいいのだろう。

産業の場合は、1次2次は国営的でもいい。3次的なものの一部は、元あったように、経済から解き放たれて文化に飛んでいけばいい。浦安と此花区のテーマパークは年中ねぶた祭り年中阿波踊りだ。


19世紀あたりマルクスなど社会学では、社会は頭で歩いていると、人間は足で歩くものだと、そういうふうに突っ込んだのだと思う。だけどその細かい説明がまた、頭に足の生えた人を増やしてしまった。

多分もうこの辺りで指摘すらも限界だったのだ。加速崩壊はもう20世紀には大現象になっていた。

古代から人類が一貫して考えてきたことは、死の回避方法についてだといえる。人類の進化とは死ななさを高めることのようだ。しかし。近代になり科学の時代になって、論理や道具を発展させたが、19世紀末にはもう、それは企画倒れだとばれていたようだ。

科学で世界を測ることで、死の回避方法が見つかるかもしれないという期待が近代の光だったのだろう。科学の時代である近代は、物理的な豊かさを手にすることに関しては良かったのかもしれない。

しかし科学という道具を進化させ、その可能性をフルに発揮させようとして、人類を悩ませ殺すようにもなった。ニーチェが気づいた時にはもう、科学という道具は人間を越えていた。

目的は達成できないどころか、かえって悪化すらしていた。近代の企画倒れで虚無の空気があった。それでも生きるといったのが実存主義だった。


道具の能力を100%発揮させないといけないのだろうか?

道具は100%可能性を引き出さなくていい。包丁は料理にだけ使えればいい。他のことにも使えるには違いないが、そんなことはしなくていい。料理を作ることまでならば、人々を幸せにする道具なのだ。

近代の目的は達成できなかったが、科学がやれたことから要る分だけ手に取ればいい。狩猟採集社会から眺めるとしたら、いる分を手に入れたのになぜもっと仕事しなければならないのだとシンプルに馬鹿にされるだろう。

物質的な進化は頭打ちになって、あとはいる分の浸透が課題なだけに見える。

よりもっとという意識が空振っている。道具はシンプルな使い方だけでいいし、余計な性能発揮で不幸を作っている。その分は単にやめればいい。労働時間問題もこの形ではないか。


2020年代、20世紀の顔が次々消えていく。寂しくもあるが、ポストモダンが少しだけ増してくる。もう胸まで次の時代に浸かっている。

今の人類の世界観軸は、男が、女のために作った社会なのではないか。でもそれじゃなかったと。

このような構成で眺めることが、多くの問題を考えるときの、コペルニクス的転回なのではないかと。足りないから新しいものが必要なのではなく、古く無用になったものを外していくだけで、もう十分に次の時代が作れる。

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