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里帰り、ゆとり、プライド

大名行列だ。大名行列でいいことが広まったり、シャッフルが起きたと思う。帰省は年に一度と言わず何回も帰省したらいい。

関係人口さんがどう言うかは知らないけど、関係人口と並ぶ存在だと思う。地元に住んでいるわけでもなく、観光者でもなく、関係者の範囲かなと。

関係人口と同じで、帰省者によっても当地の空気がシャッフルされていると思う。むしろ関係人口の関係者以上だ。

広範囲で町の地べたというか、中央値的な地元の人の動線上で空気をシャッフルする。こんなところを動くなんて、よそものにはなかなかできないことだ。

こういう、みんなして一斉に帰省するのっていやだねーなんて言われたりすると思う。そういうのが「ファスト」な生き方だ、みたいな感じで。

僕も人混みでは生きられないので嫌だ、というかつらい。ここでいう「ファスト」って、確かに減ってほしい。

でも僕は今どきよくいわれる「スローフード」とか「スローライフ」とかにすっきりしない感覚がある。違和感だな。いや、基本賛成なだけに、なんだろこの胸騒ぎってことだ。

それを考えて、思いつくまま書いていた。それで思った。スローであろうというよりか、「品のある人であろう」の方が日本語的に合っているのではと。

というか「ファスト」と「スロー」ってキャッチーなワードを使えば普及しやすくて、利用しやすくて、聞いてもらいやすくて、拡散しやすくてってだけかななんて思う。

発案者さんごめんなさい。「ファスト風土」とか最低だよ。恥ずかしくて言いたくないし。そんな品のない言い方してどうすんだって。なんで流行りやすい言葉に合わせて、くだらなきゃなんねーのって。

スローのイメージはたぶん、「ファスト&スロー」、それとイタリアあたりからのスローフード運動からきているのかなと思う。そことゆとり世代とが重なって日本の盛り上がりの中心軸になった。知らんけど。

スローフードの概念は日本だと、オーガニックだとか調理だとかが含まれていたりする。それはそれでいい話だと思うけど、元のスローフードの意味からずれてしまっている。スローというよりナローなんだよな。

スローというならそれこそ、今採りに行ってるよ、みたいなことも含んでくる。あれは、そういう話だったんだ。

ファストフードに対してのスローフードなのだろうけど、そのファストフードってなんなのだろうか?日本だとマクドナルド的なやつに当たるのかもしれない。これもごめんね。

そうではない。速達で集められる食材を広い範囲から集め、先にメニューがあって、ウチは魚介がウリですっていうような。今採りに行ってるよなんていったら1週間かかるけど、そこは契約とかできっちり掴んである。

専門家な態度が生みだした、混沌社会でのニッチポジション争いっていうか。そこの漁港で今日たくさん水揚げされたから、今日のパスタは魚介だよっていうんじゃない。

いや江戸前寿司はスローなのだと思うけど、何も出てこないよと。少なくともマグロはいないと思う。もう全体的にごめんね。このまま進むけど。

食事を自然さんに合わせたわけじゃない。日本のスローでは質質いうけど人間さんに合わせた要求ということではそれもまたファストにあたるものではないかと思う。好きな人が多いものを出しましょうという、パレートなやり方。

だから好き嫌いを肯定しすぎる今時の風潮は自然ではないのだ。好き嫌いはあっていいけど、ない方がいいし、こだわって指を差し続けるのもめちゃくちゃ強引で、自然さんを無視している。

本来の問題は、ファストというよりかワイドに好きにものに手を伸ばせるということ。これ消費問題だよ。そういった広範囲で人間基準になったものに対抗したものが元のスローだった。と思うよ。

つまり昆虫食は、デンマークでは環境食だけど、長野などではスローフード。東京では環境食でもありファストでもあるかも。東京で養殖していなければだけど。

仕方がない。東京の食はほとんどファストなのかもしれない。だけど僕は東京の食事情を全否定しない。そういう比較の態度より、他にもあるという両立の考え方がいいと思う。

そうするとむしろ、大都市よりも地方の問題でもあるし、地方の有利さでもある。

大事なのは比較より両立だとすると、だから~~は間違っているっていう話、うるせーよと。そうじゃないでしょと。意見には賛成だけど、そのやり方は結局、中央集中的、権力的だもの。同類。どうしようもない。

だからファスト風土が指すものには賛成できるのだけど、ファスト風土という言葉が担っている、掴みやすい乗りやすいってのがどうしようもなくねじれていると僕は思う。

言い方がね。いやヒット狙いというかね。ファスト風土がダメっていうキャッチーさがファストくさい。

スローフードはピクニック的なものではなく、むしろナローフード。好きなものをいただけるというより、地元の自然さんのいうこと聞けよっていうか。

外部のいうことを聞くのではなく、東京のいうことじゃなく、ネットのいうことじゃなく、この空間から話聞けよっていう。好きも嫌いもねーんだよって。

地方で食材を作っているけど、大都市に送ってる面もある。それをスローフードの立ち位置から見たら、地元で採れたものを地元の人が食べてねーだろっていう話。だからネット拡散なんかしないで地元に届けるって活動があるんだ。

でも買われちゃうって問題だけでなく、地元の人が地元の味にどれだけ手を伸ばしているのかという両面。

その点では、関係人口というムーブメントもなんだかおかしい。都市の人がこれる田舎を作りだしちゃって。それも必要だけどね。

元々店でお茶を飲む人が多くない土地に、洒落たカフェをいくつも作ってもスローじゃない。スロー(ナロー)の破壊。コーヒー好きが来れるとかはそれはそれ。それは単に、当地にも洒落たカフェがあるよってだけの話。

どこにもコーヒー好きはいるはずだから、それはそれでいいし、嬉しいことだよね。ただ、お年寄りが多い土地で、と見ると何やってんだろって気もしなくもない。自分らは!っていうノリみたいな。

そうではなくて、ここいらへんはたいてい水だよとかって、あそこの水がいいんだよって。これで朝に家で茶を入れるんだって。そういうようなこと。カフェもいいけどその文化は地元メイドじゃないな、ってことは多いよね。

茶の文化が厚いところのコーヒーはやはりレベルが高い。そういうのは無理がないナローな展開だと思う。どっちだって話じゃなく両立しなきゃだけどね。

スローライフもスローフードにあやかって、人々がノリやすい話だったのだよなと。

というかむしろ、ゆとり世代が大人になって、軸になったのはこれだろう。のんびり暮らしたい。生きることに追われたくない。それには賛成する。

でも勤めないって意味じゃない。のんびり暮らしたいといっても、余剰あってこそ。自然が足りないという話そのものではない。

それはそれで大事なのだけど。スローの勤めない感じは、自然が足りないという以外にも範囲は広がる。

つまり問題は、現代社会が過剰に勤めを求めるという「空気」かなと思う。スマイル0円、人生を仕事にかけるのも0円、やって当たり前で、やななきゃサボり。あとは自滅的に、もっと詰めてしまう癖を治したいっていう問題。

詰まり切った思考に行間をもうけよという感じだと思うのだ。予定表は自分用に空いているのかっていうような。

余剰ありきということでのスローライフは、ノマドライフのすすめの亜種に見えるし、言いたいこととしてはムキになるなってことだと思う。

でもナチュラルにムキになっているのを見たりするんで、それは限定的に幸せそうというか。

人間が自然回帰したら、弥生より縄文だと思うけど、そうは思わないらしい。なぜか弥生式が自然であると。

もちろん自然の中で余裕を持とうというのには大賛成だ。しかしそのスローな時間はどう確保しているのか。

太極拳。あれはスローだが、すごく集中していると思う。のんびりさんが都市から脱出して、ということがスローではないと思う。量ではなく質、速度ではなく濃度を上げることだとは思うが、めちゃくちゃ難しい。

僕なんか細かさとか、半分諦めてる。端折るとかちょっとずるとかの高効率を求めちゃって、プライドを捨てないようにはしているけど。

でもどれだけできるのかという結果じゃなく、心の品を保てよということがスローだと思う。

さらにはスローライフになれば、日常世界でいいものを選べるようになるみたいなイメージに繋がっていく気がする。それも何か変だと思う。

スローを加える感じが変だ。本当のスローなら余計なことするなという引き算だと思う。本当のスローは現状をどこか返上する気持ちなのではと思う。

むしろ、ムキになる時があるナチュラル思考の人間に対して、それは過剰だというものがスローライフだと思う。過剰の返上なのだから、もちろん既存の世界に過剰に契約しているのも同じ。

ムキになって街を脱出するとか、ムキになって自然派であるふりをするとか、そんなのはスローの反対だと思う。

他に選択肢のない信念というか、歪んだ気取りというか。見栄というか。両立できていないというか。両立できていないよね、現代。脱煩悩がスローライフだと思う。つめつめ見て見ての酔いの脳じゃない。

というかライフに関してスローを当てはめるのは、なんかいまいちだ。あまり良い感じがしない。

というか余計な言説ではと思う。ていうか「ゆとり」のままでもよかったわけだし。カタカナワードの勘違い、気取り、過剰な解釈があると思う。

本来言いたいことはスローよりもゆとりよりも、地元とか地元空間とかだと思う。そこにスローのイメージが吸着したのではないか。

そうすると「地元上品化」という設定が、スローフードもスローライフも飲み込む言葉だと思う。

地元を薄めすぎでしょというか。東京式を返上するというか、おしゃれも含めて。東京式って、地元式ってなんだよって思うけど。

それと上品という言葉が人によって違ってしまうことと、差別的に感じてしまう人がいるかもしれないと思うけど。

地元上品化でなく、外部を返上してもっと引き締めた言い方をすると、「品のある人であろう(できてないぞ)」だと思う。

ファスト風土なんて真似ワードだと思うし。東京の真似化をほどほどにといっている者がそんなことじゃ全然おかしいって思う。

誰かが言っていることを「知っています」ってことではなく、自分の言葉で生きるプライドが、そもそもだと思う。程度問題だし両立だって言いたいのだけど。

帰省することもいい。地方からしたら叶わぬ思いがその時叶ったみたいに感じる。帰って来れるようにと考えて暮らしている。IターンとUターンはここがまるで違うと思う。

ゆとり世代の世界観は、都市より地方の比重が高くなるのだろうけど、そういった観点で時代を眺める必要もあると思う。

そう考えれば今やっても続かないものがあるはず。そういっちゃしょうががないところもあるけど。

まあ叶わぬ夢が叶うかもしれないというのはいいかもな。ロマンとは、かりそめ。休日のようなもの。

それもいいし大事だが、平日も必要だ。平日の余剰が安心のロマンかもしれない。行きは永遠の夏休み。帰るのだけどと。


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