ネットの生き方

1/6  有名になった、ヒト

僕が子供の頃、有名税という言葉があった。「有名になんかなったら落ち着いて生きられないよ」というふうだった。テレビに映る人はゴシップにさらされるし、イメージを守るために日常から気をつけることもあったようだ。場合によっては失脚。サドンデス。

そして今は多くの人が有名人的になったのではないだろうか。

人前に出たくなければ出なくてもいいはずだ。だけど挑戦すれば人生のステージが変わると言われると、頑張ってしたほうがいいとなる。やること自体はパソコンやスマホの操作が並にできる程度で十分足りるものが多い。ノリノリで人前に姿をさらしたい人にはいい時代だ。

推奨派からしたら、やらない意見を排除したくなってくる。向いていると思わなくても決意して小出しする人もいると思う。やっているうちに慣れる部分はあるだろうからやってみたらいいというのもわかるのだけど。実際はどうなのだろう?

なにか、自分に向いているからやるのではなく、そういう時代に合わせてやるべきだになっているところがよくないと感じる。ネット時代だし、時代に則したことをしていかないとうまくいかなくなるということはわかる。だからといって、向く向かないとか自分にとって要不要かがよくわからないまま、やるべしという空気圧に疑いがないことが問題だろう。

また今は、前例が参考にできない事柄が増えてきた。ネットの登場で時代はものすごく変わったからだ。それ以前のマジョリティは道徳を越えない生活をして、その生活が流通消費や世の雰囲気を作るようなものだった。あやしい道具は表立って扱われない。

ネット以降ではアプリケーションなどでも人々の生活を変えることが増えた。たとえば出会い系アプリ。抵抗感は別として、色々なタイプのアプリがあり、色々な使い方ができる。旅先で地元を紹介してもらう人とも出会えるだろう。インフラによって人の動きが生まれる時代になってきた。

状況に合わせて生きていくのは変わらないが、ベースにするものがデジタルの普及以降に変わった。より良いイメージを想像して正しく生きるより、現実現象をフラットに見て気をつけながら大きな効果を使うことになった。

物事の判断基準、進みかたが、道徳から道具になろうとしている。その大きな変化に抵抗をする既存の道徳姿勢と、手元に有るスイッチを選んでいく姿勢の人々が二分されている。

2/6 ネットに振り回される

言いたいことが多い人がいる。小説家の坂口安吾はエッセイなども多く残した。言いたいことが多かったのだろうと、そんな解説を目にした。それと、ごめん。僕らのように特に頭が良いわけでなくても、なにかを知ったら人に言いたくなるのはよくあることだと思う。

言いたいことが多い人は、世間の構造や時代に、どこか馴染めない人なのかもしれない。言わなきゃ成仏できそうにない。

ただ、知っていることを人に言いたくなるのとは逆の反応もある。知って納得して、黙って作業しはじめる場合も多いはずだ。つまり、知って静かになることもある。

「言いたい」と「黙る」。黙る人は、ものわかりが良いのだと思ってしまう。ただ現代のこの状況になったので、いい子だけがものわかりが良いわけではなくなった。この黙る人は、現状や現代性をいきどおりがない程度に受け入れて、時代の泳力を持っている。

現状や現代性との互換度がそれなりで、現状や現代性に苦しみやいきどおりが出るほどずれてもいない場合、何かを知って反論するよりも、理解した通りに快適に生きていこうとすることは多いだろう。この場合はかえっていい子的ではない。しつけや道徳的な呪縛から逃れ、親や大人たちの価値観から逃れて、現代的に生きている人だ。

もしかしたら全身で世間に馴染めない人もいるかもしれない。ただ、多くの場合はそこまでいかないのではと思う。なにかに限って現状に馴染めず、それが元で正解不正解の情報に反応させられてしまう人もたくさんいるだろう。その状態に麻痺してきたら、世界が善悪や正誤で敵・味方に別れるように感じられるのではないだろうか。

その反応はつまり、ポストモダン期に馴染めない人の世界観だ。時代状況が変わるのは仕方がないが、旧来の道徳的発想が抵抗をしているように見える。

ゲノム的に世間に馴染めなかったのか、柔軟性に欠ける人が馴染める輪に入ったから世間とは違う顔になったのか、よくわからない。なんにせよ、馴染めないと反応するほど、余計に世間の構造に馴染めない。

口に出てしまうことだけでなく頭の中でもそうだ。ノイジーな自分ならサイレントな自分を発掘したらいい。気持ちを活性化せよと言われてもなれないのならそれでいいのかもしれない。現状を使いこなしていければいい。

3/6 私

アイデンティティというやつだ。それはどうしたら持てるのか?秘密を持つことが一つだろう。実際にはそう単純ではないのだろうが、僕の理解が追いつかない。投げかけやすく理解しやすい形で続ける。

自分だけの秘密は、誰とも共通せずに独自のもので、私だけのものだ。アイデンティティの一要素になる。幼少期の方がアイデンティティを薄める問題が少ない。多くの人は成長するほど表面上「私」が筒抜けになっていく。そういうものでもあるが、今はさらにネットがある。

・自分だけの秘密 ・うちらだけの秘密 ・地元の人だけの秘密 こういったものはネットにより少なくなったし、自らも薄めている。

といっても、隠しましょうと言いたいわけじゃない。今は、あまりにもあまりにも露出する時代で、そこは考えものだと。

また今の風潮で、自分のキャラは周囲の人間が決めるものという観念に偏りすぎたきらいがある。それもあるけれどもそれだけだろうか?おそらくアイデンティティが内部から抜け出てしまった。

あまり偏りすぎるのはまずいことだ。自分が浅い。内部の核らしきものを見つけようともしないことがまずい。時代のアイデンティティ概念が必ずしもより良い状態とは限らない。ずれているのなら修正して、ヘンな流れに巻かれないようにしたい。

私の初期状態に色々なものが加わっていく。合理性が正しいとか道徳は絶対だとかそこで閉じることなく、まずはフリーに、自分はどんなものなのかをわかりたい。その後にコースアウトしないことを重ねて考えればいい。「私」の核は見つけにくいというよりも、合理性や道徳などに埋められているという感じだ。

「私」が外部から受け取った意見になっている。あなたの気を引くことがあまりに多すぎる時代が問題で「私」の核を見つめさせてもらえない。その心の状態だとスピーカーから聞こえるもので足並みを揃え、競合の世界にしか生きられない。

自分一人になれず、人と違うことを恐れる傾向だと聞く。群れの世界観に落ち着こうとしなくていい。誰かの意見を求めたり、オピニオンリーダーになろうとしなくていい。「黙って」いい。インフルエンサーに “なろうとして” ならなくていい。

自分が人々のインフラになろうとしなくていいのだ。モダン期は終わり、正誤よりも現状の対応度が生きかたを作る時代だからだ。

「ぶっちゃける」+「ご都合よろしいことを論じる」こういう性格の人もいるのだろうけども、そうでない人はこういった表しはしなくていい。もっと自分の性格に合ったものにしないといけない。

「ぶっちゃける」のではなく、もう少し作品的に表現を作るような意識があっていい。言葉としておかしいけれど、アイデンティティと自分とが一体になるような濃さが大事だ。

表現の尊厳、表現への尊敬、表現の手練れ、表現鑑賞力、こういったものを少しでも意識したら何か違うのではと思う。

それと僕は、誰の味方もしない基礎学問を信用している。僕の気を引こうとする知識を軸にしない。

4/6 ネットに出ない

以前の日本人からしたらこれほど自分を露出することは恥ずかしいことだった。そもそも見えないところが誰にでもあり、自分にもある。それが当たり前だと思っていたから自分の内部が不安になりにくかった。それをひっくり返せばどのみち半分は筒抜けなのだし、よりによってわざわざ積極的に見せる必要もない。さらにネット以前では、ここまで他者に影響されることもなかった。

露出。携帯電話の時代から、優越感を感じる競争が乱れてきた感がある。遠いところで騒いでるなという感じがなくなってきた。それに近い頃、テレビに品がなくなっていたことも「ぶっちゃけ」の下地を作ったかもしれない。

バブル期の外交員も相当日本の言い分を変化させただろう。さらには20世紀後期のグローバル化で欧米感覚が広まり、「言わなきゃ!」が変形して「ぶっちゃけ」ちゃったのかもしれない。

ネットが普及した時代になって、人類の感覚はすっかり変わってしまった。ネットという現実が増えた。またはネットという現実のまがいものができた。

それ以前にも、テレビや雑誌などメディアの影響はあった。それはミーハーやブーマーを産むとか、なにか人が浅くなるものに見えることが多かった。しかし今のように、ここまで自分を露出することはなかった。ここまで、自分だけの自分を失うことはなかった。

「私とは」が浅いから逆にはっきりするものもあるはずだ。強気の発言がしやすくなったのはこれかもしれない。声の浅慮化はものすごく進んだ。言葉にできたものを正しいと勘違いしてしまうのもまた底が浅い。

ネット以前は覚える回数も考える回数も多かった。考えるためにはほんの少しでも間を取る必要がある。それに、見えない部分も考えようとして、読みの深さは今よりはあった。鋭い反応はしないし、考えるほど絶対そうだと断定もしにくくなる。

仮決定の柔軟さを持つ人が広くいた。今は信じて疑わない人があまりに増えすぎた。一旦考える間を作らないからかもしれない。

5/6 信じすぎた現実と信じられない原現実

ネットも現実といえるのでこれも仕方がないのかもしれない。しかし原現実から見ると、現代では画面をあまりに信じすぎるし情報に頼りすぎるといえる。

かつての現実が原現実となった今、原現実としてはほとんど語られていないようにも思える。

ちょっとした郊外で、不意に感動する空に出会う。住宅街の夕暮れ時に、自転車で帰宅を急ぐ風景に家庭を思い出す。何年も前の写真を引っ張り出して、思い出を語り合う。原現実はこういう何気ないことに心が動いたりする。

綺麗な風景写真に惹かれて訪れて、写真とは違うなと思ったり、価値がなくつまらないように見えてしまう景色も原現実にはある。

文字にすれば風景描写のようなものだ。「文学小説読めよ」の一言で、原現実的な理解の獲得はだいたい済んでしまいそうなのだが。

原現実と現実を比べてみると、原現実では場所よりも時間的なものの方が際立ってくる。画面ではいつでもそれが見れるが、原現実ではタイミングが合わなければ眺められない。

それと原現実では昔に心を戻して懐かしいと感じたが、今では記憶の量や使いかたが変わって、フォルダを開く作業に近くなったのではないだろうか。

画面を見ているときは「原現実を1秒もみていない」と言える。よく切り取られた現実などというけれど、空間の切り取りよりも、「いつのものでもない」こと、時間を抜き取られた空間の抜け殻だという方が非・原現実的だ。

自分や他人を見るときもだ。原現実で人物を考えるときにはタイムスパンが必要になる。ネットを見る目では見えない。表面を見るだけになってしまう。ルッキズムが問題になることがあるが、メディアの副作用や、こういう時代の影響はあると思う。

原現実の感覚がなければ、人物も人生も感じることができない。生物的な勘もないのではないか。原現実のアイデンティティは時間帯の幅がある。今の現実から一旦離れて原現実を眺めないと、眺められないものは大きそうだ。

さらにインターネットほど不正確なものを、信用する感覚はあまりなかった。テレビコマーシャルや雑誌広告くらいだったかもしれない。ネット時代になり、科学時代から言い伝えの時代に戻ったかのようだ。

ネットではむしろ「当たり」の話を引くのに実力を要する。または自分の実力階層や属するクラスタのものを引き出す。ネット検索は性格と実力次第で変わってくるが、知とはなかなか身につかないものだ。こういった現状、インターネットは原現実からしたらもはやインチキとしか思えない恵みなのに、現実にはものすごく頼っている。

原現実との互換性を、ある程度は取り戻さないといけない。原現実ではずっと見ていたら見え方が変わるものも多い。植物観察だとかもそうだし絵画鑑賞もそうだ。

原現実では時間的なものが重みや厚みになる。生活を考えるのであれば、歴史あるまちを定点観測し続けることは大きな力になるはずだ。例えば武士の時代よりも前から栄える町は、女性的な文化を感じられることが多いだろう。

6/6 ネットも現実だ

廃墟の美学について読んでいたら、snsアカウントは墓石なのだろうなと思えた。ファボるのは、線香をあげることなのだろう。原現実から時間が抜けたものが見える。

いいものも悪いものもどちらもで、墓石から強い感情が溢れていたら、見ている側はたまらないだろう。キラキラ発信もイケ映えもそう。感情強めの発信もそう。sns疲れは、時代を先走ったsns暴走に混乱させられた結果ではないだろうか。

自分から出る感情で物事を捉えられないといけない。人間だから怒りの感情が湧くことは基本設定なのでいいとしても、他人に感情を操作されていたらもう自分の魂などではない。画面を見て怒ることは死者に感情が掴まれたのと同じようなもの。「私」の感情は奪われている。

骨組みに肉がつく私たちだからかもしれないが、貝殻にひかれる。でもそれは時間が止まった命の抜け殻だ。廃墟だ。

廃れたリゾート地は、夢がまだそこにいるように感じ、「まだそこに誰かがいる」「過去にあった幸せや輝き、そう思っていたこと」この感じが悲しい。今の現実に当てはまればキラキラ発信やイケ映え発信だ。

廃村や廃寺はかつての生活が思い浮かび、抜け殻になったのが悲しい。捨てられた悔しさのような影を感じて、つい手を合わせてしまう。感情強めの発信に似てくる。

「終わりのない廃墟」のようなものがネット現実なのだろう。

アナログ画質や解像度の低い画像、そういったぼやけたものがノスタルジーに感じられてしまう。実際に古いものだけではなく、作ることはできる。

人が頭で想像するのとは違い、機械で画面化する場合は、過去にはいけるが未来にはまだいけない。以前の画面はわかるけどこれからの画面はどんなふうになるのかわからない。原現実なら未来の想像は可能だが。

現実が混乱する。どうしたらいいのか、ネット時代には。先に出てきた、表現の尊厳、表現への尊敬、表現の手練れ、表現鑑賞力は必要だと思う。表現を磨くことが、今の時代、魂を残すことに似てくるからだ。

原現実でマニアは、言葉では説明できないから、表現をする必要がある。また原現実でも同じだが、ほんの一拍おくだけでもかなり臭みはとれ、手渡しできるようになる。

発信は墓標のモチーフになるものなのだろう。内部の核を知ることがこの現代でやることの一つだ。ネット以降のアイデンティティは外部に移動したように見えたが、本当はそうではなかった。ネット現実のアイデンティティはマニア性だ。それが現代版の適性発見だ。

マニア性を表現する。または発表工程の小さなこだわりは無くさない。学歴や経歴があるよりも、マニア性があることだ。

あなたはなにマニアなのか、炭火のように長く熱源になるものはなにか。自分の一貫したところや、ついやってしまうようなこと、または人と違ってそれが苦にならないようなものが何なのか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?