学習する学習:社会考7/8

なぜ勉強をするのかを説明できない大人たちでは子供を納得させられず、無理やりにやらせることになると思う。こういう状態では、学びが自発になることは偶然任せだ。内発的ではなく、説得するようなことになる。社会が求めている人物像、親が求めている人物像に子供を仕向けることが問題なのだと思う。


これは、一つとしてだが、日本から昔話を「語り継ぐ」ことが消えてしまったからかもしれない。物語を知ることだけでなく、継ぐことで、語り手自身も「人生より大きな知」に参加できていた。「人生よりも大きな知」が奪われていることが問題なのだ。

社会よりも自分の方の知識が大きく上位になって、社会を自分よりも狭いと考えている人は少なくないと思う。冷静に考えればそんな人間はいないのだが。

この、人生よりも大きな知が奪われた状況は、各人の内発の人生観を伸ばさない。世界観が人生よりも小さいのだから、人生が窮屈で歪んでしまう。非現実にはみ出してしまう。子供の問題だけでなく全世代に関係のあることだ。とはいえどうしたらいいのか。

現代的な生き方は有機的なものが失われている。語られている社会のサイズが小さい(いや、語りきれないはず)。

そんな社会に合わせて能力を育てることを考えるのではなく、自分の能力を活かして社会に役立てることを教えられる生き方がいいと思う。後者の方が、前者よりも、自由に成長できる社会だ。のびのび育っても頭打ちしない余裕がある。

人ひとりの人生よりも大きな知とは、例えば民族的な知だ。このためには、教育機関だけが固定的に教育するのではなく、柔軟に家族や周囲が生き方に関わらないと難しいのかもしれない。とはいえ現実との間が空きすぎて机上論だとは思うが、どうにかならないものかと思ってしまう。


ということは勉強する意味や意欲や動機など、現状の感覚の大人が説明するのはよくない。結局の内容は「実用的だから」とか、「社会のためだから」になりがちだ。さらには「ネット社会で効率的だから」とまで広がっているだろう。

そうではなく「人生よりも大きい知(の挙動)を知ることが、内発的な人生観の成長を邪魔しないために重要だから」なのだろう。ひとつとして、基礎学問を横断的に学んだら、相当な広さになる。

おそらく、子供に対して総合的にどういう指示をしたのか、よくわかっていない人は多いのだと思う。悪いことをしているつもりではないだろうが、「社会のため」では自分を生きれない。

現代の状況で手にできる範囲の自由がある。自分の能動性を、おさえるようなことをしてはいけない。

色々な能力で生きていける社会を目指すのなら、一つの出どころから学ぶのではなく、シンポジウム形式など、多面的に学ぶ方が良さそうだ。


デンマーク、エストニア、アイスランドで学校、教育を視察してきた。(僕は教育関係者ではないが)。それをそのまま日本にもってこれる気はしなかった。しかし要素は日本に必要だと思った。

僕が大事だと思ったことは、子供のうちに自分の更新を教えることだ。北欧の教育では、懐疑心を偶然に任せるのではなく、導いていると感じた。懐疑心というと、多くの日本人はいいものとは思わないかもしれない。しかし懐疑心と猜疑心をはっきりと分類して、いい意味の懐疑心に気づいてもらいたい。

猜疑心は自分の世界を閉じながら、それ以外を疑う。そして自分側は正しく、他はおかしいという考えが濃くなってしまうと、人間関係をなくしたり、社会性をなくしたりする。

懐疑心は絶対の理由で閉じるのではなく、仮決定状態だ。そうすると自分の内面も疑える。それに仮決定でも納得いくので、神経質なほど無駄のない状態の答えを手に入れなくてもいい。そして自分の体験から、新たな仮の答えを出すことができる。自分の考えで生きていけるのだ。

懐疑心があれば、情報操作されにくくなっているだろう。リテラシーの獲得には知識だけでなく、懐疑心は大きな力になる。またその状態は、知の応用が効き、人生に関わりそうな興味も自走するだろう。

学問の世界であれば、「巨人の肩に乗っている」ので、そういった仮決定の中で、懐疑していける。懐疑心は世界観の更新や成長につながる。懐疑の時期の、数ヶ月や数年は、子供時代などに信じたものを否定的にとらえて、気持ちが離れることはあると思う。


日本の社会は、子供は大人のいうことを聞くという設定があると思う。デンマークでは子供時代に、自身の意思で簡単なことを決めていくように促していた。日本の場合は、子供と大人のギャップが大きく、子供からの卒業が難しい。または社会が子供化しているのではと思う。同世代で、「社会」で生きていく力はあっても、子供騙しから卒業していない人が相当に多い。

あそこが真ん中だよと言われてきて、もっと真ん中をみろと言われてきた。マトの外枠をしらなくて、本当にそこがマトの内側だってどうして思えるのだろう。言い聞かせることではなく、見て覚えることであれば指示しなくても済む。


言った通りにする(させる)ことが多く、いつまでもなぜなのかを問い直さないから、内発的なものを活かせるような社会にならないのだろう。

幼児期に、自分がいった通りに大人が動くと、他人は自分のいう通りにすると思ってしまうらしい。その都合を含むことのできる理解で世界観が広がってしまう。

強引にいい続けて、もしいうことを聞かないものがいたら、そういった人間は排除する。そしていうことを聞く人間だけが正しいといって囲う。人間を論理下に閉じ込めてしまう。

自分の世界観を更新できないと、つまり懐疑心をもたないと、他人を巻きこんでしまうこともあるだろう。教育は人を、二元的な正しさに閉じ込めないでほしい。


プロセスを経て結果があるので、ダイジェストの説明ではうまく伝えられない。出来上がりを買うこともあるが、プロセスまでわかることが学習になるのだと思う。

自力をつけるのなら全行程端折らずに、少し辛抱のいるものだ。そういった理解をして、そう思って動いていくためには、不都合な話に閉じないことが必要だろう。端折れないのだから。

一手間多くても当たり前と思っていたら、作業が徐々に高度になっていく。現状の自分の範囲を超える知から、自分や挙動を考えていかないと、閉じた状態になってしまう。


ジュニア世代だけがロスジェネだろうか?そう教育されても、大人になったらそんな社会が用意されていなかった世代だと考えると、以降の世代はみなロスジェネだと思う。ゆとり世代にも同じように社会にて苦しむ人はいるだろう。

教育に大人の正解を込めないで(込めすぎないで)ほしい。さらに教育の「方針」や「みんなが知ること」で社会を変えるという考えもよく聞くけれど、慎重に考えたらこれはものすごい犠牲を生みかねない。やめてほしい。

「現実に接点を持つ」ような知を端折らずに、方針こめずに伝えていけばよいのではないか。時代の様子が変わっても基礎を身につけていれば、応用ができる。人生の育て方だと思う。

理想や、得点などの仕組みに人を合わせるような操作は考え直してほしい。教育で心が育まれていないような語られ方を耳にするけれど、教育的な導きで内発性が曲げられていることが心の問題だと思う。足りないのではなく余計。


日本の感覚にはトライアルがなく、いきなり初心者から始め、やるのなら覚悟を決めろ、やめるのなら腹をくくれと言われる。この上側から決める閉じた形状が問題だと僕は考える。

現代の社会では選択は自由だが、選ぶための資格は問いすぎるし、捨てたり変更したりがしにくいし嫌がられるのが大問題で、僕はそこが大不満だ。点は取れるか?、人生変えるな、解約するな、といった押さえつけを感じる。いやだ。

内発性に関しては、教育そのものの問題よりも、例えば、遊び場がないとか間に合わせ感でしょぼいとか、画面が遊び場だとか、大人の都合の方がはるかに問題(影響)あると思う。

今の世界観の外側と出会えるかどうか。その中に勉強という手もあると。それでいいと思う。少なくとも受験ヒステリー時代よりも前には、そんな感じはあった。


乳離れをさせようとして、乳嫌いを仕向けたら、即効性はあるだろう。しかし満足に不信感を持ってしまう。新しい興味が目を引いたのなら、満足感に傷をつけない。

全ての人に想像力を求めると、想像できない人は「発達障害」になる。マニュアル通りにこなせればいいだろうという扱いを受ける。頭ではなく手が器用ということも十分にあるだろう。理想社会を創造しようとして、文明文化を人間ごと燃やしてしまう。

自由時間くれなきゃもうやりたくないよって下向いた人だらけになってるのが社会問題。それで投票しようといわれても、もうこれ以上、仕事でもないのだし、指図されたくないよって人だらけなのだから。人は思うほど、正しさに納得していない。

騒音、騒景、ノイズ(バイアス)などでかすんでしまった自分が、晴れて見えますように。遠くも見たい。

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