趣味が動物的だった時代

好きなことをやろうとよく耳にする。もちろん賛成だ。ただ同時にいくつか頭に浮かぶことがある。

それを浅い意味でとらえるとちょっとどうかなと思ってしまうのが一つ。もう一つは、興味とか趣味とかをやってない??え…という驚き。

浅い意味での方を深めるとクサくなりそうなので、今回はパスする。いや興味趣味の方もクサくなるかもだけど、でもこっちで進む。

団塊ジュニア世代の子供の頃など、いくらか時間に余裕があれば趣味を持っていたものだ。その趣味も色々で、切手収集や鳥の羽を集めるだとか貝殻だとか、プラモデル作りやお絵かきだとか、まあまあ、そんな感じだったと思う。必ずしもお金がかかるとは限らないと。

趣味や興味のイメージはむしろ、お金をかけるものではなく能力が上がっていくもの。技の向上や突き詰めが目的の本体だと感じられていた。体がそうしたがっていたというか。だからか、趣味や興味がないなどという子がいたら、何か哀れに思えたものだ。

いつの頃からか、技術や世界観が向上していくものよりも、モノだのみになっていきました。今ね、経験が大事だというけど、経験競争にも見えちゃう。経験コレクターというか。以前はこれとは違う感覚だった。

以前の感覚は、自分の内側の力が増すことが自信だし喜びだったと思う。今は満足、昔は喜びが経験の着地点だったかなと。ま、お金次第がいつの間にか始まっていた。80年代くらいからその感じだったように思う。

子供たちが興味や趣味を持てる余裕のある時代が終わって、勉強や習い事がその位置に入ってきた。これが、新自由主義の社会が町に広がってきたときだったのだろうと

それでこれをいいか悪いかというのは無しにして。僕ら、興味や趣味に気を向けることが少ないのが当たり前になってしまった。興味や趣味の向上が自信をつけるものだったと思うし、自分の適性を大きくするものだったと思うのだけど。

ちょっと、あまりにも、論理化したものが敷き詰められてしまったなと思う。全体の設定が先に仕組まれている人生になってきたなぁと。後になって気づいたらこれが得意だったみたいなものじゃなくて、社会に有用かどうかが先にあって、それができるかどうかになってしまった。

もう少しくらい、脱論理的な時間の過ごし方はあってもいいと思う。頭で考え出せるものばかりでなく、なんとなくやってしまうようなものも、もっと解放できればいいのだろうなと思う。


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