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17歳の身体障害者から(2019年講演会原稿)

ども!ぺぇたぁです!
前回の記事で毎週記事を書くと宣言してから2週間がたちました!
初志全滅ということでもう怖いものはありませんね。ここからは俺のターン!ってわけです。

ちょっとテスト期間につきバタバタしてまして、更新できずにおりました。
あ、もちろんTwitterはちゃんとみてましたよ!!!本当にごめんなさい。

そういうわけでして、新たに文章を書く余裕もないので、自己紹介もかねて、私が高校2年のときに地元の福祉系専門学校でさせていただいた講演会の原稿を置いておきます。
ちなみに初めて公の場に出される原稿です。

生まれてから高校入学までの自分史のまとめと、当時の思いを赤裸々に語っています。

改めて読み直してみると、高校生ながらに結構いいこと書いてるなと思うので、最後まで読んでくれたら嬉しいです。

(個人情報につながる部分は一部変更を加えています)



はじめに

皆さんこんにちは。
本日はお忙しい中、昨年に引き続きこのような機会をくださったT先生(講演会を開催してくださった専門学校の先生)、そして私のつたない話を聞いてくださる生徒の皆さん、本当にありがとうございます。

私の17年の人生の中で感じたこと、考えたことなど、体験を交えながらお話させて頂きたいと思います。

自分の人生を振り返ってみると、今こうして元気に高校に通い、様々な活動を通して多くの経験をさせて頂けているということ、また、その中でT先生と出会い、皆さんの前でお話させていただけるのは家族や、学校の先生、そして、リハビリの先生を始めとする多くの医療関係者の方たちの支えがあったからだと思います。

私は先天性筋ジストロフィー症という筋肉の病気です。
ちょうど一年前、今日と同じように、ここでお話させていただいた時に、「こんな夜更けにバナナかよ」という筋ジストロフィー症の鹿野さんが書かれた本を元にした映画が上映されていて、いつ私のところに出演依頼が来るのか、楽しみに待っています。というようなお話をさせて頂きました。

残念ながらスクリーンデビューは出来ませんでしたが、ひょんなことから郡山のコミュニティラジオのパーソナリティのお話を頂き、月に1度、友達と一緒に出演させて頂いています(※2019年当時)。

生後~幼稚園時代

私はいわき市で生まれ生後4ヶ月で病気の診断を受けました。今の医学では根本的な治療法がないので、小さな頃からリハビリに通っていました。リハビリを紹介された時、母は何かできることがあるのが嬉しかったそうです。

また、移動用のバギーを作った際には、力の弱い私が横に倒れないように、OTやPTの先生と相談しながら、背中の形に合わせた座位保持を作りました。そのおかげで私は綺麗な姿勢を保持したままでいることが出来ました。

2歳からいわき市の保育園に通い始めました。リハビリで培った四つ這い移動を駆使して、ほかの子に負けないぐらい動き回り、保育士さんの力を借りながら楽しく過ごしていました。

いわき市では障害があっても市の保育園はどこでも受け入れてくれ、必要に応じて、補助の先生が付いてくれることになっているようで、思い返してみると、クラスの先生のほかに、いつも私に付いてくれる先生がいました。たまたまいわき市に住んでいたので、当時は分かりませんでしたが、とても恵まれているな、と感じると同時に、ほかの市でも同じような環境に整って欲しいと思いました。

またその頃から側弯を防止するためにコルセットのような補装具をつけ始めました。体にピッタリとつけるのであまり好きではありませんでしたが、新しいものを作る時に自分の好きな色を選べるのが楽しみでした。

私が初めて電動車椅子を作ったのは5歳の春でした。小学校へ向けての準備です。この時も、バギーの時のようにOT、PTの先生と背中にあった型を取り、補装具と合わせて側弯をできるだけ防げるように作りました。整肢療護園という施設に3ヶ月1人で入所し、リハビリと合わせながら車椅子に乗る練習を始めました。

家族と離れて寂しかった私にとって、電動車椅子に乗りながら、リハビリの先生と散歩をしたり、ゲームをしたりする時間がとても楽しみでした。ジグザグ走行などで運転の練習や交通ルールの話をOTの先生から教わりながら車椅子を乗りこなせるようになっていきました。自分で好きなところに行けるのがとても嬉しく、いつも走り回っていました。

そして療護園を退所し、父の転勤で郡山市へ引っ越してきた私は、M幼稚園で半年程をすごしました。そこでは障害のある子のクラスと、普通の子のクラスが同じ建物の中で過ごすので、障害に対しての偏見が少なかったように感じます。同じ環境で過ごすことで、互いのことを自然に受け入れられるきっかけになっていると思いました。

時々外出しているときに、1度通り過ぎたのに戻ってきてマジマジと見つめ直したり、中には「どうしたの?足痛いの?」と聞いてくる子がいます。私はただ見るだけよりも、気になることがあるなら質問して欲しいと思っています。

なぜならきちんと自分のことを説明することが出来るからです。子供たちも悪気があって聞いてくる訳では無いので、答えてあげると納得してくれます。

見たことがない、知らない、自分と違うものに対しての子供たちの反応はとてもストレートで、時には辛いこともありますが、私のことを知らずに偏見を持たれてしまうより、きちんと知ってもらった方が嬉しいです。相手を知るところから共に暮らす社会は作られると思います。

小学生時代

小学生になり支援学校に入学した私は車椅子を飛ばしながら楽しい学校生活を送っていました。特にプールの時間が好きで、自分の足で立って歩くことが出来る喜びはとても大きなものでした。プールは全身を使うので身体にも良く、私が好きだということもあり、毎週県内のプール施設に通いました。

毎週通ったことで施設の人と顔見知りになり、着替えやすいように椅子を用意してくれたり、空いている時は専用レーンを貸していただいたりしました。

色々なところに私が出かけることで、この人に何をしたらいいのかということを相手の人も少しずつ考えてくれて、世の中が少しずつ変わっていきました。だから沢山出かけた方がいいと両親はいつも話していました。

とにかく車椅子で走るのが大好きだった私は学校の先生にパラスポーツの世界へと誘って頂きました。そしてスラロームという、車椅子で決められたコースを走る競技に打ち込むようになりました。
県のパラ陸協に入り、国体を目指して練習を重ねました。

今年はいよいよ東京オリンピック、パラリンピックが開催されるということで、パラスポーツも注目を浴び、認知度が高まってきています。パラリンピックが終わったあともこの勢いが続くことを願います。

側わんの進行と手術

そんな私でしたが、小学6年生の頃から側わんが酷くなりました。そのせいで胃が圧迫されてご飯があまり食べられなくなり、体調が悪い日が続きました。補装具ではもう防げないところまで側わんが進んでしまっていました。

そんな時、療護園の整形の先生に側わん症の手術を勧められました。それは背骨を太い針金のようなもので固定するというものです。大きな手術で不安もありましたが私は手術を受けることに決めました。

手術を受ける病院は勧められたいくつかの病院に実際に行ってみて、神奈川にある北里大学病院に決めました。手術をしてくださった先生は筋ジストロフィー症の研究をしていて、側わん症の手術の名医だったからです。手術前の検査や貯血のために片道5時間の道のりを何度も通いました。貯血はなかなか上手くいかず、一日に10箇所近く針をさした日もありました。

そして中学1年生の秋に受けた手術は成功しました。首から腰までメスを入れる大きな手術でした。
術後は奇跡的に痛みもなく1週間もしないうちに車椅子に乗れるようになり、手術から約3週間で退院することが出来ました。
術後の自分の体に慣れるのにしばらく時間がかかりましたが、少しずつ食べる量も増え、今のようにとても元気になりました。

入院している間、向こうのPTやOTの先生に手術前後の体の機能や運動能力の変化などをチェックしていただくなど、色々な面でお世話になりました。

術後の体の変化により、長い時間車椅子に座れなくなっていた私は、長く楽に車椅子に座っていられるように良い座り方の相談にのってもらったり、集中することで一時的に座っている疲れを忘れられるような楽しい作業をさせてもらったりしました。そのおかげでこんなに早く退院できたのだと思います。

また側わんが改善され、背骨が固定されたので、補装具を付けなくてよくなりました。物心つく前から一緒に成長してきた補装具との別れは寂しくもありましたが、苦しさから自由になることができました。

高校受験


手術を終えて体力もついた私は中学3年生になり、いよいよ高校受験を迎える歳になりました。

私は以前から普通校に通いたいと思っていました。たくさんの同級生と、学園ドラマのような青春をすることに憧れていたからです。両親はそんな私の夢を応援してくれました。と同時にとても心配していました。今まで小、中と支援学校で手厚いサポートを受けてきた私にとって、普通校はとてもハードなことが多かったからです。

普通の人であれば志望校をどこにするか悩むと思いますが、私は悩む必要がありませんでした、というより悩む選択肢がありませんでした。私が通えるような、バリアフリーの設備が整った高校は郡山市には1つしかなかったからです。ですが、初めて学校見学に行った時、校舎が綺麗で先生方の対応など学校の雰囲気が良く、ここに通いたいという気持ちがより一層強くなりました。

みんなに普通高校を受験すると宣言していたので、不合格で支援学校に戻るのは少し恥ずかしいのもあり、プレッシャー200%の受験でした。合格発表の日、自分の番号を見つけた時のあの湧き上がる喜び、忘れられません。

高校生時代

高校での生活は支援学校のものとは全く違ったものでした。たくさんの友達と合唱コンクールや体育祭、文化祭などの行事に一緒に参加することができ、ビバ青春!な日々を過ごしています。
入学したての頃は段差があって行けなかった場所も、学校がスロープをつけて下さり、ほとんど不自由なく生活出来ています。

2年生になってからは学校の生活にも慣れ、友達と出かけたり、なにか活動したいという気持ちが強くなりました。そして、今までしたことのなかったことを沢山経験させていただいた1年になりました。

初めて友達と電車に乗り、映画を見に行きました。今まではどこに行くのも父や母が一緒でしたが、友達と2人だけで行くことができ、とても楽しい時間を過ごすことができました。

そして、電車の乗り方を覚えた私は今度は1人で出かけることにしました。1人でとは言ってもトイレや色々なことで介助が必要なので、ヘルパーさんに同行してもらいました。

この旅では初めて路線バスに乗りました。路線バスはスロープの着いているノンステップバスにしか乗れず、運行している本数が限られているため、前もって来て欲しい時間と場所を伝え、予約をしました。バスが来るまでは本当に乗れるのかとても不安でしたが、無事に乗ることが出来ました。

初めての一人旅の経験のおかげでとても自信が湧き、今ではもっともっと出かけたいと思っています。

また、友達が国際交流に興味があり、高校生団体を立ちあげるので手伝って欲しいと声をかけてもらいました。そして、ラジオのお話を頂き、月に1度自分たちで収録をして、20分ほどではありますが、自分たちの番組を放送させていただいています(※2019年当時)。
その他にも駅前で行われたハロウィンイベントにボランティアとして参加したり、自分たちが企画した国際交流イベントを開催したりと、とても貴重な経験をさせていただいています。

障害を持っていると誰かのお世話になることが多いのですが、こんな自分でも役に立てることがあることが嬉しく、いつもワクワクしながら活動しています。

学校でも今年は修学旅行があり、九州に行きました。初めての飛行機で、ドキドキしましたが、はしゃぎすぎて先生に呆れられるほど楽しい時間を過ごすことが出来ました。

それでも、街の中にはまだまだバリアフリーではないところも多く、みんなと一緒に移動できなかったり、友達と出かけられないこともたくさんあります。

友人達とご飯を食べに行く時には、私が入れる店を探すところから始まります。
いざ行ってみると一段の段差に阻まれることもしばしば……。悔しさ、寂しさを感じることも少なくありません。

今回利用したバスも予約しなければ乗れず、もし乗り過ごしてしまったり、連絡ミスでバスが来なかったりしたら…と考えると、不安になりました。

学校もできるだけ配慮して下さり、ほとんどみんなと一緒に行動させてもらっていますが、修学旅行中も一部別行動しなければならいところがあり、悲しくなった時もありました。

高校生活の中で、そんなもどかしさをできるだけ少なくするためにどんな風に友達や先生にアプローチし、気持ちを伝えていくのがいいのか模索しています。
社会に対してもそうです。形だけのバリアフリーのところも多くあります。
たくさん出かけて更にビバ青春!する為に声を上げていこうと思います。

私の想い

私には今、夢があります。
それは、やりたい!と思ったことを誰もができる社会を作ることです。

一人暮らしをしたい。高校で青春をしたい。世界中を旅してみたい。彼女が欲しい。
人それぞれ、大きなものから小さなものまでやりたい、叶えたいことがあると思います。ですが、この世界にはまだまだ多くのバリアがあり、1人ではそれを叶えるのが難しいこともあります。

例えば私が青春をしたい!と思った時、両親や中学、高校の先生、介助員さんや友達のサポートがなかったら、諦めていたかもしれませんし、仮に高校に入っても、そういう選択をしたことを後悔したかもしれません。

自分が思ってる以上に周りの人のサポートの力は大きく、大切なものです。
誰かと協力して始めてバリアを超えることができるのだと思います。

私はそんな夢を持つ人と、その夢を応援しサポートしてくれる人を繋ぐような事が出来たらいいなと思っています。
そして自分のようにもどかしい思いを抱く人が少しでも少なくなるように、声を上げ、環境の面だけでなく心のバリアもなくしていきたいです。

障害があってもなくても、楽しいことや嬉しいこと、辛いことや悲しいと感じることに違いはないと思うのです。
たくさんの選択肢があり、それを選ぶことが普通にできる、そういう社会になることを願っています。

今日こうして皆さんの前でお話させて頂いたように、人との出会いを大切に繋がっていきたいと思います。

誰かのために行動することは、相手の幸せだけでなく、自分自身の幸せにも繋がっていくと信じています。

皆さんもこれから先、病気や怪我でサポートを必要とする方にたくさん出会うと思います。皆さんは、そのご家族にとっても心強い存在です。

改めて、私を支えてくれている全ての人に感謝すると同時に、ここにいる皆さんが、誰かを支えることの喜びを感じてもらえたら嬉しいです。

ありがとうございました。

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