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短編 バイオリニストと万年筆11

演奏後、ノージャケットのスーツ姿で彼は、気がつけば隣に立っていた。
後ろへ撫で付けた髪が、少し汗ばんでいる。
「久しぶりです。来てくれてありがとうございました」
話をするのは二度目だった。驚くべきことに、まだ二度目なのだ。二度目の彼は、最初の時よりもずっと幼く見えた。そして、居心地の悪い懇親会での彼とは全然違う空気を纏っていた。私は思うところが多すぎて、口を噤んだまま見つめ返してしまう。これから私は、まずはじめに何を言うべきかという問題を考え出す、と予感する。その前に早く。私の中に思考がやって来る前に、もう早く、言ってしまいたかった。

しかし彼はコップを二つ差し出してみせて、お酒は飲める方ですか?と私に尋ねる。そして、こっちはラムバックで、ジンジャーエールは辛いタイプの、などと中身の説明を始めるものだから最後まで聞いていられなくて、
「すごくよかったよ。ほんとうにすごく」
と、言った。
彼はようやく口を閉じて、私をじ、と見てありがとうと言って笑った。

彼は結局、自分用に持ってきたらしいラムバックを勝手に飲み始め、黙って私に、グレープフルーツジュースを手渡した。最初からそのつもりだったんじゃないか。
身を入れた演奏後の彼は少しだけ、世界に対してやりたいように振る舞えるらしかった。
「急な招待ですみませんでした。学生時代の友人に、急遽頼んで一曲だけ入れてもらったんです」
「あの女性シンガー? あの人もすごくよかったです」
「彼女はもう、れっきとした日本のプロですよ」
「そう言えば、お母さんは来てるんですか?」と聞いてみた。
「え? まさか。仕事ですよ」
彼は、何でもないような顔で答えた。そうか。だったらあれは、女性シンガーの熱烈なファンだったのか。私は少し安堵するが、あの眼差しをまた思い出す。明らかに、バイオリンに欲情していましたけどね。
「お母さんには言ったんですか? その、左でいくっていうのは」
「いや、言ってないです」
「右利き用のバイオリンが家に置いてあったら、気がついたりとか」
もしも彼女が虎視眈々と、左利き用バイオリンの覚醒を待ち受けていたとすれば、この時を見逃すわけはないと私は思った。
「別に、気づいたならそれでいいんですよ。必死に隠すっていうのも、なんか違うし」
アンコール曲も終わり、人の引け始めている会場を見渡しながら、彼は言った。
それもそうかもしれない。母親が、どんなに熱烈に彼の音に惚れ込み燃え上がろうと、彼はそれを知らされることなく、これまで感じてきた違和感に煩わされることなく演奏を続けていけるのなら、それはそれでいいのではないか。
「横浜はどうするんですか」
「え」
「横浜は、どっちで」
「ああ」
彼は私とは目を合わせず、会場から出ていくお客の顔を目で追っている。
「横浜は、クラシックに詳しいお客さんばかりなんです。今日は客層が違うから、右だろうが左だろうが気づかれないし、気づいたとしてもそれがどれだけ稀有なことかわかる人は、少なかったと思うんですけど」
「明日やれば、ざわつくわけですね」
「たぶん、ある程度は」
「迷ってるんですか」
「どうかなあ。今日演った感じで決めようと思ってたんですけど。どう思います?」
訊きながら、私を見る。
「そうですね…」
左でやってほしいです、と無邪気に言いたかったが、彼が左でやるたびにあの女の人はこっそりとやってきて、会場の片隅で、あんな顔をして彼の演奏を聴くのだろうかと思うと、すぐには答えられなかった。

そもそも、あれは彼の母親ではないかもしれない。そのことを直接彼に確認したいと思ったが、もしもその特徴を伝えて、彼の母親と一致したとしたら。
その特徴は確かに僕の母ですけれど、会場に来てたんですか?と聞かれたら、もう後には引けないだろうと思った。
彼と母の関係は、これからもずっと続いていくのだ。彼の母は、彼に何も言わずここへ来たのだし、だからこそ無防備にあんな顔を晒していた。たまたま居合わせてたまたま見つけてしまった私が、今まさに動きかけている二人の関係に余計なヒビを入れるのは、無遠慮だし過干渉、あるいは余計なお世話だと思う。
「あ、僕そろそろ片付けに行かないと。変なこと聞いてすみません」
「いや、あの」
「本当にありがとうございました。左を聴きたいと言ってくれて」
私は黙ってうなづいた。
「それじゃあまた。手紙を書きますね」

深々と一礼をして、あっという間に去ってしまった。

私はどこかで、彼の母親らしき人が来ていたことを伝えたいと思っていたのだ。それは多分、私が彼と関わりたいからだ。彼にとって重要なことを私は知っているんです、と言いたくて。なんて傲慢なのだろう。これでは、気を引きたいと思って手紙を書けなくなったあの時と変わらないではないか。

私が言おうと言うまいと、遅かれ早かれ明るみに出ることだ。
直接会うことの出来た今こそ、過不足なく伝える最善のチャンスだ。
都合のいい理由付けがいくらでも出て来る。でもどちらにしてももう遅い。彼は行ってしまった。これでよかったのだ。

私は、空になったステージを見遣り、さっきまでここで彼が鳴らしていた音とその姿をもう一度思い出した。母親がどうであれ、いくらあがいても母親の影が消えないとしても、今日の彼は、あの演奏をやったのだ。内面の葛藤を抱えながら、その爆発を抑え込んで、バイオリンを制御していた。この人は演奏家として生きていくんだ、と感じた。

その人を前に、私はどう在りたいだろうか。
私は何として生きてくのか。まだ小さな文学賞一つしか掴んでいない、プロとは到底言えない、何とも名乗れないような私は。
でも、お金を稼げるようになった時から作家になるわけではない。いろんな考え方があると思うが、それは、彼を見ていて思ったことだ。

彼は、バイオリンをやるかやめるか、というところには立っていないのだ。彼は逃げないし、これからもやる。そうにしか見えない。

「すいません、そろそろ」

ライブハウスのスタッフが声をかけて来た。気がつけばフロアに会議用の机が二台ほど並んでいる。紙皿につまみが並べられ、どうやらここで演者の反省会のようなものが行われるらしい。あの女性シンガーが仕切って、プラスチックのカップを机に並べている。

私は出口の方に向かいながら、彼と初めて会った懇親会の光景を思い出していた。小さな文学賞の、授賞式後の懇親会。
私は過去の受賞者で、彼はその授賞式に呼ばれた演奏家だった。あの場には審査員の先生もいて、小説家志望の人が、何人もいたのだ。それでも私は所在なく、ぼんやりと端の方に座っていた。何もしなかった。何かをしようとして失敗したわけではなく、最初から何も望まなかった。

そして小説のことなど門外漢で、所在なくて然るべきである演奏家の彼と、身を寄せ合って、話をした。万年筆を貸した。だから彼と出会ったのだ。
だけど、私は最初から、やっぱり彼なんかとは不釣り合いなほど歴然と違っていた。そんなのわかっていた。

扉を出る直前に振り返ると、チノパンと細身のパーカーに身を包んだ彼が、女性シンガーに話しかけられているところだった。

彼は逃げない。それが違いだ。
私は今からでも、逃げずにいられるだろうか。

応援いただいたら、テンション上がります。嬉しくて、ひとしきり小躍りした後に気合い入れて書きます!