マインドフル・イーティング
先日の金曜の夜、ヨガティーチャーの友人が主催するマインドフル・イーティングなるものに参加してみた。
一言でいうと、食べている間は、食べることだけに意識を集中する黙食だ。
小さくて居心地のいい、そのオリエンタル・ビーガンのお店に行くと、ヨガとかビーガン食が好きそうな30代〜50代くらいの女性が数人集まっていた。
スターターは小さな小さな5つの色(赤、黄、青(緑)、白、黒)の食材を、つまり、きゅうりとか、山芋とかのミニ・サイコロ切りを、5つの調理法(生、煮る、焼く、蒸す、揚げる)で調理し、5つの味(甘味、酸味、塩味、苦味、うま味)をつけた、本当に一口3秒で飲み込めるような食べ物を、食材をもたらしてくれた大いなる自然と人々(農家、運送業者、お店、調理人など)に感謝しながら、5感(視覚、味覚、嗅覚、触覚、聴覚)をフルに使っていただく、コロナ禍にぴったりの黙食で、私たちは、しーんとして、その奇妙な儀式のような時間を過ごした。
みんなで「へえ〜」とか「そうなんだ〜」という感想をシェアすることもなく、静まってその変わったひそやかな余韻を味わっていると、メインが運ばれてきた。メインは、いりこや鰹節ではなく、十数種類以上の野菜くずを出汁にした、なんとかという(マインドフルだったので名前を忘れた笑)素晴らしい発酵のちょっとすっぱいお味噌汁。そして、玄米のシャリの上に、野菜をネタにしたビーガンのお寿司だ。
さまざまな食材が手の込んだ調理で、一口一口が感動的においしい。シャリシャリとした歯ごたえのミョウガ、あなごに見立てたしんなりとしたナス、調味料とか味付けも、いったい何でされているのかわからないが、とにかくおいしい。
黙食なので、みんなと「おいしい〜」とか「これはいったい何ですか?」などと語り合えず、最初は違和感もあったが、おしゃべりをしないことで、ただ食べて感じるその瞬間に没頭もできた。食べ物がじかに5感に感じられ、その時間は豊かな、長くも短くも感じられない、時間を失ったものになった。普段、食べる時は、ネットやTVやおしゃべりで、食べ物それ自体が完全に意識下に埋没しているから、食べ物が前面に感じられることは新鮮だった。
普段なら15分で終わってしまいそうな分量の食事をゆっくり味わって食べ、1時間ばかりが経ち、ほとんど全員が食べ終えたその時、店内を見わたすと、30代女子2人がまだ半分も終わっていない。7時半くらいにスタートし、ガイダンスが数分、そして食事を進めて、8時半を回っていた。
その2人は、周りの人が終わって自分たちを待っているから、早く食べなきゃ、という空気を読むわけでもなく、ゆっくりゆっくり、一粒一粒をお箸でていねいに口に運び・・・このまま行くといったいこの会は夜中まで解散できないのでは?この体験を全員でシェアする目的の狭い空間だし、まだ食べている人たちを残してみんなが去るわけにはいかないのでは?・・・などと、基本的にせっかちな私は気を揉み始めた。そう思い始めると、自分の食べる行為に没頭し感動している、この女子2人が小憎らしくなってきた。他のみんなは大人でちゃんと空気を読んでいるのに・・・。
他の参加者もなんとなく困惑しているであろう雰囲気の中、この食事会のガイダンスをしている友人は、いったいこの状態をどう解決するのかなと思って見ていた。しかし、彼女は、いつものやさしい声で、「まだ食べていらっしゃる方は、焦らず、そのままゆっくりでいいですよ〜。では食べ終わった方は、目を閉じてもいいし、下の方に視線を落として・・・」といつもの瞑想のガイダンスを始めた。さすが、なんというか「太陽と北風」的な誘導!
結果として、幸運にも、それから15分くらいでこの空気読めない女子たちは食べ終わったのだが、私は、気づいた。この女子たちこそ、マインドフルだったのではないか。場の空気を読むとか、人に気を使うとか、時間の締め切りとか、そういうことを外して、その瞬間を楽しみ味わう、それだって十分マインドフルネスで、子供はきっと時間とか、大人の社会の暗黙の了解などわからずに、生きている。その女子たちは、いい意味でも悪い意味でも子供で、ただ素直に食に没頭していたのだ。
マインドフルネス=「正念ー心や身体の現状に気づいて無常を知る」という仏教の意味からは遠く離れるかもしれないし、その場の空気を乱すことはマインドフルネスの真意ではないだろうが、単純に「マインドフルMindful」の言葉の意味だけでいうと、「Mind心」が「Fulいっぱい」、つまり意識が何かに100%フルに向いている、つまり、「没頭」ではないだろうか。
・・・などと、複雑な気持ちで、この素敵な会を後にした。