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日本人の9割が知らない遺伝の真実【@毎日1冊「教育」本チャレンジ6日目】


6日目です!!!

今日は安藤寿康さん「日本人の9割が知らない遺伝の真実」を読んでみました!


【忙しいあなたに】Yuki's Summary📚
「人間が持っている能力は多種多様なのですが、社会的に特定の能力がフォーカスされ、そこに教育資源が投入されることで、遺伝的な差がより顕著化していくことになったのです。」本書からの引用で、要約として最適な文章である。
本書で述べられている事は遺伝に関する悲観的な話ではなく、調査に基づくものであった。その一つとして「学力に関しては、子どもは70%〜90%は自分ではどうにもできない」と話す。学力への「遺伝」の影響が50%〜60%、「非共有環境」の影響が20%〜30%と出ているからだ。
子どもの成長に影響する要因は3つあると言われ、「遺伝・共有環境・非共有環境」である。共有環境とは親の資産や、社会的地位であり、非共有環境とはそれ以外の環境を指す。調査の結果から「共有環境」はどの能力においても、あまり影響を及ぼさないことがわかった。例えば「年収」に関しては「遺伝」の影響が約2割〜4割で、その他が「非共有環境」からくることがわかった。親の年収と子どもの年収に関しては一定の相関関係は見られるが、それは「共有環境」(資産や社会的地位)からくるものではないというのは驚きである。
更に、年収が高いからといって知能が高いこともなく、年収が低くても知能が高いケースがあるが依然として差が生まれる理由は「非共有環境」が大きく関係している。子どもの頃に様々な経験をすることで、自分が本来持っている「遺伝の可能性」を引き出すことができるからだ。
このことは20代を過ぎてからの年収との相関関係を見ても明らかで、歳をとるにつれ、「遺伝・非共有環境」の影響が強く年収に現れるようになる。つまり経験することで、能力がついていくというよりも、経験により元々持っている遺伝的な能力が開花されていくことだ。この調査は「遺伝」の壁を大きく提示する形となった。


「人間が持っている能力は多種多様なのですが、社会的に特定の能力がフォーカスされ、そこに教育資源が投入されることで、遺伝的な差がより顕著化していくことになったのです。」



能力とその要因

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安藤さんは「社会から認められた能力」でないと「能力」と呼べないと話します。

例えば、現在の社会では「学力」が絶対的なものとして見られていますが、「学力」に関する調査からは「学力に関しては、子どもは70%〜90%は自分ではどうにもできない」と示されています。

そこからも、学力にとらわれない様々な能力に気づける環境が必要と話します。
そのために、学校を「キッザニア」のようにしてみたり、様々な能力に合わせたテスト(過去の膨大なデータからその時点での能力を測ることのできるTOEICのようなテスト)を作るべきだと話します。

学力に関する考え方としては、学校は「スポーツジム」的な役割がいいのではないかと話します。「100キロのバーベルを持ち上げる人もいれば、健康維持のために通う人もいる。色々な形での関わり方があり、全員がオリンピック選手を目指さなくていい。」というアイディアです。

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これには、なるほどなと感じていて、確かに学校においては全員が「学力のオリンピック選手」になることを強制されますが、その内容は今となれば忘れているものが多いです。
結局、大学入試のために強制的にジムで筋トレをさせられていたようなもので、ジムでは健康維持程度、ほかの活動に精を出してもいいなと思います。



教師の役割

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遺伝の話から、子どもには逃れられない現実があります。

「学力に関しては、子どもは70%〜90%は自分ではどうにもできない。学力への「遺伝」の影響が50%〜60%、「非共有環境」の影響が20%〜30%と出ているからだ。」

自分は「非共有環境」に対して教員ができることがあるなと期待したのですが、本書ではここに関してもズバリ。

例えば、一卵性の子どもが学力の差により異なる大学に進んだとしても将来的な年収は変わらなかったというのです。
つまり、大学進学は確かにいい先生に巡り会えたことなどによる「非共有環境」のおかげであったかもしれませんが、あくまで一時的なものであり、最終的には「遺伝」がものをいうとう結論です。

ならば、様々な経験をさせて「遺伝」を開花させようと思ったのですが、小学校の時にエリートであった子が将来的に平凡に戻ることは多々あり、「遺伝の変異」が起こるからだと言います。
実質的には、どの先生に巡り合っても、先生の質が著しく悪く、またそれらの先生に毎年当たらない限り、変化はあまりないと話します。
また、これらは「先生の水準」が高いことにも依拠していると述べられてはいました。笑

さらに言えば、本来「本物」は先生には教えられないと話します。つまるところ、その教科に一生を捧げた人にしか「本物」を教えることはできず、教員は「教育」を言語化し「教える技術」を極めた「代替物」に過ぎないというのです。




何を思ったか?

作者である安藤さんは教員の仕事を大変評価していて、実際読むと上記のようなニュアンスでは伝わってこないと思います。

しかしながら、「Educator」としては、かなりショックな内容でありました。

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何か、子どもの「人生」を変えたいと思っていた自分の考えは傲慢な考え方であったなと思いました。


しかしながら、「非共有環境」に対して学校としてできるアプローチは先生だけではないと思います。「環境、カリキュラム。システム、チームティーチング」提供できる素晴らしい「非共有環境」はたくさんあります。

もっと言えば、子どもの人生を大きく変えるなどは傲慢な考え方であり、小さな変化に気づき、それを伸ばす手助けをすること。

また、もっと言えば「幸せ」な学校生活を送ることに注目してもいいのではないかなと思うようになりました。

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「教育」において、将来のために子どもたちの可能性を引き出すなど「将来」を見据えることは必要不可欠な要素でありますが、「今」に注目することも同じぐらい重要なのではないかなと考えるようになりました。

「年収」などの能力において考えてみると上記のような結果かもしれないですが、「楽しい」「幸せ」といった感情にフォーカスしていくべきなのかなと思いました。






6日目無事終わりました!!!

最後までお読みいただきありがとうございました😚!!!!

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