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あなたは終身刑。強制生存労働に従事せよ。

最も無益で無意味な労働は人生、生きることそのものである。

加えて、さらに地獄なことに、死ぬまで生きなければいけない。自分のコンセンサスなしにこの世に産み落とされ、この世界に閉じ込められ、死ぬまで生存労働に従事しなければいけない。生存労働をやめるには自死するしか術はない。

これではまるで終身刑みたいではないか。リアル終身雇用ではないか。

だがそう思ったところでもう遅い。これを見ている君は、もう君の呼吸と終身契約を結んでしまったのだ。逃げたくても逃げられない。

カラマーゾフの兄弟で有名なフョードル・ドストエフスキーを知っているだろうか。彼は、シベリアに流刑され、穴を掘って埋めての繰り返し単純作業をさせられた。その経験から、彼は、「死の家の記録」という作品の中で『もっとも残酷な刑罰は、徹底的に無益で無意味な労働をさせることだ』と言った。

これが真であるとすれば、人間にとって最も酷な行為は「無益で無意味な労働」となる。(穴を掘って埋めるを繰り返す作業を労働と定義するかという問題はここでおいておく)

この話を聞いた私の友達は「それでも人間は、チームに分けれて、穴掘りのタイムや出来栄え、深さを競ったりし、意味や楽しみを見出すはずだ、作り出すはずだ。」と言った。

そこで私はふと思った。生きることそのものが無益で無意味な労働ではないか。だからこそ人間は、そこに何かを生み出そうとするのではないか。

80年以上続く生存労働はあまりにも過酷で長すぎる。少しでもましなものにしようと、何かにがむしゃらに挑んでみたり、社会的成功や家族、恋人を手に入れるなどして、雰囲気楽しく生きてるように感じる努力をする。精一杯、楽しみや意味を見出そうと作り出そうとせずにはいられない。真実に向き合うのが怖い。

なぜなら、生きることなんて、無益で無意味なものでしかないのだから。そんな事実に真正面から向き合うなんて到底できたものじゃない。だからこそ、気を紛らわそうと、なにかに熱中したり、ポジティブなんていう言葉を生み出し、希望中毒ポジティブ狂信者を増やしていくのだ。生存労働の意味に思考をはせたらその時点でゲームオーバー。だってそこには意味はない。ないものはない。

もう、自死という選択肢しか頭の中に残らない。唯一この労働から離脱する方法は、自殺だけだ。なのに何せ人間という生き物の性分で、死ぬことを恐れるようプログラミングされていて、簡単には死ねない。あえてそのように作りこまれているのだろう。簡単には楽になれないように。ほらみろ、すでに四方八方ふさがれているぞ。

君はそんな生存労働を好きでやっているのだろうか?ちがう。君は好きでこの世界のスタートラインに立ったのだろうか?ちがう。君は好きで、生涯にわたってこの空間に監禁される、禁錮100年の刑をうけたのか?ちがう。君は君の意志で、人間として”この世界”に生まれ落ち、死ぬまで生存労働させられるというリアル終身雇用契約結んだのか?ちがう。

同意するか否かも尋ねられず、生み出され、一度生み出されると、死ぬまで生きなければいけなかった。それだけだ。

そこには自由意思はない。そう考えると、この世界から離脱するための自殺のみが、自由意思に基づいた意識的な行為ではなかろうか。自殺だけが私を自由にしてくれる。存在しない無。なんて幸せなんだ。

まぁ時すでに、私たちはみな終身刑を言い渡されてしまった身。仲良くしようじゃないか。どうせ、君の呼吸は君の意思とは関係なくこれからも働き続けるのだから。

ちゃんちゃん。


私なんぞにご支援いただける方がこの地球上におりましたら、もう控えめに言ってあげみざわエクスプローションします。