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【#新書が好き】差別とハンセン病(平凡社新書)

国によるハンセン病患者の隔離政策は、1907(明治40)年にできた法律「癩予防ニ関スル件」から始まり、1931(昭和6)年に制定された「癩予防法」(旧法)で、すべての患者が対象とされた。強制隔離とは、罹患した者を行政が強制的に家族や故郷から引き離し、療養所で生活させることだ。
だが、この病気は今から50年以上も前に特効薬が登場し、「不治」ではなくなっている。では、なぜ隔離政策はその後も続いたのか。日本では世界と逆行する形で、1953年に「らい予防法」(新法)を制定し、戦後も長く隔離政策を継続した。らい予防法が廃止され、隔離政策が消滅したのは96年春だった。
隔離政策が終わって5年以上がたつのに、どうして元患者たちは今も療養所にいるのか。元患者たちは高齢で、経済的な基盤もなく、頼る家族もない。そしてなお残る病気への差別と偏見。一時金を支給するといった国の社会復帰支援策は、そうした壁を前にあまりにも貧弱であった。
法を廃止した菅直人厚生大臣(当時)は対応の遅れを謝罪したが、長く続いた隔離政策の責任には言及しなかった。98年7月、熊本県と鹿児島県の療養所入所者ら13人が、隔離政策で基本的人権を侵害されたとして熊本地裁に提訴した。翌99年に東京と岡山の両地裁でも訴訟が起きた。国に人権侵害の責任を認めさせ、元患者の名誉を回復し、今なお続く社会の偏見を打ち砕きたいー。訴訟には、元患者たちの怒りと願いが込められている。
ハンセン病は感染力は弱い。しかし、当時は特効薬がなく、顔や手足が崩れていく病の感染は、強く恐れられていた。その一方で「遺伝病」だとも誤解され、患者が出た家は「筋(血筋)が悪い」と、地域の輪からはじき出された。病人は家の中で一生隠れて暮らすか、家を出て行方をくらまし、「物ごい」になるほかない時代が長く続いた。
全国で行政と警察がハンセン病患者を捜し出しては家を消毒し、競い合って療養所へ送った「無らい県運動」。65年後の2001年、元患者たちが勝訴した国家賠償請求訴訟の判決で「今日まで続く差別・偏見の原点」と指摘された悪名高き「社会運動」だ。白衣の職員たちがこれみよがしに家を消毒するなど「長野県はひどいやり方だった」と多くの人が証言している。
自分が高等小学校のころに家を出た兄が「らい病」だと知ったのは、10代の後半。さほど気にしていなかったが、自分の人生に降りかかる問題だと、20歳を過ぎたころに思い知らされた。結婚を誓い合った女性がいた。認めてもらおうと彼女の家を訪ねた。父親の前に正座して「この人をもらいたいのです」と切り出すと、意外な返事が返ってきた。「おたくにはらい病の人がいますね」。そして「この話はなかったことにしてください」と言われた。遠くにいる兄のことを、初めて恨んだ。
「ハンセン病問題に関する検証会議」がまとめた報告書(2005年3月)は、再発防止のために、医学・医療界に対し、次のように提言している。「感染症患者の人権を保障し感染の拡大を防ぐ唯一の方法は、患者に最良の治療を行うことで、隔離や排除ではない。急性感染症でやむを得ず隔離が必要な場合は、患者の人権の制限は必要最小限とし、最良の医療を保障しなければならない。慢性感染症は、原則として患者を隔離してはならない」。

この本は、2006年に出版されました。著者であり信濃毎日新聞社の記者である畑谷史代さんが元患者さんやご家族への取材をされています。

もう一度言います。

1907年に制定された「癩予防ニ関スル件」から始まった、日本におけるハンセン病についての本です。

新型コロナウイルスではありません。

似てますか?

気のせいですよ、きっと。


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