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教育=洗脳なのか?


ある日、Twitterを見ていたらこんなツイートを見かけました。

「私たち教師がやっているのは教育である。しかし、ルールを守らせることに重点を置きすぎたりすることはもはや教育ではなく管理である。」

私たち教師がやっているのは教育であるはずなのに、いつの間にか学級崩壊が起きないように「管理」することや教師が正しいと思っている価値観を伝える「洗脳」ではないかということです。私はこのツイートを見て、「確かに、そうかも・・・。」と考えていました。

そんなとき、とある大学の教授と話をしていたときに、上の疑問を教授にぶつけてみたのです。

「先生、教育ってときに管理とか洗脳になり得るってツイートを見たんですけど、どう思いますか?」

「愚問だな。教育は管理であり、洗脳だよ。」

この一言が妙に頭に残って、その後色々と考えました。その結果、教授の発言は私のなかでは正しいという結論になりました。

そもそも教育とは、誰かが誰かを教えることや育てることを指す言葉です。とすれば、教える側が教育しやすいように環境を整えることは当然のごとく起こります。そして、何を教えるかというとこれも当然教える側が選びます。そして、どんな基準で選ぶかというと「教えたい側が教えたいこと」もしくは「教育される人にとって必要だと教える側が考えたこと」になります。この二つの事柄を言い換えた言葉は「管理」と「洗脳」です。

教室を綺麗に掃除をして、生徒がそれぞれの机で学ぶように「管理」すること。

右も左も分からない生徒に対して、正しい考え方や人との接し方を教え「洗脳」すること。

確かに言葉のチョイスは悪いかもしれませんが、教育の一面を表している言葉であると私は考えます。

しかし、私は「管理と洗脳」が教育の全てではないと考えます。

教育の最終的な目標は「自分の頭で考えること」です。どこか矛盾していますが、教育を必要としなくなることこそ教育の最終目標ではないかと思うのです。

教育の過程で様々な価値観を学校で学びます(悪く言えば洗脳)。そして、それらの価値観をただ鵜呑みにするのではなく「これは違う」とか「これは正しい」と自分で判断できるようになることに教育の価値があるのではないでしょうか。これを「自立」と言うのだと私は思います。

つまり、「管理」や「洗脳」は自分で考える力を養う前提であるということです。何か物事の是非を考えるとき、何が善いことで何が悪いことかという基準がなければ考えることはできません。自分なりの考えをもとうと思っても、そもそも普通の人の考え、他の人の考えとは何かということが分かっていなければ、結局自分の考えなどというものは生まれません。

「管理」や「洗脳」を乗り越えたさきに「自立」があり、教育とは「自立」にたどりつかせることに価値があるということです。

言い換えれば、「管理」や「洗脳」がないところに「自立」を求めても何も生まれないということです。

このように考えると私たち教師の与える影響が非常に大きいということがよく分かります。私たちは「管理」し「洗脳」する存在です。子どもたちが自分で考えるための基準を作る存在です。その基準があまりにも質の悪いものであったり、的外れなものであるならば、そこから導かれる考えもたいしたものにはなりません。だから、私たち教師は日々学んでよりよい価値観や学びを提供しなければならないと思うのです。

教授の一言に色々と考えさせられた話でした。


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