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教えた方がいいか、学んだ方がいいか②

 前回はてこの核心に関わることをそれとなく教えられたクラスと、教えられなかったクラスを紹介した。つり合うときの法則に自ら気付いた児童がいたのは後者のクラスだった。

 この違いはどうして生まれたのか。一番大きな可能性として考えられるのは、単なる偶然だろう。たまたま、その日が心身とも好調でひらめきやすい日だったり、てこに関しては得意な分野だったりしたのかもしれない。

 でも、そうではない部分もあったかも。今回は他の可能性を探ってみる。

 

 その1 教えられたことにより何となく分かった気になってしまった説

 てこのつり合いの核心的な部分をそれとなく教えられたクラスは、てこのの謎について「分かった」という感覚があったのかもしれない。この「分かった」という感覚が、さらなる発見や気付きを遠ざけてしまったとしてもおかしくない。「分かった」のならば、さらにその先を考える理由がないのだから。「分からない」が探求の原動力なのは言うまでもない。


その2 教えられると考えなくなる説

 こんな実験をした人がいる。箱の上部を押すと光る箱を、それぞれ条件を変えて14か月の赤ちゃんに与えた。ある集団には、その箱の使い方を「よくみててね」というふうに示す。(①相手の目を見て②手元が相手から見えるようにして③終わったあと赤ちゃんににっこり笑って見せる、といったように。これを教示伝達的顕示という。)別の集団には、その箱を使っているところ偶然目にするようにしてみせる。どちらの集団も箱の光らせ方を目にするわけだが、注目したいのは目にする箱の押し方である。どちらの集団にも、箱の上部を額で押すという意味不明な押し方をやってみせたのである。(実際にはもっと様々な条件でやってますが、割愛)すると、教示された集団は額で押して光らせて遊ぶ子が大半を占め、偶然目にした集団はそうした点け方をした赤ちゃんは少なかった。似た実験が、様々な研究者によって、様々な条件で、様々な年齢の集団にも行われた。分かってきたことは、人は教示されてしまうと考えることを放棄し、明らかに無意味であることでも盲目的に模倣してしまうということだ。話を教室に戻すと、子供たちはてこの原理について教えられたことで、自ら考えることをやめてしまったのではないだろうか。拡大解釈しすぎだろうか。


 理科室は他の子たちがしていることを偶然、目にしやすい場所である。机も4人で一つだし、やっていることも実験なので紙を相手にすることが多い他の教科よりも視覚的である。つまり、学びやすい環境ということだ。私も去年までは担任だったので、教室でも4人で1つのグループにし、机をくっつけていた。

 今の普通の教室は子供が学びやすい環境にあるだろうか。コロナ禍で子供達の机は切り離され、会話もままならない。教師の声ばかりが響き、子供は黙って机に向かっている。発表する機会があっても子供は「分かった」ことを言っているだけ。

 もちろん、これは仕方のないことである。私も理科専科として理科室の使用を特別に許してもらっているからこそ、学びのある授業を目指せているにすぎない。

 しかし、問題の本質はもっと深いところにある気がする。先日、他の教室の授業を見に行ける機会があった。コロナ禍だからこそ気付いたことだが、現在とコロナ以前を比べても授業の様相がさして変わっていない教室ばかりだった。(私の勤務する学校だけかもしれないし、そうであってほしいが。)先生の多くは、人が学ぶことについて関心がないのではないだろうか。