意味も正しさも持たずに生きていく

死ぬまでに、絵が描けるようになるといいな。こんなの絵じゃないと言われても、決めるのは私。死ぬまでに絵が描けるようになりたいな。意味も正しさもなくていい。
心に傷がついた時、絶対に長生きしたいと思ったよ。誰かのために死ぬのも、誰かのために生きるのも絶対に嫌だから、全てを忘れて、無意味に、生きることにした。

心無い酷い言葉を言われたとしても、必ずしもその言葉をもらう必要はなくて、その言葉は、私のものには絶対にならなくて、それを言った人のもの。ひどい言葉を言われた後も、私の価値は減ることも無くなることもなく変わらない。正しさなんてどこにもない。誰かから与えられる正しさもない。暴力されても私は変わらない。
いつだって想像力を持っていたいな。想像力があれば、感情も出来事もたくさんの選択肢を持って捉えていくことができるから。終わったことは、大丈夫。そのことに対して、自分の考え方や捉え方を変えていけばいいんだよ。大変だけどね。終わったことに正解も間違いもない。
悲しいことが起こると、またわかるようになってしまったなと思うけれど、自分の想像力を広げていけるならいい。

「普通はわかるよ」と言われるたびに、普通を教えてくれる人はいなかったなーと思う。「普通はわかるよ」っていうなら全部教えてね。普通という概念は生まれる前からあるけれど、普通の全てをわかってる人はいないから、教えてもらえないんだよね。そんなものを共通認識にしてるあたり、くだらないなぁ。私には、苦手なことがある分、私にしかできないこともあるはずなんだけどなぁ。みんなが気付いてないことが、私にとって、「普通はわかるよ」かもよ。
人はみんな得意なこととと苦手なことがあるから、苦手なところは理解してもらって、時に補ってもらい、得意なことは自分なりに手を貸すよーじゃダメなのかな?全部できなきゃいけないのかな?全部できてしまう私なら存在している意味が全くないね。

生きる意味も、普通という正しさも、もういらない。私が消しました。

最近遠くの山を見るのが好き。山並みって可愛いじゃん。ボコボコしてて。でも山の中に入るのはあんまり好きじゃない。遠くから見てるのが好きだなーと思いながら人生を見てる。

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