弱聴の逃亡日記「坊主頭にした理由」
2017年11月29日 7日目 朝
朝目覚めると、辺り一面が白い薄膜に覆われていた。雪が降ったのかと思ったが、降りた霜が凍ったらしい。草花も砂利石も白い衣を日の光に反射させキラキラと光っている。自分の荷物や上に羽織っていたレインコートも白くなり凍っている。
見るだけで凍りそうな気分。こんな霜も凍る山の中で自分は眠っていたのか。しかも寝袋無しで、食事も摂らずに。
よく目覚めたな、と感心しつつ、なんてバカなことをしているんだと自嘲の笑いがこみ上げる。
冷え込んだ割にはよく眠れた気がする。いつもより長い距離を歩いて疲れていたからだろう。とにかく、腹が減った。早く町に出てエネルギー補給をしなければ。荷物に着いた霜を払い支度を整え出発する。
早朝の山道は夜の不気味さとは打って変わって清々しい。車通りもほとんど無く、澄んだ静けさだけが空気を満たしている。
昨日はあれほど上り下りを繰り返していた憎たらしい道路も、今日は緩やかな下りばかりでやけに素直だ。
数キロ歩くと「福島県」の道路標識に出くわした。
「あれ? もう福島県に入っちゃったの?」
苦労して越えて来た山はどうやら県境の山だったらしい。そうとも知らず山越えに躍起になっていた弱聴は「いつの間にか~福~島~♪」と棚ぼた気分で福島入りを果たした。
福島県白河市の町に到着し、12時間ぶりの食事をとった。
途中でぶっ倒れたり、熊に襲われたり、凍死したりせず、こうして無事に食事にありつけたことにホッとする。何より椅子に座れたことが嬉しい。昨日から地べたか砂利かコンクリートブロックにしか座れなかったのだ。
白河市で入浴施設を見つけ、まだ昼にもなっていない早い時間だったが、昨日はあれだけ頑張ったことだし、精をつけるために入っていくことにした。
日の光が入る明るい浴室にシュワシュワと気持ちいい音を立てる炭酸風呂。自分の肌にまとわりつく炭酸ガスの玉を眺めながら弱聴は、湯船の中でとろっとろにとろけていた。
酷使し続け硬くなった筋肉たちがじわーっと解れていき、冷えて縮こまっていた血管や内臓が温まり緩んでいく。まさに極楽だ。
風呂から上がった後は長椅子を占領し仮眠。温かい室内とクッションの着いた長椅子で眠る心地良さ。これもまた極楽だ。
旅を忘れすっかりくつろいでしまい、施設を出る頃には正午を回っていた。この調子では徒歩の旅ではなく温泉の旅になってしまうなと内心苦笑しながら、リセットした体で再スタートする。
しかし昨晩は辛かったけどいい経験をした。あんなに胸が熱くなったのはいつ以来だろう? 体の奥底から情熱が湧いてくるあの感覚を長いこと忘れていた。
もし私の精神状態が――病院で診てもらってないので確信は持てないのだが――「うつ」または「精神疾患からくる過食症」だったとしたら、この旅はとてもいいカウンセリングではないだろうか。自分を見つめ直す時間にもなったし、久しく忘れていた情熱を思い出せた。運動も出来ているし、食事もバランスを考えて食べるようになった。
少し荒療治の感は否めないが、これでいいんだ。私なりの治し方だ。
「生きるためのレシピなんてない」んだから。
自分なりの荒療治の話をするなら、弱聴が弱聴になった所以、つまり坊主頭にした経緯も話しておくべきか。私としては療法のつもりで坊主頭にしたのだが、他人からしたら「病んでいる行為」かもしれない。
まぁとにかく、大した話じゃないが話しておこう。
友達と飲みに行った時の話だ。隣で飲んでいた定年手前と思しきスーツのおじさんに声を掛けられ、食事を奢ってもらった。ただで奢って貰っては悪いと思った私たちは一人で飲んでいたおじさんの会話相手になってあげた。
帰る時分になっておじさんに「カラオケに行かないか」と誘われた。こういった事に慣れてない私たちは奢ってもらった恩を返すつもりでついて行くことにした。何となく予想はしていたが、連れて行かれた先はスナックだった。
入ってすぐに綺麗なお姉さんたちに囲まれた。
スナックのお姉さんたちはおじさんのご機嫌をとりながら、次々と酒を開け、食事を注文した。お姉さんたちの軽い一言で注文される酒や食事の金額を想像して軽いめまいを覚える。金が湯水のように使われるとは正にこのことかと思った。
スナックという慣れない世界とお姉さんたちのテクニックに感覚が狂わされ暗示を掛けられる。
ここは愛嬌を振りまいて酒を飲む場所なんだ。女の武器でも嘘の愛想笑いでも相手が気分よく金を使えばそれでいいのだ。
気付けは自分もおじさんに媚を売って酒を飲んだ。
結局、スナックを2軒はしごして、帰りはタクシーで送ってもらった。
タクシーを降りておじさんを見送った後、さっきまでは平然としていたのに、一気に酔いが回ってきた。階段を這いつくばるように上がり、倒れ込むように部屋に入る。
視界がぐわんぐわんと回り、それに合わせて自分も部屋の中をぐるぐると回る。呂律の回らない舌でわけのわからない事を口走り、笑いもこみ上げてくる。ここまで泥酔したのは初めてだった。
とうとう立っていられなくなり床に倒れ込む。ひんやりと床の冷たさを頬で感じているとなんだか悲しくなってきた。
人生最大の酒酔いが知らないおじさんとのスナックだなんて。しかも金を出してもらうために精一杯ご機嫌とりまでした。つまらない話に笑って、何かにつけて褒めまくって、腕とか足とか触られて…。
普段は媚を売るような人間じゃないのに。愛嬌を振りまいて点を稼ぐような、ましてや気になる男子にもアピール出来ないような人間なのに。こんな時だけ張り切っちゃって、何をやっているんだ私は。
自己紹介がてら貰ったおじさんの名刺には「代表取締役社長」と書いてあった。
社長さんの財布にはお札がたくさん入っていた。
それはもう、たくさん。
そのお札を見た時、私は何故か、社長さんの会社の社員を思い浮かべた。
どんな会社でどんな商売をしているのか、おじさんがどんな社長さんか、社員は何人いてどんな風に働いているのかなんてわからない。
でもその当時「私はお金」と言い聞かせて働いていた私は、社長さんが持っているそのお札一枚一枚が社員に見えたのだ。
私はその札束にすがって媚を売り、酒を飲んだ。社長さんの財布から社員がどんどん飛び去って行くのを笑って見ていた。
高い酒の味を思い出そうとしたが上手くいかない。食事が美味しかったかさえ思い出せない。その代わり社長さんに頭を撫でられたその手の感触が甦ってきた。
胃から逆流してくるものを感じてトイレに駆け込んだ。
これが毎日嘔吐するようになった最初の一日目だ。
そして頭を撫でられた手の感触を消したくて、髪を刈った。美容師さんが戸惑うのも構わず「全部刈って下さい。丸坊主にして下さい」と啖呵を切った。
簡単にまとめると、タダで酒飲んで楽しんだ癖に、気に食わなくて坊主にしたってこと。バカみたいでしょ。
でも、この坊主頭がけっこう役に立った。もう一生笑えないのではないかと思っていた時期に、坊主頭は笑いのネタになった。この坊主頭のおかげで辛い生活の中でも笑うことが出来たのだ。
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