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【第6回】How They Became GARO―“ガロ”以前の“ガロ”と、1960年代の音楽少年たち―〈ヘアーの章 / 1〉

◎文:高木龍太 / TAKAGI, ryuta

1970年代を洋楽的で鮮やかなハーモニーとサウンドで彩ったポップ・グループ、<GARO / ガロ>(堀内護 / マーク、日高富明 / トミー、大野真澄 / ボーカル)。その結成以前のメンバーの歩み、音楽的背景などを、関係者取材をベースに詳細に追うヒストリー原稿です。全12回の連載記事。



 さて、ここまで時系列で 69 年までの堀内と日高の歩みを追い、ミルクの活動初期までを語ってきたのだが、ここでしばらく、話題はミルクから離れることになる。

 というのも、ミルクというバンド自体の活動は絶えず継続されていたのだが、日高個人については 69 年の夏以降、数度に渡ってミルクからの短期の離脱と再合流を繰り返していたようであり、調べてみるとたしかにその期間、ミルク以外の活動をいくつか行っていることが確認できるからだ。

 それでは、その頃の日高に何が起きていたのか。また、いち早く離脱してしまった堀内はどうしていたのか。

 そのあたりをここから追って行くが、しかし、この時期こそが、のちのガロ結成に至る大きなステップだった。

 なぜならば、ミルク結成時に同僚となりそうになりながらも早々に道を別にした堀内と日高が、この頃に徐々に歩みを共にし出すことになり、そしてその道の途中では、さらにもう一人の重要人物――大野真澄とも出会うことになるからである。

 まずはその、3人が出会うことになった、ある“大きな出来事”について。以降の彼らにとっても“重要な季節のはじまり”を、少し、時代背景、周辺事情にもスペースを割きながら、触れて行きたい。


『ヘアー』――“ラヴ・ロック・ミュージカル”がやって来た


 1969 年 9 月のことである。
 
 気象記録を紐解けば、東京の気温は数日を除きまだ30度前後※と、夏が居残る熱気が街を包み続けていたらしい――、そんなある日のことだ。

〔※9月1日が33度。16日が32度。ほかの日も27~29度が目立つ〕

 日高、そして堀内の姿は、当時、赤坂の TBS ホール横に建っていたという、《国際芸術家センター(International Artists Center)》※のビルの中にあった。

〔※旧名は国際舞踊研究所で、1962年に改称。“国際アーティスト・センター”と呼ぶ人も多い。1990年代に移転〕

  280余坪、4階建てのその鉄筋の建物の中は、どうやら、外気とはまた違う熱気が立ち込めていたようだ。
 
 なぜなら9月1日※を皮切りに、ここ国際芸術家センター内のリハーサル・スタジオを会場とし、目下ブロードウェイでヒット中だという“ロック”・ミュージカル『ヘアー(HAIR)』の、その日本公演キャストを選抜するための第一次オーディションが、9月20日までの連日、行われていたからである。

〔※『週刊明星』69年9月7日号に<9月1日の第一回審査>の記述。また『サンデー毎日』69年9月21日号には<応募があまりに多いので審査は20日まで連日>。ふたりがどの日に参加したのかは不明〕

 この年の末に行われることになっていた同公演では、すでに主役をトップGS〈タイガース〉のギタリスト兼シンガーからソロに転じた、加橋かつみが務めることが決定していたが、ほか数名以外の出演者を、すべて公募から選ぼうということになっていたのだ。
 
 受付は8月1日から月いっぱいまで行われたが、特に各新聞、週刊誌上に募集広告が出されて以来、このオーディションには一説に3000人※もの数の若者たちからの応募があったとされる。

  そんな『ヘアー』のオーディションを、日高、堀内のふたりも受けよう――というのである。ミルクがACBでプロ・デビューしてから、ちょうど、半年が経った頃のことだった。

〔※『サンデー毎日』69年9月21日号(「思いきり歌って踊ろう!「ヘアー」のオーディションに三〇〇〇人」)、『ティーンルック』誌など。ただし他の情報では、3300人、3500人とするものも。オーディション前に書類選考で1000人程度に絞り込んだともある〕

 ミルクではバンド・メイトとはならなかった堀内と日高だったが、その交流はどうやら緩やかに続いていた。

 日高の発言や堀内の記憶によれば※、堀内は自ら飛び出したバンドであるにも関わらず、ミルクの演奏するライヴ会場には時折顔を出していたようだし、日高ともたまに電話で話をしたりもするような、そんな具合の関係だったようだ。

〔※ただし堀内はふたりはこの頃一年ほど会っていなかった、と真逆のことも語っていたこともあって、どちらの記憶が正しいのかはよくわからない〕

 堀内自身の日常の方はといえば、“ミルクの原型”からの離脱後は一時学業に戻り、多摩美術大学に籍を置くなどしていたが、実質あまり通わなかったといい、かといって表立った音楽活動もしておらず、漠然と、海外にでも行ってみようか、とアルバイトで資金を貯めようとしていた頃だったという。

 ただ、やはり松崎や日高との出会いが刺激だったのだろう。そんな中で自身の“歌”の可能性を、ひそかに探っていた時期でもあったらしい。意外ではあるが、プロの発声を識ろうと、声楽家の坂本博士(ひろし)が主宰するスクールに足を運んだこともあったのだという。

 そんな折に日高が持ち込んできたのが、この『ヘアー』の日本公演が催されるという話と、そのオーディションが行われる、というニュースだった。

 60 年代後半という時代は、一年ごとに前の年とはガラリと空気が変わったのだ、と評した人がいる。

 69 年の日本の音楽シーンはといえば、前年の夏までの狂騒がまるで嘘のように GS ブームが陰って行き、国内のロックの流れやミュージシャン側の意識も次第に、よりアーティスティックな地平を目指した“ニューロック”へと変化して行った、という時期だった。

 その69年という年に話題を呼んでいたのが、『ヘアー』である。

 アメリカにおけるべトナム戦争への反戦ムードの高まり、フラワー・ムーヴメントの隆盛などを背景に生まれた『ヘアー』。

 音楽にロック・ミュージックの感覚を持ち込み、サブ・タイトルに“ラヴ・ロック・ミュージカル(原題では“The American Tribal Love-Rock Musical”)と銘打ったこの舞台は、それまでのいわゆるブロードウェイ・ミュージカルの伝統とは、まったく異なるものだった、と伝えられる。

 ブロードウェイ版の初期に主演も務めたジェームズ・ラドーとジェローム・ラグニのふたりが実際に街へ出かけ、路上で出会った人々などからインスピレーションを得て紡ぎ出したという脚本には、当時のアメリカという社会の現実が映し出されていた。

 人種間の問題。性の解放。ドラッグ・カルチャー。戦争――。ヘアー、つまり長く伸ばした髪は、突き詰めれば当時のアメリカの若者にとって、徴兵への抵抗の証でもあっただろう。

 会場に入れば、緞帳は取り払われ舞台はまる見えで、照明機材も剥き出し。中央に置かれた鉄パイプの櫓と、ちょっとした小道具のほかには、書割も、大掛かりな舞台装置も見当たらない。シンプルな空間に存在するのは、ビーズをまとい、デニムやフォークロアなヒッピー・ファッションのキャストの姿と、生演奏のバンドによるロック・サウンド。そこで繰り広げられる歌と、若者たちの群舞。
 
 オープニング、キャストたちは客席に紛れ、音楽を合図にそこから舞台に上がって行く。反対に、エンディングの合唱では観客さえ舞台に呼び込まれ、共に歌い踊ることすらあったという。
 
 そんな一体となった空間を生み出す、開放された舞台の在り様も、おそらくは驚くべきものだっただろう。

 世界的にラヴ&ピースの空気が広がりつつある中、『ヘアー』のセンセーションは、初演時のオフ・ブロードウェイからブロードウェイへの進出、そしてアメリカの各都市のみならず、68年9月からのストックホルム、ロンドン、10月からのミュンヘン、69年5月にベオグラード(旧ユーゴスラビアである)、6月に入ってパリ、シドニーなど、世界各国の大都市でその土地のキャストによって続々と上演されるほどの、大きなうねりとなっていた。

 68年から70年頃にかけて各国で『ヘアー』の舞台に立った、当初無名だった(あるいはそれに近かった)若者たちの中には、のちに映画、音楽など、様々に活躍して行った者も多い。

 ブロードウェイに出演した中にはダイアン・キートン、メルバ・ムーア、キース・キャラダイン、アレッシー兄弟などがいた。日本ではサディスティック・ミカ・バンドや下田逸郎とのセッションで知られるヴィッキー・スー・ロビンソンも、ブロードウェイに出演したひとりと言われる。

 LAではジェニファー・ウォーンズ、ジョブライアス、グロリア・ジョーンズ、アビゲイル・ヘイネス(元プッシーキャッツ、のちジョー・ママ)。サンフランシスコではフィリップ・マイケル・トーマス(ドラマ『マイアミ・バイス』の、あの“リコ”だ)。

 ミートローフはデトロイト公演に参加したことがきっかけで、同じくキャストのひとりだったショーン・マーフィー(のちリトル・フィート)とデュオを組み、この頃モータウン傘下からレコード・デビューしている。

 ロンドンではソーニャ・クリスティーナ(のちカーヴド・エアー)、マーシャ・ハント、ジョーン・アーマトレイディング、ティム・カリー(のち『ロッキー・ホラー・ショー』)。出演はしなかったが、1968年にオーディションを受けた中には、デヴィッド・ボウイもいたという。

1968 -HAIR DAYS 🙂 https://youtu.be/5jfi7fMmO8o

Posted by Sonja Kristina on Tuesday, August 15, 2017

 ミュンヘンでの公演にはアメリカから渡ったドナ・サマーもいた。ブラジルではソニア・ブラガ。名を挙げれば、きりがない程だ。

 すでに60年代半ば頃の音楽シーンで大きなキャリアを持っていたミュージシャンのなかにさえも、この『ヘアー』に身を投じた者がいた。元ラヴィン・スプーンフルのジョー・バトラー、「明日なき世界」のバリー・マクガイアなどがそうだ。

#tbt Mi Da (Joe Butler)❤️ Starring in the production of “Hair” on Broadway 🎭

Posted by Yancy Butler on Thursday, November 21, 2019

 それはただ、話題性からだったのだろうか。それとも、何か抑えがたい気持ちが芽生えてならない、そんな季節だったのだろうか。

 多くの者を惹きつけた、そんな『ヘアー』の存在は、ロックがカウンター・カルチャーであったこの時代、その象徴のひとつとも受け止められていた。

 日本でも若者層からの関心が少なくなかったであろうことは、先に触れたように、オーディションの公募に3000人という数の反応があったことからも伝わる。

 海外のロック・シーンにあこがれを持っていた当時の日高や堀内にとっても、そんな『ヘアー』は、“次の新しい何か”を感じさせるものがあったのである。

 それが日本でも、しかも日本人自身によって上演される。そのことには「かき立てられるようなものがあった」――、筆者とのインタビュー時、堀内は当時の心境について、そう語っている。

 またもう少し考察を広げるなら、ふたりにとって『ヘアー』は、“魅力的なメロディを持つポップ・ミュージック”、という認識もあったのではないだろうか。

 カナダ出身の作曲家、ガルト・マクダーモットが手掛けた『ヘアー』のスコアが、それそのもののみをとっても優れたものだったことは、この当時、海外でじつに多数の『ヘアー』劇中歌のカヴァー・レコードが生まれていたことからも明らかだ。

 たとえば、69 年の夏までにアメリカではフィフス・ディメンションが「輝く星座(アクエリアス)」を、カウシルズがタイトル曲「ヘアー」を、スリー・ドッグ・ナイトが「イージー・トゥ・ビー・ハード」、ソロ・シンガーのオリバーが「グッド・モーニング・スターシャイン」をカヴァー・ヒットさせており、これらは日本でもシングル盤が発売されていた。

 さらに当時の日本での知名度を別とすれば、イギリスやヨーロッパ各国ではニーナ・シモンによる「愛に生命を(エイント・ガット・ノー、アイ・ガット・ライフ)」※などもかなりのヒットとなっている。

〔※イギリスで2位、オランダで1位。なおシングルとアルバムはアレンジが異なる〕

 『ヘアー』の音楽は、ひと口にロックと記される場合も多いが、実際には“ロック・エイジの感覚を持った音楽”、と広くとらえた方が正確かもしれない。R&B調からボサ・ロック調までとそれは多彩で、メロディの美しい楽曲も多い。

 ライザ・ミネリ、バーブラ・ストライザンドといった著名エンターテイナーが競うように当時シングル発売し、日本では森山良子も歌ったラヴリーなバラード「フランク・ミルズ」なども、いわゆるヒット・ソングにはならなかったが、支持する人の多い楽曲のひとつだろう。

 特にフィフス・ディメンションは日本でも大ヒットしていたし、日高はミルクでも彼らの曲をレパートリーに加えていたというほどである。

 舞台の様子を視覚的に掴む術は少なかったであろう当時、彼らにとってはそうした音楽的なところから惹かれる部分も、あったのではないだろうか。

 ともあれ、オーディションのニュースに日高は飛びついた。そしてその参加のためだったのだろうか。この頃、日高はミルクの活動から一時離脱までしたとも伝えられる。そして、旧知の堀内を誘い、国際芸術家センターに足を運んだのだ。

 だが――、堀内自身の弁によれば、じつは堀内の方は、どうやら、当日までは『ヘアー』のオーディションに参加する気はなかったらしい。

 曰く、オーディションを受けたい、と言い出したのは日高の方で、堀内は心細さを感じていたらしい日高に請われての、その付き添い、という立場のつもりだった。

 ところが会場に来てみたところ、公演の専任プロデューサーであった、招聘元《アスカ・プロダクション》の川添象郎(当時は川添象多郎の名で活動)から、どういう経緯か「せっかくだから、受けてみたら?」と、堀内にも声がかかった、というのである。

 ――さらに話は思わぬ方向へと進む。

 当の日高の方はといえば、このオーディションを途中で“離脱”することになってしまうのである。

 後年の本人の発言(『失速』)によれば、それは、団体生活は好まない、という理由――ミルクの木下も当時、オーディション直後の日高からまったく同様の弁を聞いたことを、はっきり記憶しているという――による、自発的なもの、だったらしいが・・・。

 結果として、10 月 16 日※に東横劇場で行われたという最終オーディションをクリアし、 出演者に選ばれたのは、なんと、堀内の方だったのだ。

〔※『HAIR1969/輝きの瞬間(とき)』(飛鳥新社)〕

 このあたりの堀内や日高の細かな心境や、なぜ、どんな思惑から川添象郎が堀内に声をかけたのかについての仔細は、伝わっていない。
 
 堀内にしても、本当に付き添いだけのつもりだったのか、あるいは、じつはどこかに「かき立てられる」想いを秘めていたのを、肩押しされたのか。そのあたりは、いまとなってはわからないままだ。
 
 いずれにせよ、いきなりのオーディション参加にも関わらず、堀内はこうして大舞台に立つという、思いがけない好機を掴むことになったのである。

 公募では男女、計25名の若者たちが選ばれた。リハーサルは同じく国際芸術家センターにて、10月25日※からスタートする。

〔※『週刊明星』1969年8月10日号、および『HAIR1969/輝きの瞬間(とき)』(飛鳥新社)〕

  そして、合格を経た堀内はこのミュージカルで、当初、劇中でも目立つキャラクターのひとりであった、“ウーフ”という役にキャスティング※されることになる。

〔※ただし、これは上演直前で変更となる。後述〕。

偶然――そして新たな出会いが生まれた

 『ヘアー』日本公演は、こうした舞台公演の常で、主要な役柄についてはダブル・キャストで上演されることになっていた。

 件の“ウーフ”役についても同様であり、この役は堀内がキャスティングされた段階で、じつはすでにもうひとりのキャストが先行して決定していた。いち早くこの役に抜擢されていたというそのキャストも、堀内とは同年輩の、音楽好きの若者だ。

 奇しくも同役を予定されていたという、そのもうひとりのキャスト――。それが、ロック・ミュージカル劇団〈キッド兄弟商会〉(のちに東京キッドブラザースと名を改める)出身という経歴を持つ、愛称“ボーカル”。大野真澄だった。

 大野真澄は 1949 年 10 月 23 日、愛知県岡崎市で生まれている。実家は祖父の代から続く左官店。両親と兄弟、祖父母に加え、父の兄弟、それに住み込みの職人も同居していたという大所帯で育った。

 洋楽に初めて触れたのは小学三年の頃、その同居していた10歳上の叔父を通じてだ。とりわけ衝撃だったのは、ジーン・ヴィンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」。音楽への馴れ初めという点では、ラジオ番組をよく聴いていたという、2つ上の姉の影響も大きかった。

 そんな環境にあって、自らも早くからラジオのチャート番組を通じて洋楽ポップスに親しむようになり、やがて熱烈なビートルズ・フリークとなっていったという大野は、高校時代には〈ダウンハーツ〉という5人編成のアマチュア・バンドを結成。リード・ヴォーカルとして活躍していたこともあった。

 力強い歌声の持ち主だった大野を軸に、ビートルズはもちろん、ローリング・ストーンズ、アニマルズ、レイ・チャールズなどのナンバーを特に得意としたダウンハーツは、近隣の一宮市にあったゴーゴークラブ《ユニバース》などに出演。1967年の《ライト・ミュージック・コンテスト》では東海地区大会に出場し、いいところまで進んだこともあったのだという。

 しかし堀内とは対照的に、あこがれは持ちつつも“音楽で食べて行くことは想像できなかった”、という大野は、高校卒業後は絵の道を志し、ファッション・イラストの世界への憧れから、四谷にあった美術学校《セツ・モード・セミナー》(2017年4月閉校)入学のため、68年春に上京する。

 ところが、そのセツで出会った友人の佐藤憲吉(のちのイラストレーター、ペーター佐藤)が公演ポスターの制作に関わっていたという縁から、当時、立ち上がったばかりのキッド兄弟商会の主宰であった東由多加と知己を得、大野曰く“歌える人が欲しかった”らしい東の、その熱心な誘いから、劇団の活動に思いがけず加わることになる。

 キッド兄弟商会は、寺山修司が主宰する《天井桟敷》の創立メンバーだった東が新たに設立した、『ヘアー』同様にロック・エイジの音楽との共振を背景を持つ劇団だった。

 旗揚げから、東京キッドブラザースと改名して以降、70年代前半までの、その音楽制作に携わった人々の中には、下田逸郎、エイプリル・フール、松崎由治、加藤和彦、井上堯之、かまやつひろし、石間秀樹、などの名も並ぶ。

 大野が劇団に加わったのは、そんなキッドの歴史の、まだ本当にスタートから間もなかった頃の話だ。

 69年の夏に上演され、かなりの評判を呼んだという彼らの 2作目の舞台『東京キッド』に参加した大野は、その中で役者としてだけでなく、バンド時代の経験を活かし、歌や作曲なども担当するようになっていた。

 大野が『ヘアー』のキャストに加わることになったきっかけが、まさにこの『東京キッド』だった。気鋭の劇団の存在に興味を示し、この舞台を観に訪れていたのが、川添象郎や、来日した海外スタッフなど、日本版『ヘアー』の準備を進めていた関係者たちだったのである。

 彼らから薦めを受けたことで、大野は『ヘアー』のオーディションを受けることを決めた。

 こうして、大野は『ヘアー』に出演することになった。そして大野がこの『ヘアー』に参加し、堀内もまた思いがけず同様の道に踏み込み、偶然にも同役にキャスティングされたことで、堀内、日高、そして大野――のちのガロのメンバー3人は、お互いの存在を知ることになったのである。

 もっとも、堀内や日高との最初の“遭遇”は、大野の方の記憶によれば、国際芸術家センターでのオーディション時のことだったという。

 そして、公演期間中の楽屋が一緒だったこともあり、次第に堀内とも親しんでいったという大野は、やがて堀内を訪ねてリハーサルなどにもよく来ていたという日高とも、徐々にお互いの認識を深めて行くことになる。

※以下第7回へ続く→第7回を見る

(文中敬称略)

Special Thanks To:大野真澄、木下孝、鳥羽清、堀内護(氏名五十音順)、Sony Music Labels Inc. Legacy Plus

主要参考文献:※最終回文末に記載。

主要参考ウェブサイト:
『VOCAL BOOTH(大野真澄公式サイト)』
『MARKWORLD-blog (堀内護公式ブログ2009年~2014年更新分)』など

(オリジナル・ヴァージョン初出誌情報:『VANDA Vol.27』2001年6月発行。2023年全面改稿) 

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