見出し画像

【第2回】How They Became GARO―“ガロ”以前の“ガロ”と、1960年代の音楽少年たち―〈ティーンズ / ディメンションズの章〉

◎文:高木龍太 / TAKAGI, ryuta

1970年代を洋楽的で鮮やかなハーモニーとサウンドで彩ったポップ・グループ、<GARO / ガロ>(堀内護 / マーク、日高富明 / トミー、大野真澄 / ボーカル)。その結成以前のメンバーの歩み、音楽的背景などを、関係者取材をベースに詳細に追うヒストリー原稿です。全12回の連載記事。


堀内護の〈ティーンズ〉

 時系列に沿って話を進めて行くならば、もっとも早くからプロ活動へと歩を進めていたのが、“マーク”こと、堀内護だった。

 繊細かつ閃きに満ちた、その秀でたギター・テクニックとハーモニー・ワークでガロ結成にあたっての核となり、また透明感ある個性ある作曲センスで、メンバー中、最も多くのオリジナル曲を紡ぎ出した堀内。

 まずはそんな堀内の音楽歴から、ひも解いて行ってみたい。

 1949年2月2日、堀内は東京の世田谷区駒沢に生まれた。父親は弁護士の職にあり、護、という名もそれにちなんでつけられたものだった。5人兄弟の末っ子であり、少年時代の洋楽体験としてはその兄や姉たちの聴いていた、ハワイアンやウエスタン、そしてポール・アンカ、ニール・セダカなどのアメリカン・ポップスがあった、という。

 身の回りには早くから楽器もあった。音楽好きの家族だけに、当時大学生だった長兄がウクレレを、次兄がガット・ギターをすでに持っていたからだ。やがて家にあったレコードを聴きながら、その兄の持ち物であったギターをいじり出した、というのが、洋楽ポップスと堀内との、もっとも初期の頃の関わりだった。

 曰く、記憶にあるのはリッキー・ネルソンのヒット曲である「ヤング・ワールド」を聴きながら、その旋律を耳で拾い、自身でもギターでつま弾いてみたこと。堀内がまだ、ローティーンの頃のエピソードだ。

 そんなある日。堀内の耳に飛び込んで来た、さらに刺激的なサウンドがあった。エレクトリック・ギターの音だ。次兄がアメリカのインストゥルメンタル・ギター・バンド、〈ベンチャーズ〉のレコードをコレクションに加え、堀内に聴かせたのだ。

 それは堀内自身の弁によれば、中学時代の出来事だった、という。

 そして、その“生”の音に触れる機会もすぐにやってきたようだ。次兄はその頃すでに、自身でもアマチュア・バンドを作っていたからである。

 はじめて触れる、“エレキ”という楽器。その衝撃は堀内にとって、どうやら、それまで聴いていたアメリカン・ポップス以上のものがあったようだ。

 <なんといっても、アンプから音が出ると、大きくて、それがたまらなかった>――。

 堀内は後年、その“音”に触れた時の印象を、こんな具合に語っている(『失速―ガロが燃えつきた日』掲載のインタビューでの発言。1980年、立風書房)。

 彼が中学へ通っていたのは、1961年の4月から1964年の3月まで。これらの出来事が起きたのは、たぶんその間のことである。

 一般に、日本でベンチャーズのようなエレクトリック・ギターによるインストゥルメンタルのロック、いわゆる“エレキ”のサウンドが広く浸透し始めたのは、1964年の夏。この年4月に日本発売されたアストロノウツの「太陽の彼方に」がヒットし、その独特なエレクトリック・ギターの響きによる“サーフィン”サウンドが日本のリスナーの心を捉えてから、と言われる。

 そして、そのサーフィン・サウンドの流行から、やがて1965年初頭のアストロノウツ、ベンチャーズの来日公演を機に、日本の多くの少年たちをアマチュア・バンド結成へと走らせた“エレキ・ブーム”という大きな動きが生み出されることになる。

 もちろん、そのブームの数年前から“エレキ”のサウンドに取り組み始めていた、時代に敏感な人たちはいた。プロ・バンドなら、たとえば寺内タケシのブルー・ジーンズが1963年に“エレキ”スタイルに転換。ベンチャーズやシャドウズなどに触発されたアマチュアのコピー・バンドも、早いものでは1960年あたりから登場していたようだが、その後、慶応、学習院など有名私大の学生を中心に、1963年頃から1964年にかけて、都内ではその数を増やしつつあったと聞く。

 堀内が中学に通っていた1960年代前半とは、そんな風に世間の“エレキ熱”が“大爆発”する少し前の時代だったはずである。おそらくは日本のポップ・ミュージックの歴史に、新たな光が差し込み出していた頃だったのだ。

 堀内曰く、ベンチャーズは前述の1965年の来日時、新宿厚生年金会館での来日公演も目撃したという。そしてこの時、日本側から前座として出演したのが、当時の著名プロ・バンドのひとつ〈スパイダース〉だ。ギタリストのひとり、かまやつひろし――ムッシュかまやつ――がその日も見せたという、彼お得意の“アーミング奏法”の強烈すぎるパフォーマンスも、堀内を驚嘆させるものだった。

 こうして生で体験したトップ・スターのエレクトリック・ギター・サウンドが、当時の堀内をどれだけ触発するものであったかということは、ベンチャーズのライヴ・アルバム『Live In Japan '65』や、スパイダースのインストゥルメンタルを中心とした初期音源集『栄光のザ・スパイダース』など、この当時に録音された音源に封じ込められたエキサイティングなロック・ビートを聴けば、想像はいとも容易だ。彼らは間違いなく、堀内だけでなく当時の日本の多くの少年たちを“新たな世界”へとのめり込ませた、功労者たちだったはずだ。

 のちにかまやつはガロの音楽性をいち早く認め、彼らが世に出る際の大きな後押しを担うことにもなる。この時客席から見上げていたかまやつと、この後に自身が交流を持つことになろうとは、10代の堀内には想像もつかなかったに違いない。

 そんな堀内が、兄のギターを借りる程度では飽き足らずに、いよいよ自分専用のエレクトリック・ギターを手に入れたのは、本人の弁によれば、中学を卒業し、法政大学第二高等学校に入学(1964年)したあたりの時期のことだった。手にしたのは、当時国内ではグヤトーンと共に2大国産ブランドとして有名だった、テスコ(TEISCO)のギターだ。

書籍『日本のヴィンテージ・ギター』。
テスコ、グヤトーンなど、1960年代当時の国産ギターを多数取り上げている
(書影は版元ドットコムより)

 そして、ギター熱に浮かされた彼は、中学以来の友人たちを誘い、自身でもインストゥルメンタル・バンドを組むと、本格的に演奏活動を開始するようになる※。バンドの名前は、〈ティーンズ〉。自身らがティーンエイジャーであることからの、ごくシンプルなネーミングだった。そして、このバンドで堀内は、リード・ギターを担当することになる。

 ベンチャーズのギタリスト、ノーキー・エドワーズは、彼の最初のギター・ヒーローとなった。

〔※中学時代にも多少、バンドの真似事――〈スリー・ギターズ〉を名乗っていたらしい――をしたことはあったようだが、本格的な活動はこれが初だったようだ。〕

 当時のレパートリーはほかの多くのアマチュアがそうであったのと同様に、欧米のインスト・バンドのものばかり。もっぱら、日本でもよく知られていたベンチャーズやアストロノウツのナンバーのコピーに夢中になった。当時のその手の有名曲なら大抵取り上げていたようだが、例を挙げれば、アストロノウツなら「サーフ・パーティー」などを、ティーンズでは好んで演奏していたようだ。

 そんな中で、当時の堀内にとって印象深かった曲のひとつに、ベンチャーズの「テルスター」という曲があった。

 「テルスター」は、62年7月にNASAが打ち上げた、世界初の通信衛星と言われる“テルスター1号”をイメージして作られた曲である。ベンチャーズのオリジナル曲ではなく、もともとはイギリスのトーネイドーズ(当時の日本盤の表記は“トルナドース”)が62年後半にヒットさせた楽曲だが、どちらのヴァージョン(ベンチャーズ版は63年リリース)も、電子鍵盤楽器の音色を効果的に用いた、スペイシーな音作りが印象的な曲だ。

 堀内が親しんでいたのはベンチャーズの方だったようだが、彼自身から聞いたところでは、この曲はオルガンが主旋律を奏でる曲だったため、キーボード奏者がいなかったというティーンズでは、残念ながら実際に演奏する機会はなかったらしい。

 それでも曲についての思い入れはかなりあったようで、ガロ解散後の77年になって2枚目のソロ・アルバム『マーク・ブライト』(ディスコメイト、DSF-5007。現在CD再発盤CRCD-5080が入手可能)を制作した際、「銀河旅行」という自作曲の間奏に、堀内はこの「テルスター」から引用したメロディを、そっと挿入している。

 堀内にはガロ時代の後半以降、シンセサイザー・サウンドにもかなり心を奪われていた時期があり、シンセを活かし、何曲か自身でもスペイシーというか、ある種プログレッシヴなテイストの楽曲を発表していたことがあった。

 ガロの75年のラスト・アルバム『三叉路』の冒頭を飾った堀内による作品「夜間飛行機」などは、デビュー当初からのガロのグループとしてのCS&N的な持ち味を発展させつつ、シンセサイザーの夢幻な響き※など、新たな時代からの刺激をも交え、“その先”を感じさせることにも成功した、まさにそうしたプログレッシヴな路線における力作だったし、「銀河旅行」も幾分ポップス寄りの仕上がりながら、その流れを感じさせる作風でもあったように思う。

〔※メインのプレイヤーは堀内が敬愛した才人・深町純だが、クレジットには堀内自身もミニ・コルグを演奏とある〕

 少年時代に聴いた「テルスター」は、ひょっとしたら、そういった堀内の嗜好に、潜在的に影響を与えていた曲だった――のかもしれない。

 そして、いよいよ1965年。日本中でエレクトリック・ギター、そして無数のアマチュア・バンドによる“エレキ・ブーム”が爆発する。

 その渦の中で、堀内のバンド熱は、当時大人気だった『勝ち抜きエレキ合戦』(65年6月23日スタート。フジテレビ)や、『エレキ・トーナメント・ショー』(テスコ提供で65年8月8日スタート。東京12チャンネル) といったアマチュア・バンドのコンテスト番組にも相次いで出場するほどに、ヒートアップして行く。

 堀内自身の弁によれば、『勝ち抜きエレキ合戦』では結構いいところまでいったそうだが、フィリピン人からなる対戦バンドに惜しくも敗れてしまった――、のだそうだ。ちなみに出場した際にティーンズが演奏したのは、堀内の記憶では、ベンチャーズの「ブルドッグ」だったそうである。

《WiS》への参加

 当時、ティーンズは《WiS》※、というアマチュア・バンドのサークルに所属していたという。

 当時の雑誌広告などによれば、“WiS”は“World Instrumental Society”の略。スペルはiが小文字の場合が多く、カナ表記は“ウィス”となっており、堀内の記憶でも発音はウィス、だとのことである。

 このWiSというのは、楽器製造・販売で知られるヤマハ(当時の正式名称は日本楽器)の池袋店が主宰していたサークルだった。

 当時の東京の状況を振り返ってみると、すでに64年4月には都内の有力な学生アマチュア・エレキ・バンドが名を連ねる《T.I.C(Tokyo Instrumental Circle)》という学生主体のサークルが先行して誕生。

 成毛滋、高橋信之らが在籍した慶応高校の〈フィンガーズ〉や、彼らの先輩であり、加山雄三のランチャーズとの関わりでも知られる慶応大学の〈プラネッツ〉、界隈ではカリスマ的支持を得るほどの腕だったとも言われる立教大学の〈ビートニクス〉、学習院の〈パニックメン〉といったバンドがそこに加盟しており、これには銀座ヤマハが協力関係にあった。

 WiSとは、このT.I.C.の動きに注目していた池袋ヤマハのスタッフが後を追う形で、65年頃に新たに発足させたバンド・サークルだったようだ。

 WiS内には何段階かのクラス分けがあり、プロ・ミュージシャンも招いていたという審査を経て最上級の“エース・クラス”と認められるとヤマハ主催の大きなコンサートに出演が出来たそうだが(加えてヤマハの楽器の無料貸与があったという話もある)、ティーンズはこの“エース・クラス”を獲得していたという。

 “エレキ・ブーム”以降、数多のアマチュアが次々と参加したというこのWiSには、60年代半ばから後半にかけて、松本隆、山下達郎、村松邦男、寺田十三夫、渡辺茂樹――といった、のちの音楽シーンで活躍する人たちも、それぞれのバンドで参加していたことがあった。

〔※オリジナル原稿ではこの《WiS》のことを“フィンガーズ、ビートニクスといったバンドが所属”、と記したが、さる関係者(筆名・遠藤利吉)が2011年に雑誌『エレキギターブック』(シンコーミュージック)に連載した「ギターヘル・アナトミア」での主張によれば、この2バンドはWiSではなく正しくは《T.I.C》の所属バンドである、とのことであり、今回はそれに従い、記述を修正している。

 とはいえ、WiS発足当初の数か月についてはフィンガーズ、ビートニクスを含むT.I.CのバンドもWiSに協力し、行動を共にしていた、ということは事実としてあったようだ。当時のWiSの雑誌広告にはビートニクスや、成毛滋が会員として紹介されていたこともあった。細かい内部事情はよくわからないが、こうしたことから彼らが“WiSに所属していた”という具合に記憶する人も少なからずいるようである。
 実際、堀内も“このWiSにはフィンガーズ、ビートニクスなどがいた”と筆者に対し話していたし、ほかにもたとえば山下達郎のベストLP『GREATEST HITS! OF TATSURO YAMASHITA』(1982年のオリジナル盤)に添付されていたブックレット内の山下のバイオグラフィでも、WiSにはフィンガーズらが参加、という記述が認められる〕

WiSの広告に掲載された立教大学のビートニクス。
ドラム・ヘッドのロゴに”WiS”の文字が見える。

 このティーンズ時代に、堀内はバンド活動を通じて意外な人と出会うことになった。そしてさらには彼を通じて、思いがけない、こんな“ある依頼”まで受けることになる。

 ティーンズが『勝ち抜きエレキ合戦』へ出演した直後のことだ。堀内の家へ突然、一本の電話が入った。

 電話の主は、当時の有力な学生エレキ・バンドのひとつ〈サベージ〉のギタリストであった、奥島吉雄である。

 イギリスのインスト・バンド、シャドウズにあこがれ、彼らの楽曲から戴いたバンド名を名乗っていた、サベージ。当時のレパートリーはもちろんシャドウズが中心であり、その演奏力の高さは当時の堀内ももちろんよく知るほど、名を轟かせていたアマチュア・バンドだ。

 堀内の記憶では、サベージはこの頃、すでに『勝ち抜きエレキ合戦』に出場(65年10月)して4週連続でチャンピオンとなったあとであり、知名度、人気も増していた頃だったという。このサベージの当時のベーシストだったのが、のちに歌手・俳優として広く知られることになる、寺尾聰である。

 当時のエレキ・バンド界隈のいわば“スター”の一組であった、サベージのメンバーからの突然のコンタクトに驚く堀内。じつはWiSにはこのサベージも関与していたことがあるようなのだが、とはいえ、奥島は当時大学生、堀内はまだ高校生。面識や交流があったわけではなかったらしい。

 “頼みたいことがあるんだけど――”。

 後日、その“頼み事”を告げるため、堀内宅へわざわざやって来たという奥島の口から出てきたのは、さらに驚きの用件だった。

 “放送を見て演奏に感心したが、今度別府で行われるエレキのコンサートに自分たちが出れなくなったので、代わりに君たちが行ってくれないか?”――こんな要旨の声がかかった、というのである。

 堀内から聞いた話では、ティーンズはその頼みを受け、実際にサベージのピンチヒッターとして、別府まで赴いたらしい。ただし、高校生ではなく、“大学生のバンド”だ、と偽って。実はこのコンサート、“大学生バンド二組の競演”※という触れ込みで企画されていたものだったのである。さらに、嘘か誠か、この時、堀内らはティーンズではなく、“サベージ”だと観客に紹介された(!)とのことで――。

〔※堀内の弁ではエレキの「早慶戦」だったとのこと。当時のサベージはそれぞれ別々の学校に通う学生4人からなっていたが、メンバーのひとり、林廉吉が慶応だったことによるものかもしれない〕

 なんとも、現在からすれば、乱暴というか、おおらかな話だが、結果として、この時の催しは盛況となったらしい。若いアマチュア・バンドがたった二組だけの出演にも関わらず、別府市内にあった大きな会場(体育館だったようだ)が観客でいっぱいになったのだという。“エレキ・ブーム”がいかにこの頃、社会的な現象であったのかを物語るようなエピソードだろう。

 初めての地方遠征、そしておそらくは満場の観客から沸き上がったであろう拍手――。高校生の彼らにとっては充分、刺激的な出来事だったに違いない。実際、この時の演奏旅行は、堀内にとって後々まで鮮明な記憶として残る出来事となったようだ。そして、この別府遠征を持ちかけたサベージの奥島との出会いも、堀内にとっては重要なものとなった。奥島はこの数年後、さらに堀内の人生を左右するような“ある話”をまたしても持ち込むことになるのだが、それはまた少しあとで語るとして――。

 いずれにしても、この別府遠征のエピソードからは、すでに当時の堀内のギター・テクニックが周囲の目を惹くものだったであろう様子が窺えるが、その後、堀内はその腕前を見込まれてか、ティーンズを解散すると、今度は〈ディメンションズ〉という別のインスト・バンドに誘われ、ここに参加することになる。

アメリカン・スクールの〈ディメンションズ〉

 このディメンションズ(ディメンション、と単数形の名称で呼ぶ人もいるようだが)というのは、堀内の参加前からすでに存在していたバンドだった。

 当時の日本のエレキ・インストについての文献を細かに辿って行くと、しばしばその名を目にするバンドだが、残念ながらレコード・デビューはしておらず、音源などは発表されていない。しかし『勝ち抜きエレキ合戦』には65年6月の記念すべき第一回目に出場し、同回のチャンピオンとなったこともあったというほどの腕と実績があったバンドだ。

 リーダーは、リード・ギターを担当していたシー・ユー・チェン。のちに成毛滋、高橋信之らの〈フィンガーズ〉にべーシストとして参加し、活躍することになる人物である。

 ディメンションズは、堀内のティーンズとは少し異なる雰囲気のバンドだった。なぜなら彼らはそもそもは、アメリカン・スクールを舞台に始まったバンドだったからである。

 1947年に北京で生まれ、香港を経て5歳の時に来日、東京で育ったシー・ユーは、当時は調布にある《アメリカン・スクール・イン・ジャパン》の生徒だった。結成当初のディメンションズは、そのシー・ユーを中心に、出身が中国(シー・ユー)、タイ(ベースのウォーレン・プカナスト)、アメリカ(ギターのティミー・ミヤケ、日米ハーフ)、イタリアといった、メンバー全員がアメリカン・スクールに通う生徒からなる、国際的な空気を持つバンドだったのである。

 “いってみれば小さな国連みたいな理想郷”だった――、43ヵ国の子供たちが通っていたという同校での在学当時を振り返って、シー・ユーは2014年の『現代ビジネス』でのインタビュー記事の中で、こう印象的に述べている。

 そんな具合に始まったディメンションズだったが、活動を進める中ではやはりメンバーの入れ替わりもあった。やがてこのバンドには、学外から日本人のメンバーも加わることになる。

 当初在籍していたイタリア人ドラマーが脱退したあとに加入してきたという、大串安広(DS)と、その友人の山本徹(SG)――。このふたりがそうだった。

 この大串というのは、のちに〈ワイルド・ワンズ〉に加わる、植田芳暁。そして山本は、のちに「雨のバラード」で知られる〈スウィング・ウエスト〉に参加し、その後セッション・ミュージシャンとしても活躍した、山本とおる(スウィング・ウエスト時代の芸名は梁瀬トオル)のことである。ふたりとも、この頃はまだ川崎の県立校に通う高校生だったという。

 彼らの加入は、シー・ユーが植田と偶然に知り合い、親しくなったことがきっかけだった。ある時、シー・ユーが都内の楽器店に赴いた際、同じようにたまたま店に来ていたのが植田だったのである。

 アメリカン・スクールのバンドということもあってか、当時の植田はディメンションズでは“ジョー”のニックネームで親しまれていたらしい。さらに、この頃はなぜか対外的にも日本人であることを隠し、モンゴル出身と装って“ジョー・パーカー”、という外国人風の名前を用いて活動していたというから、ユニークだ。同様に、山本がこのバンドで名乗っていたのも、アメリカ出身という触れ込みの“トニー・ヤマモト”である。

 件のディメンションズの『勝ち抜きエレキ合戦』出場も、この植田・山本が在籍していた頃の出来事だった。出場曲はシャドウズの「アパッチ」。後年の植田自身の発言によれば、植田・山本が高校3年の頃にかけて、ディメンションズはこのメンバーで活動していたようである。

 そんなある日のこと。WiS関連のアマチュア・バンド・コンサートにおいて、このディメンションズと、堀内のティーンズの2バンドが、偶然に出演者同士となる。シー・ユーは堀内より一学年上だったが、どちらもほぼ同年輩のバンドには違いなかった。

 堀内によれば、これがきっかけとなって、シー・ユーとの面識が出来たのだという。つまり、WiSが媒介となって、若いミュージシャン同士の、新たな交流が生まれたのである。そういった意味では、WiSへ参加したことは、堀内にとって、非常に大きな価値のあるものだった。

 その後、ディメンションズからは植田と山本が脱退することになった。理由はどうやら植田の受験に伴う学業優先だったようだが、とはいえ学生の身ではなにかとアルバイトの必要もあったようで、ふたりはその後、割のいい仕事だったという、川崎のダンス・ホール《フロリダ》の箱バン〈ジャックス〉へ揃って参加することになる。

 余談ながら、このジャックスとは、早川義夫が率いた著名な同名バンドとは無関係の別バンド。こちらのジャックスというのは当時、フロリダのメイン・ステージの箱バンだったプロのエレキ・バンド〈ザ・スペイスメン〉(日本ビクターから多くのアルバムをリリースしている)と同時期に、同店のサブ・ステージの方を受け持つ箱バンとして活躍していたバンドだった。

 そして植田はこの頃、ドラムだけでなく数曲でヴォーカルも受け持ち、当時としてはまだ珍しかった“歌うドラマー”として、音楽関係者の間で目を引くことになって行く。

 一方のシー・ユーは、植田と山本の脱退後、ディメンションズをまったく新たなメンバーで再編することになる。そこでギタリストとして新たに誘いをかけたのが、ほかでもない、WiSを通じて知り合っていた堀内だったのである。

 こうして“新生”ディメンションズが誕生した。顔ぶれは、シー・ユー、堀内がそれぞれギター。ドラマーには堀内の友人で、やはりティーンズの元メンバーであった高橋均が加わった。そしてもう1人、ベーシストの“ジャック”――ニックネームなのかファースト・ネームなのか不明だが、堀内の記憶ではアメリカン・スクールの学生だったようだ――、この4人編成が、新しいディメンションズだった。

 なお当初はWiSに所属していたディメンションズだが、その後、おそらく堀内の参加した頃までには、新たにフィンガーズのいるT.I.Cへと活動の場を移していたらしい。実際にそれを裏付けるように、66年12月20日の日消ホール《T.I.C.6th》、67年6月7日に日本青年館にて行われたT.I.Cの最後のコンサート《SURFS UP》の出演者の中には、フィンガーズらと共に、ディメンションズという名が確認できる。

 残念ながら、堀内はこのディメンションズ時代については、自身在籍時のレパートリーや、活動期間など、詳細についてはあまり語っていない。筆者もこの時代については深く訊く機会を、ついに逃してしまった(詳しい話を次回に、という約束だった)。それがいま、あらためて悔やまれてならない。

 ただ、たとえば前メンバーである植田の後年の談話など、関係者から得られた話を総合すれば、やはりそのメンバー構成や環境ゆえか、ディメンションズというのは当初から日本のほかのアマチュア・バンド群とは一味違う、情報のキャッチが早い、海外的なセンスを感じさせるバンドであったらしい。

 レパートリーはシャドウズなどを特に得意としていたとも伝えられるが、それだけに留まらず、ほかのバンドがあまりやっていなかった曲、植田によれば※ディック・デイル&デル・トーンズの「レッツ・ゴー・トリッピン」なども取り上げていたという。

〔※植田芳暁インタビュー/ザ・ワイルド・ワンズ『コンプリート・ヒストリーBOX 1966-1971』ブックレット掲載。聞き手:黒沢進、高木龍太〕

 インストだけでなく、日本では馴染みの薄いヴォーカルものを取り上げていたともいい(初代ベースのウォーレンが持ち込んだ、タイで流行っていた曲など)、またレパートリーにはなかったものの、メンバーはビーチ・ボーイズなども好んで聴いていたとも聞く。機材面についても、日本のバンドにとっては目新しかったエコー・チェンバーなどを、海外経由で早くから入手していたそうである。

 ティーンズからこうした“先を行く”雰囲気を持ったディメンションズへ移り、環境が変わったことで、当時の堀内はいったい、どんな刺激を得ていたのだろうか。

 ちなみにディメンションズといえば、植田の3歳下の幼馴染である渡辺茂樹(のちワイルド・ワンズへ加入)が、当時組んでいた自身のアマチュア・バンドを兄貴分の植田がいたバンドに倣い、〈ディメンションズ・ジュニア〉と名乗っていた、という話も一部では知られたものかもしれない。

 実際、渡辺は植田のいた頃にはディメンションズの練習場に顔を出していたこともあったという。当時の渡辺はまだ中学生ながら早くも才分を現し、前後する時期にはドラマーとして横浜山下町にあったゴーゴー・バー《レッド・シューズ》の箱バンに年齢を隠して加わる(前任はアイ高野)ほど※の、早熟な少年だったと伝えられている。

〔※渡辺茂樹インタビュー/ザ・ワイルド・ワンズ『コンプリート・ヒストリーBOX 1966-1971』ブックレット掲載。聞き手:高木龍太〕

 ただ、これらはいずれも堀内の参加前の話だったようだ。少なくとも堀内に訊いた限りでは、このジュニアと自身との交流については、まったくなかったそうである。

 ところで――、そんなディメンションズ時代について筆者が堀内から聞いたなかで、もっとも興味深かったエピソードは、かつて在籍した植田や山本も外人名を用いていたからか、堀内もこのバンドでは“外人風の呼び名”を名付けられることになった、という話題、だ。

 察しの良い方ならすぐにお気づきになったかもしれない。――そう、その後現在に至るまで堀内の愛称として親しまれることになった、あの“マーク”という呼び名は、実はこのディメンションズ在籍時、シー・ユーによって付けられたもの、だったのである。“護”を外国風にもじってのネーミングだった。

 しかも、堀内が教えてくれたこのエピソードには続きがある。この時、同様にシー・ユーによってドラムの高橋均(たかはし・ひとし)に付けられた呼び名が、なんと、“トミー”だった、というのだ。

 ――“マークとトミー”!

 もちろん、単なる偶然ではあるが、ガロを知る者にとってはなんとも、笑みのこぼれてしまう話である。もっとも、堀内自身は高橋については、少年時代から馴染んでいたという“キンちゃん”、というニックネームの方で呼んでいたようだが――。

 余談だが、シー・ユーは後年、荒井由実にも“ユーミン”という有名なニックネームを付けたことでも知られている。

 音楽的に早熟だった彼女は中学から高校にかけての60年代後半、モップスや、フィンガーズなど、当時、通好みとされたGSバンドの“追っかけ”であったと伝えられるが、特に慕っていたのが、フィンガーズ時代のシー・ユーだった。シー・ユーとそのガールフレンドからは妹のように可愛がられた存在だったという彼女だが、そんな日々の中でシー・ユーが名付けたのが、ユーミン、という呼び名だった。

 “マーク”と、“ユーミン”。このふたりは、この数年あとに《アルファ》という名の、同じ原盤制作会社に所属することになる。

 それは単なる偶然だったのかもしれないし、ふたりの資質は、異なるものかもしれない。しかし共にシー・ユーが名付けの親となったふたりが、同じ傘の下で、おそらくはそれぞれがそれぞれに考える、自分たちの音楽を作って行くことになったのは事実だろう。

 そんな偶然を呼んだのが、あの時代の見えない“磁力”なのだとするなら、その正体とは何なのか、少しだけ、不思議に思う時もある。

※以下第3回へ続く→第3回を見る

(文中敬称略)

Special Thanks To:大野真澄、木下孝、鳥羽清、堀内護(氏名五十音順)、Sony Music Labels Inc. Legacy Plus

主要参考文献:※最終回文末に記載。

主要参考ウェブサイト:
『VOCAL BOOTH(大野真澄公式サイト)』
『MARKWORLD-blog (堀内護公式ブログ2009年~2014年更新分)』など

(オリジナル・ヴァージョン初出誌情報:『VANDA Vol.27』2001年6月発行。2023年全面改稿)

▼Contact
※お返事を差し上げるまでにお時間がかかる場合がございます。
また頂いたお問い合わせにはお返事を差し上げられない場合もございます。
あらかじめご了承ください。
https://poptraks.wixsite.com/takagi-ryuta/contact
https://twitter.com/poptraks

 ©POPTRAKS! magazine / 高木龍太

『POPTRAKS! magazine』内のすべての内容(記事・画像等)について、無断転載を禁じます。
Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?