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【第3回】How They Became GARO―“ガロ”以前の“ガロ”と、1960年代の音楽少年たち―〈エンジェルスの章〉

◎文:高木龍太 / TAKAGI, ryuta

1970年代を洋楽的で鮮やかなハーモニーとサウンドで彩ったポップ・グループ、<GARO / ガロ>(堀内護 / マーク、日高富明 / トミー、大野真澄 / ボーカル)。その結成以前のメンバーの歩み、音楽的背景などを、関係者取材をベースに詳細に追うヒストリー原稿です。全12回の連載記事。


〈エンジェルス〉結成

 そんなバンド活動に邁進していた67年3月。堀内は高校を卒業することになる。

 付属高校に通っていた堀内だったが、進路については決め兼ねる部分もあったのか、そのままエスカレーターで大学へ進む道は選んでいなかった。たとえば美大へ進むこと、さらにその先はグラフィック・デザイナーという職に惹かれる気持ちもどこかにあったようである。

 その一方でディメンションズでの活動では、ギャランティの発生する、ちょっとした仕事もすでにいくつか経験していたようだ。音楽の世界で活動して行くことにはやはりあこがれがあり、また自分の腕に対する自信、手応えも感じ始めていた、そんな頃でもあった。そんな手応えを背景に、この頃“音楽で食べて行けたら”という気持ちを抱き始めていた、ということを、後年のインタビューで堀内自身も明かしている(『失速』)。

 そんな折、堀内のもとにある人物によって驚きの話が持ち込まれた。その人物とは、ティーンズの頃に知己を得ていた、あのサベージの奥島吉雄である。

 曰く、当時、歌手・女優として活躍し、アイドル人気の高かった〈由美かおる〉のバック・バンドを彼女の所属事務所である《西野バレエ団》が探しているが、ついては堀内たちでその役を引き受けてみないか?――というのである。プロ・デビューのチャンスだった。

 しかし、どういう経緯があったのだろうか。リーダーであるシー・ユー、そしてジャックのアメリカン・スクール組のふたりは、堀内曰く、ここでディメンションズから“離脱してしまった”、のだという。

 シー・ユーはその後、67年10月にヤマハ絡みで結成された〈ザ・ラヴ〉というバンド※に参加。ここでの短期間の活動を経たのち、前述のように旧知の成毛滋の誘いから、フィンガーズにベーシストとして加入することになる。

〔※東芝からデビューした同名のGSとは無関係で、こちらは〈ピーコックス〉という別のGSに発展する〕

 具体的にどんな理由がそこにあったのかは、残念ながら堀内からは聞いていない。いずれにしても、バンド・メンバーは堀内とドラムの高橋均のふたりのみが残る形となってしまったのである。

 しかし、音楽のプロとしてやって行くことに心惹かれていた当時の堀内にとっては、バック・バンドの件は、やはり魅力ある、逃したくない話だったのだろう。急遽、堀内はバンドを再編成するため、メンバー探しに動いたという。

 頭に浮かんでいたのは、あるアマチュア・バンドのメンバーだった。以前、たまたま観たという彼らの演奏を通じて、その技量を気に入っていたのである。そして、このバンドにいたベーシスト、サイド・ギタリストのふたりを誘い入れることで、堀内はいわばディメンションズを母体とした、新たなバンドを大急ぎで始動させる。

 結果、この“新バンド”は無事、由美のバック・バンドの役を引き受けることが決定した。慌ただしい立ち上がりではあったものの、こうして堀内は晴れてプロとして、由美と同じく西野バレエ団に所属することになったのである。

 それから程ないある日。プロ活動にあたり、西野バレエ団から全員新しく楽器を買い揃えることを促され、銀座の山野楽器へ出向いた堀内らメンバーは、そこで売り場の若い店員と知り合い、親しくなった。聞けば彼も高校時代にはバンド経験があり、キーボードも嗜みがあるのだという。そんな中で、堀内はその若い店員に「スタジオで練習をやっているから、遊びに来れば?」と声をかける。

 誘いを受けた彼は、注文品の楽器の搬入も兼ね、堀内らの練習場へと足を運ぶことにした。

 その日、スタジオに顔を揃えた“新バンド”のメンバーはギター2本、ベース、ドラムの4人。だが、どうやら堀内には、さらに加えて、キーボードを迎えよう、という意向があったらしい。

 ――渡りに船、ということだったのだろうか。意気投合していたその若い店員は、スタジオを訪れたこの日をきっかけに、なんとそのまま、キーボード担当としてメンバーに加わることになるのである。

 その結果、楽器店店員という、堅実な職は辞することになったが、堀内と同様、音楽の現場という道には、やはりあこがれや、未来を感じる部分もあったのだろう。堀内の誘いでその日スタジオに足を踏み入れた時、自分のなかに“新しい世界が開けた”感じがしたことを、彼はその後も忘れていないという。彼の名は、鳥羽清(1948年4月15日東京生まれ)といった。

 そして――、この“新バンド”は、鳥羽を加えた以下の5人編成で、正式にスタートすることになる。

●堀内護(LG、リーダー。18歳。ニックネーム:マーク)
●杉浦洋一(SG。18歳。ニックネーム:ピーター)
●高橋一彦(B。19歳。ニックネーム:酋長)
●鳥羽清(Key。18歳。ニックネーム:僧正)
●高橋均(DS。18歳。ニックネーム:トミー)
※カッコ内のプロフィールは当時の雑誌記事から。

 鳥羽の記憶や、当時の雑誌記事などの記述を擦り合わせると、それは67年4月、あるいは5月頃のことだったようだ(ただし前述のディメンションズの《SURFS UP》※出演は同年6月であり、若干の疑問も)。メンバーは全員、18、19歳で、まだ学生兼業という者も多かった。

〔※第2回を参照〕

エンジェルス(1968年3月3日 新宿ラ・セーヌにて)。
左から鳥羽、杉浦、堀内、信見(2代目ドラマー)、高橋一彦。〔提供: 鳥羽清〕

 この頃、国内の音楽シーンは“エレキ・ブーム”を経て、ビートルズ以降の“ヴォーカル&インストゥルメンタル・スタイル”という新たな感覚を持った、“グループ・サウンズ=GS”の一大ブームへと、移り変わりを見せていた。

 66年の初頭までにはスパイダース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツといったグループがこうしたスタイルに先鞭をつけ、66年11月にはワイルド・ワンズが「想い出の渚」で、そして67年の2月には若手のホープ、タイガースが「僕のマリー」でレコード・デビュー。6月にはカーナビーツ、ジャガーズ、ゴールデン・カップス、といった有力なバンドが次々にデビューし、シーンはさらに活況を見せることになる。

 堀内にプロ入りのチャンスをまわしてくれた奥島のサベージも、アマチュア時代にはシャドウズ系のインスト・バンドとして実力と人気を誇っていたが、66年の夏にはヴォーカル入りの「いつまでもいつまでも」でレコード・デビューしており、いつしか“GSの一つ”として数えられるようになっていた。

 シー・ユーが加わることになったフィンガーズも、同様にインストの覇者から、ヴォーカル・スタイルのロック・バンドへと移行してゆく(68年6月、GSとしてプロ・デビュー)。

 堀内たちの新バンド結成の陰には、西野バレエ団側としても単にバック・バンドを求めていたというよりも、こうした時流をにらみ、一つくらいそうしたバンドを抱えておこうか、という思惑もあったのかもしれない。

 そんな堀内自身もやはり当然ながら、この頃までにはビートルズを始めとする“歌い演奏する”英国からのビートとハーモニーの洗礼を受けていた。

 というよりも、堀内が最初に“自分の意志”で買った洋楽レコードというのが、じつはインスト物ではなく、まさにビートルズだった、のだという。その最初の一枚は「シー・ラヴズ・ユー」。つまり、ティーンズ~ディメンションズの活動期、アマチュア・バンドのトレンドはインストゥルメンタルの時代だったが、心はやはり多くの同世代同様、ビートルズに惹かれてもいたのである。

 さらに67年といえば、海外のミュージック・シーンはすでにサイケデリック時代へと突入していた頃でもある。たとえば、当時気に入っていたレコードの一例として、高校の頃に買った、ヤードバーズの「幻の十年」のシングル盤が鮮明に記憶にある、と堀内が語ってくれたこともある。キンクスのサウンド、たとえば「エンド・オブ・ザ・デイ」なども当時の彼には刺激的だった。

 まだティーンズを結成してから、この時点でたった3年ほどしか時間は経っていなかった。しかし、ポップ・ミュージックには急速に、驚くほどの多様な変化が起きていたのだ。

 そして西野バレエ団に所属してから数か月後。由美かおるの初リサイタルが67年11月7日、平河町にあった都市センターホールにて催されることになり、同日、堀内たちも由美のバックでデビュー・ステージを踏むことが決定する。

 堀内たちのバンドはこれを機に、西野バレエ団から正式なバンド名を命名されることになった。――〈エンジェルス〉である※。

〔※このエンジェルスというのは堀内、鳥羽の発言内の発音、さらに当時の芸能誌の記事内で最も多かった表記にならったものだが、一方で当時の出演告知などの資料では“エンゼルズ”、あるいは“エンゼルス”という表記もしばしば見られる。また、バンド名が事務所命名というのは堀内の証言に基づいたが、当時の記事には事務所命名という話と、もうひとつ、後述『レ・ガールズ』を通じての視聴者一般公募だったという話のふたつが見つけられる。〕

 当時の雑誌記事が伝えるところによれば、由美の都市センターホールのリサイタルはブルー・コメッツ、水前寺清子などの人気芸能人もステージに応援に駆け付けたといい、かなりの盛況となったようだ(この日の模様はスポニチ芸能ニュースにも取り上げられた)。

 かくして“エンジェルス”のプロ活動は順調にスタートを切った。当初のバンドの管理は当時の由美のマネージャーが兼務。その後、68年に入るあたりには専任マネージャーもつくことになる。

 ただその一方で、別れもあった。この由美のリサイタルから程なくのことだと思われるが、堀内にとってはティーンズ以来の仲であった高橋均が、一身上の都合で芸能活動を続けられなくなり、脱退することになったのである。

 後任のドラマーはマネージャーからの紹介で、信見茂(愛称はサミー)がすぐに加入することになった。以降、エンジェルスは信見を加えたこの5人で、活動を続けて行くことになる。

テレビ『レ・ガールズ』で活躍

 当時のエンジェルスの主な仕事は、由美かおるのステージのバッキングと、テレビ番組『レ・ガールズ』(NTV系、カラー放送)へのレギュラー出演だった。

 『レ・ガールズ』というのは、由美を含む“西野バレエ団5人娘(番組スタート時は4人娘)”の歌とダンスをフィーチャーして67年8月4日にスタートした“ミュージカル・バラエティ”(当時の業界誌での番組紹介文より)。

 5人娘に加え、当時の人気歌手、人気GSも多数ゲストとして登場する、華やかな構成の音楽番組だったようだ。

 スタート当初のレギュラー・バンドだったのは「君に会いたい」で67年6月にレコード・デビューしたばかりのジャガーズ。エンジェルスは彼らと入れ替わりという形で、11月から新たに番組にレギュラー参加することになったのである。

 こうして堀内たちは、そのバンド・サウンドで以降の『レ・ガールズ』を盛り上げることに一役買うことになった。

 由美の歌のバックだけではなく、5人娘全員そろってのダンス・シーンや、また、奈美悦子ら、ほかの5人娘各自の歌唱シーンでも演奏を務めることがしばしばあり、これはテレビ以外のライヴ・ステージでも同様だったようだ。もちろん由美のバックがメインではあったようだが、100%彼女個人の専属、というわけでもなかったようである。

 由美との共演では地方公演にもついて回った。当時、由美は3枚目のシングル「いたずらっぽい目」(67年8月発売)がヒットしたことで歌手活動に力を入れていたこともあり、68年1月からは全国縦断でのリサイタルを企画し、テレビ出演の合間を縫い、週末メインで地方公演を行っていたのである。

 このリサイタルは全体で二時間ほどの二部構成からなっており、一部は由美のヒット曲中心、エンジェルスの出番は二部にあたる部分だった。堀内や鳥羽の話では京都公演などが特に記憶に残っているようだが、これは当時の週刊誌の記事を信じる限り、68年4月頃のことだったようだ。

 一方でエンジェルスは当時のGSのメインの仕事場であったジャズ喫茶では、なぜかそれほど演奏する機会がなかったという。事務所的にあまりジャズ喫茶との繋がりがなかったのか、あるいはテレビ出演と地方公演に追われ、仕事が入る隙がなかったのだろうか。事情はよくわからない。

 そんな中で、何回かの出演が当時のスケジュール表から確認できるのが、歌舞伎町1丁目にあった《新宿ラ・セーヌ》というジャズ喫茶だ。

 たとえば68年3月3日の夜の部には〈由美かおる、ジ・エンゼルス〉の名があって、これはステージ写真も現存している(共演=トランプス)。

 また、鳥羽によればラ・セーヌではシャープ・ホークス+シャープ・ファイヴとの共演が想い出深いという。業界では先輩にあたる彼らが、緊張していた新人のエンジェルスに対しても快く親切に対応してくれたことを、よく憶えているのだそうだ。

新宿ラ・セーヌ1968年3月のスケジュール。”ジ・エンゼルス”の名が確認できる。
〔POPTRAKS ARCHIVESより〕

 こうした由美らの各公演の合間や、テレビ『レ・ガールズ』への出演時には、エンジェルスが単独で演奏することもあった。その場合は主に当時の洋楽ナンバー(メンバーそれぞれが選曲を持ち寄っていたようだ)を披露していたそうで、鳥羽の記憶ではそれらは堀内か、あるいはベースの高橋一彦がヴォーカルをとることが多かったとのことである。

 大別すると、激しいロック系のナンバーなら主に高橋、ソフトでメロディアスなものは堀内、というような傾向があったようだが、一方でマッコイズ(リック・デリンジャーがいた)の「フィーバー」、ロス・ブラボーズの「ブラック・イズ・ブラック」などのロック寄りのナンバーを堀内が歌う、ということもあったようだ。

 堀内の話では、たとえばトレメローズの「サイレンス・イズ・ゴールデン」や、タートルズの「ハッピー・トゥゲザー」、アソシエイションの「かなわぬ恋(ネヴァー・マイ・ラヴ)」が当時の彼にとって印象深いカヴァー曲の一例であり、そこにあったコーラスの響きに惹かれるところがあった――、らしい。

 アソシエイションの「かなわぬ恋」については、奇しくも同じ頃、のちに堀内の盟友となる日高富明も好んでいた、という曲だ。

 そういえば、のちにガロとは深い縁をもつことになる、かまやつひろしも、そのガロとの出会いについて語った際に、彼らのコーラスに<ぼくの好きなタイプ、ビーチ・ボーイズやアソシエーション(原文ママ)>のようなサウンドを感じたのだと、引き合いに出していたことがあった(『季刊ポッポ ‘73年夏号・ガロの世界』)。

 もっとも、堀内や日高自身がアソシエイションというグループ自体に特別の興味を示していたかどうかはわからないが、かまやつをしてそう感じさせるエッセンスがもし、ガロのハーモニーの中にも見つけられたということなのであれば、それはこの時代、堀内や日高の中に自然と刷り込まれたものだったのだろう。

 また「ハッピー・トゥゲザー」の愁いを帯びたメロディは、堀内曰く、後年の自身の楽曲作りにインスピレーションを与えたこともある、のだともいう。

 コーラスへの関心、そして、好んだというメロディたち。のちの堀内の音楽を考えるうえでは、大きなヒントとなるものだ。堀内にとって、なんらかの“芽生え”が、このあたりの時期にあった、と言えるのかもしれない。

 ただし、当時のエンジェルスは専任のヴォーカル担当がおらず、全員インスト・バンド上がりのメンバーだったということもあってか、歌に関してはまだ、かなり不慣れな部分があったようだ。堀内としても、当時はあくまでリード・ギター、という意識が強かったらしい。おそらくはコーラスについても、まだ積極的にチャレンジしていたというわけではなかった、ということだったのかもしれない。

 このほかにエンジェルスがレパートリーとしていた洋楽曲としては、スペンサー・デイヴィス・グループ「キープ・オン・ランニング」、ボビー・ヘブ「サニー」、グラス・ルーツ「今日を生きよう」、ビートルズ「浮気娘」、ローリング・ストーンズ「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」があったことを、堀内が自身のブログで触れていたことがある(いずれも2012年の堀内のブログにて)。

 また、バンド活動でレパートリーにしていたわけではなかったようだが、当時のお気に入りの曲のひとつとして、ラヴィン・スプーンフルの「サマー・イン・ザ・シティー」があったと、筆者との会話のなかで語ってくれたこともあった。

 当時のエンジェルスの使用機材は大体以下のようなものだったという。各メンバーが欲しい楽器を選んで希望し、事務所が購入したものだったが、貸与という形で提供されていたものだった(実際、事務所を辞する際に返却したという)。

 貸与品とはいえ、当時の金額でおよそ総額250万(『近代映画』誌の記事から)とも言われ、相当贅沢なものだったようである。

■エレキ・ギター:Gretsch 6122 Country Gentleman×2
■ギター・アンプ:Fender Twin Reverb、Showman SP×2
■エレキ・ベース:Gibson EB-2 Sunburst
■ベース・アンプ:Fender Bassman
■ドラム・セット:Ludwig Pink Champagne Sparkle(シンバルはZildjian)
■キーボード:Yamaha Electone A-3
(データ提供:鳥羽清)

 ちなみに67年当時のGSといえば、すでにスパイダースやジャガーズのミリタリー・ルックや、タイガースの中世風ルックのように、揃いの個性的なユニフォームを着るのが通例となって来ていたが、結成当初のエンジェルスはというと、大きな襞襟のついた、まるでいにしえの南蛮装束(“エンジェル”の名のイメージから、だろうか?)を思わせる、なんとも派手な、インパクトあるユニフォームを身にまとっていた。

 だがこれはほんの一時期だけだったようで、その後は180度転じてカチッとした、上品というか、GSとしては地味なスーツ・スタイルに落ち着いている。本分はバック・バンドゆえに、主張の強い恰好は避けた、ということだったのだろうか。髪型も清潔感を意識したのか、やや短髪のメンバーが多かった。

 この頃、折からのGSブームに乗って芸能誌でよく組まれていた新人バンドの特集ではエンジェルスもしばしばグラビアに登場しており、そこではそんな折り目正しい装いで、グレッチのギターを抱える堀内の姿を見ることができる。
 
 グラビアでは事務所代表である西野晧三自身も、エンジェルスと共に撮影に参加することがあった。やはり事務所としても、初となる所属バンドに期待し、話題作りにも力を入れていたのだろうか。そういえばある誌面では、西野のこんな言葉が添えられていたこともある。曰く、<ブルコメ・スタイルの品のいいバンドに育てたい>――。

 この西野を交えたエンジェルスの貴重な写真の一葉は、後年、近代映画社からGSブーム回顧の流れで発売された大判写真集『GS STORY 栄光のグループ・サウンズ物語』(1989年9月刊)でも1ページ丸ごと使って掲載されたことがある。

 ジャングル・ジムでポーズをとり、中央最上段の西野を囲むエンジェルス。当時40代の西野だが、長身で颯爽としたルックスはメンバーと混じってもあまり違和感がないのはちょっと驚きだ。さすが出自はバレエ教師、ということだろうか。傍でジャングル・ジムの鉄パイプを掴む、堀内の笑顔も屈託なく、初々しい。

幻となったレコード・デビュー

 ところで、ちょっとした疑問がひとつ。当時、テレビ『レ・ガールズ』では“マー坊”というマスコット人形が登場する「コント・デ・マー坊」というコーナーがあった。この“マー坊”が堀内をモデルにしたもの、という噂があるのだが・・・。現時点では、それについての確認ができていない。番組、あるいは事務所としては、堀内を一種“アイドル”的に推し出そう、という意図もあったのだろうか?そのあたりの真偽は不明だが、ただいずれにしても、鳥羽の記憶でも、エンジェルスの中で周囲から中心的な存在と目されていたのが堀内であったのは、間違いなく事実であったようである。

 それを裏付けるエピソードを、堀内自身が2011年のブログの中で綴っていたことがあった。前述のマッコイズの「フィーバー」を由美の京都公演で歌った際の話だ。その日、堀内はマネージャーから突然、こんな旨の指示を受けたのだという。

 “今日はギターを外し、マイク一本で跪き、手を差し伸べて歌え”――。

 当時のタイガースやテンプターズばりの演出を要望されたこともあったのである。西野が語っていた“ブルコメ・スタイル”とは少々異なる路線のようにも思えるが、事務所としてもエンジェルスに対し、様々な可能性を探っていた――、ということだったのかもしれない。

 こうしたエピソードからも察せられるかもしれないが、じつはエンジェルスにはバック・バンドの仕事だけでなく、単独で売り出されるプランというのもあった。

 彼らにはこの頃「白夜のカリーナ」という持ち歌がすでに与えられており、この曲で1968年の前半にフィリップス・レコードよりデビューする、という話が持ち上がったこともあったのである。

 「白夜のカリーナ」はテレビ『レ・ガールズ』で構成作家を務めていた阿久悠(作詞)、番組の音楽担当のひとりだった小杉仁三(作曲)というコンビが書きおろしたもので、同番組の 67 年 12 月度の“今月の歌”として、エンジェルスによって歌われていた曲だ。

 のちに歌謡界の巨人、ビッグネームと呼ばれる阿久だが、これは作詞の仕事を本格的にスタートさせてから、まだ日も浅い頃の作品だった。

 またエンジェルスにはもう一曲、B面用として「キッス」という曲も用意されており、作詞・作曲者は不明ながら、こちらも『レ・ガールズ』68年1月5日の放送でエンジェルスによって歌われたという記録が、当時の資料から確認できる。どちらの曲も時期的に見て、レコード・デビューを念頭に置いての番組内でのプッシュだったのではないだろうか。

 当時、フィリップスはすでにスパイダース、テンプターズ、ジャガーズ、カーナビーツ、サベージなど、多くの人気GSを擁していたレコード会社である。後年、“GSの宝庫”とささやかれたこともあったほど、当時はGSのイメージも強いレーベルだった。この時そのままデビューとなっていれば、エンジェルスも、ひょっとしたらこうしたGSと並び、華やかにキャンペーンなどに登場していたのかもしれない。

 ところが、この「白夜のカリーナ」「キッス」は発売には至らなかった。どういうわけか立ち消えとなってしまったのである。68 年初頭の芸能誌では“まもなくレコーディング”、“近く発売”とのアナウンスまでがされていたのだが・・・。

 実際どこまで作業が進んでいたのか、どんな問題があったのか。堀内も鳥羽も、この件についてはどうも、記憶が薄いのだという。なにしろふたりとも、長いことこの曲のタイトルさえ失念してしまっていた、というほどなのだから・・・。いまとなってはともかく、エンジェルスのレコード・デビューは幻と終わった、ということだけが、はっきりしている事実だ。
 
 後日談として――、「白夜のカリーナ」という曲は、なぜかだいぶあとになって〈バロネッツ〉という GS にあらためて提供されることになり、彼らの演奏で 69 年 5 月にレコード化されることとなった(CBSソニー、SONA-86035のB面曲として)。

 なぜそういう話になったのか経緯は不明だが、このバロネッツのヴァージョンは69年当時、日本テレビで放送されていたコメディ・ドラマ『笑ってよいしょ』の挿入歌という扱いであり、またバロネッツ自体も、前後には同局のバラエティ番組に短期間レギュラーで出ていた経験のあるバンドだった。

 かつての『レ・ガールズ』が同じく日本テレビで放送されていたということを考えれば、ひょっとすると、そのあたりのテレビ局絡みからバロネッツにお鉢が回された、ということだったのかもしれない。

 バロネッツ盤では当時、小杉仁三がクラウン・レコード専属だった事情から、彼が他社で仕事をする際に用いていたというペンネーム“ありたあきら”が作曲者としてクレジットされている(編曲は高見弘)。

 これを聴く限りでは、破綻なく型に収まった感のある、マイナー調の、いわゆるGS歌謡だが――。もしもエンジェルスがこの曲で世に出ていたなら、果たして、どのような展開となっていたのだろうか。

 ほかにもエンジェルスには「涙のエンジェル」※という曲も用意されていた、という噂も一部で聞かれるが、その真偽や作者などの詳細は、いまのところ不明だ。

 また、由美かおるは68年2月リリースの「だけど好きなの b/w 星空のシェドン」(クラウン、CW-793)など、時代を反映したエレキ~GS色のある楽曲をこの頃いくつかレコード作品として残しているが、残念ながら堀内・鳥羽の記憶では、これらの由美のレコーディングにエンジェルスは“まったく参加していない”、とのことである。

〔※偶然かもしれないが、ジャイアンツというGSが同時期(68年4月)に発表したシングルのB面曲にも「涙のエンゼル」という作品がある。〕

映画出演で残したサイケデリック・サウンド

 こんな経緯でレコード上に足跡を残すことはなかったエンジェルスではあったが、しかしその映像と音については、じつは意外な形でしっかり現存している。

 エンジェルスは68年3月16日に公開された西野バレエ団5人娘の主演映画『ミニミニ突撃隊』(制作:松竹=西野バレエ団、監督:梅津明治郎。カラー作品)にほんのわずかながら出演しており、劇中のゴーゴー喫茶での演奏シーンでは、サイケデリックなインストゥルメンタルを披露しているのである(オープニングでの出演者クレジットは“ジ・エンゼルズ”)。

 残念ながら、映画そのものは未だソフト化が実現していない(名画座での上映などは時折ある)が、有り難い事にエンジェルスのインスト曲の方は2000年8月にリリースされた日本映画の未発表サウンドトラック集CD『GO! CINEMANIA REEL 6: the new tastement of G.S. source』(ポリスター、PSCR-5891)に3分14秒のフルサイズの音源(映画に使用する前のセリフの被らない素材音源)が発掘・収録されており、現在では手軽に聴く事が可能となっている。

 このエンジェルスのインスト曲は、一言でいえば、ジミ・ヘンドリックスの「紫のけむり」のリフをモチーフに、即興でラフにセッションした・・・、とでもいうような雰囲気のもの。しかし、中盤から繰り出されるエフェクトを凝らしたトリッキーなギター、コンボ・オルガンが織りなすガレージ・サイケな音像には60年代後半ならではの熱量があり、ガロ前史という文脈を抜きにしても、一聴の価値があるものだ。

 幻の「白夜のカリーナ」から想起されるイメージとは異なる、当時のエンジェルスの別な姿がここからは見えてくるはずだ。

 また、ジミに関しては「もっとも影響を受けたギタリストの一人」と堀内はのちに語っており、当時の彼個人の嗜好の一端を知る上でも、貴重な記録と言えるかもしれない。ただし、この音源でいくつか聴こえるギターの内のどれが堀内によるプレイなのかは、映像の方を見てもどうも判然としない。

 このインストにはもともとタイトルはなかったが、CD収録にあたって、監修側によって「Purple Haze?」という便宜的なタイトルがつけられている。

 鳥羽の記憶によれば、この『ミニミニ突撃隊』のエンジェルスの出演場面(若き日の藤岡弘や石立鉄男も脇役として登場している)は実際のゴーゴー喫茶でのロケではなく、松竹大船撮影所にセットを組んで撮影したものだという。音の方も、一発録りで同撮影所内でレコーディングされたようだ。

 映像はカウントを叫ぶ信見から、堀内・高橋一彦・杉浦・鳥羽の順でアップが切り替わり、メンバーの顔が確認できる。

 とはいえ、それぞれほんの数秒ずつで、特に堀内については横顔が一瞬、映るのみ。バンド全体の姿が映る場面もあるが、それも数秒、遠景でぼやけて見える程度であり、もしもエンジェルス目当てで鑑賞するのなら、過度の期待は禁物である。

“自分たちの音楽”を目指して

 そんな具合に、メディア露出も少なくなく、端から見れば悪い待遇ではなかったかもしれない、エンジェルスでの活動の日々。だが、堀内や鳥羽の心の内には、次第に複雑な気持ちが生まれてしまっていた、という。

 その成り立ちゆえ、エンジェルスのバンド運営は事務所側の意向ありき、というものだったが、その一方で、堀内や鳥羽のなかには、それとは異なる、自らが表現したい音楽への欲求もあったからだ。エンジェルスとして望まれていた方向性との間に、ズレがあったのである。

 エンジェルスでの活動当時、堀内と鳥羽はふたりでよく堀内の自宅に集まり、ラジオから流れるFEN(=Far East Network。在日米軍向け放送局。現・AFN)の放送などを聴いては、洋楽曲をコピーし、あるいは「自分たちが目指すところはなにかな?」と話し合っていたのだという。

 鳥羽は、そんな日々のなかの一番の記憶として、FENから聴こえてきた“誰の曲かわからない、最新の洋楽曲”に、ふたり揃って衝撃を受けたことを、いまも思い出すという。

 のちにわかったというその曲名は、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」。――ビートルズのセンセーショナルなアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(67年6月発表/日本発売は同年7月)のラストを飾る、あの曲である。堀内自身、ガロ時代にも“ビートルズで一番好きな曲”、と明言している曲だ。

 もちろん、その日耳にした「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」がこの当時の堀内や鳥羽にとって、なにか直接の“衝動”となったのか、それはわからない。だが、日に日に変革されて行く海外のシーンを肌で感じ、刺激される想いがあったのは事実だったのではないだろうか。

 結果として、68年の春頃と思われるが(少なくとも前述の京都公演以降)、ふたりは“自分たちのやりたい音楽”を念頭に置いた新バンドの結成を目指し、揃ってエンジェルスから脱退することになる。発足からは一年、都市センターホールのデビュー・ステージからはわずか半年ほどであり、意外に短い在籍期間だったようだ。

 事務所側の立場からすれば、堀内たちのこの行動がどう映るものだったか、難しいところかもしれない。しかし、あの時代の洋楽の発していた強烈な“熱”が、ふたりをエンジェルスに押しとどめさせなかった――、おそらくは、そういうことだったのだろうと思う。

 堀内と鳥羽の脱退後、エンジェルスはまもなくドラムの信見がひとり残り、再編※された。新たなメンバーとなり、しばらくは由美のバック・バンドとしての活動を続けていたようだが、最終的な解散についてははっきりしていない。

〔※オリジナル原稿では堀内らの脱退後<間もなく解散に至ったと思われる>としたが、エンジェルスの活動自体はその後も続いたことが判った。今回はそれに合わせ訂正している。〕

 サイド・ギターの杉浦や、その顔立ちからか“酋長”のニックネームで周囲に親しまれていたというベースの高橋一彦も、堀内らと同時期にエンジェルスを離れたようだが、こちらもその詳しい経緯は不明だ。

 高橋一彦はその後68年5月30日、弘田三枝子のサンケイ・ホールにおけるステージで、当日のバックを務めたR&Bバンド〈モージョ〉※のゲスト・プレイヤーという形で演奏に参加(ジャケットには西野バレエ団の高橋とのみ記載)。この日の模様はライヴ・アルバム『ミコR&Bを歌う』(日本コロムビア、68.9.1/JPS-5155)としてレコード発売もされ、現在ではCDなどで聴くこともできる。

〔※当時のリーダーはジャズ・ピアニストの本田竹彦(竹曠)〕

 さらにそれ以降の消息※については断言できるだけの証言は得られていないものの、おそらくは70年代半ば、矢野顕子が在籍した〈ザリバ〉の初期(レコード・デビュー前)の中心メンバーとして米軍キャンプなどで活動し、その後も前野曜子を擁する〈リッキー&960ポンド〉、そして〈ペドロ&カプリシャス〉と実力派バンドを渡り歩いたベーシストの高橋一彦が、それぞれのバンド写真から確認できる顔立ちや、やはりニックネームが“酋長”であることからしても、同一人物ではないか、と筆者は推測している。

 エンジェルス時代の高橋は、堀内によれば音楽に対してとても真摯な、厳しい視点を持った人物、という印象だったという。

 矢野顕子も〈ザリバ〉時代の“酋長”については、幾たびか自身のインタビューの中で名前を出して想い出を語っており、<すごくいいベーシストでしたけど(中略)でもザリバとしてトリオ・レコードからデビューした時に彼はやめちゃったのね>(『宝島』1991年11月24日号)といったように、その腕を称えるニュアンスで振り返っている。

 ――ともあれ、“エンジェルス”という名の下から、こうしてメンバーたちは、それぞれに次の活動へと“羽ばたいて”いったのである。

〔※70年代以降の高橋一彦氏の経歴について、近しいと思われる当時のバンド関係者の方何人かにもお話を伺いましたが、確実な証言が得られませんでした。もし、誤りがあるなどの情報がございましたら、ぜひ、ご指摘いただければと思います〕

※以下第4回へ続く→第4回を見る

(文中敬称略)

Special Thanks To:大野真澄、木下孝、鳥羽清、堀内護(氏名五十音順)、Sony Music Labels Inc. Legacy Plus

主要参考文献:※最終回文末に記載。

主要参考ウェブサイト:
『VOCAL BOOTH(大野真澄公式サイト)』
『MARKWORLD-blog (堀内護公式ブログ2009年~2014年更新分)』など

(オリジナル・ヴァージョン初出誌情報:『VANDA Vol.27』2001年6月発行。2023年全面改稿)

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