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偽善と傍観を超えて、本質を見る

わたしが通っていた小学校には特別支援学級があった。そのクラスには1年生から6年生までの、心臓が弱かったり、手足が不自由だったり、同じことを繰り返し話す生徒など6名が在籍していた。

昼休みになると、いわゆる通常学級の生徒がそのクラスへ遊びに行っていた。記憶が怪しいが、強制されていたわけではなく、行きたい人が自分の意思で行っていたのだと思う。

一緒にトランポリンをしたり、ナントカごっこをしたり、歌を歌ったりしていたが、なかなかうまく遊べなくて困惑したこともあった。急に怒り出されたり、たたかれたりしながらも、なんとかコミュニケーションをとって楽しんでいたように思う。

しかし、高学年になって、わたしは自分の心の微妙な変化に気がついた。ちっとも楽しくない。面白くない。それよりも、自分が彼らを手伝ってあげている、助けてあげている、「やってあげている」という優越感。先生や親など周囲の大人に対して、こんなに助けてあげてるわたしって偉いでしょ、とアピールする気持ち。わたしの中には、いつの間にかそんな感情が巣くっていた。

ちょうどその頃、何かの本で偽善者という言葉を知ったわたしは、まさしく自分は「偽善者」だと子どもながらに愕然とした。優しいふりをしているだけで、本当は全然優しくない。楽しんでいるふりをしているだけで、実際はまったく楽しくなんかない。いい子のふりをして、いい子である自分を周囲にほめてもらいたいだけだった。

その後、わたしは徐々にそのクラスに行かなくなった。偽善者である自分が行くべきではない。わたしは冷たい人間だ。人を心から想うことができない人間がやることは、ただの自己満足だ。わたしはこの場にふさわしくない人間だ。

自己批判の言葉を並べ、反省したふりをしてその場から離れた。そうやって悲劇のヒロインを装って、そして、傍観者になった。

わたしはただ逃げ出しただけだった。そして、逃げたことすら記憶のなかで美化していた。でも、今は思う。わたしは逃げ出すべきではなかった。そこにとどまって自分に向き合い、物事の本質を知る努力をすべきだった。

そうすれば、特別支援学級の彼らが、ただ支援してもらうだけの人じゃないことに気づけていたかもしれない。たとえ彼らがわたしができることはできなくても、歌がすごく上手だったり、集中力がものすごかったり、好きなことなら一瞬で覚えてしまったりする、さまざまなキラキラしたものを持っていることに気づけたかもしれない。「ありがとう」の言葉に優しさが詰まっていたことに気づけていたかもしれない。

今、日本語教育の現場で働いているときも、ときどきこのことを思い出す。現場には、国籍、年齢、宗教、ジェンダー、職業、習慣、価値観、本当にさまざまな学習者がいる。わたしのできることや知っていること、当たり前だと思うことで物事をはかっていては、その人たちの本質、世界は見えてこない。わたしはわたしの壁を越えなければならない。

超えてこそ見える世界に言葉を載せることがわたしの仕事なのだから。



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