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2023年によく読まれたnote記事と, それに対するコメントで振り返る2023年.



1. 『満足のいく文章を書くためには
』

良い文章を書くことは、僕にとって、今年も至上の命題だった。けれど、例年とは違ったのは、「どうしたら良い文章を書けるか」ばかりではなくて、「どうしたら良い生活を送れるか」にも想像を及ばせてみたことだった。

2022年までは「書くこと」のために、さまざまなことを犠牲にしてきた。結果的に、犠牲にしていることが多かった。「良い文章を書くこと」だけを志向していたから。

じゃあ、自分はどんなときに「良い文章を書くこと」ができるんだろう?

明確な答えを導きだすことはできなくても、傾向みたいなものをつかむことはできるんじゃないかと思ったわけです。で、自分なりに分析を重ねてみると、「良い生活を送れている」ときに書けることが多い、ってことに気づいた。

2023年の後半くらいからはとくに「良い生活を送ること」に気をつけた。「良い生活を送ること」のために、「書くこと」を自制することも時にはあった。


2. 『「長編小説」を書くとはどういうことだろう?(10年間かけてとりあえずわかったこと)』

今年(2023年)は短編小説を1つ書いた(未発表)。書き途中の長編小説が2つある。中編戯曲を1つ(『太陽と鉄と毛抜』)、短編小説を4つ『「またまた」やって生まれる「たまたま」』のために書き下ろした。

こうやって挙げてみると、まぁまぁいろいろ書いたんだな……と思う。とくに戯曲に関して言えば、「書かせてもらった」のだなぁ……と思う。戯曲は、基本的には依頼がないと書くことのできないものだから……僕なんかの書くものを少しでも「良い」と思って、依頼してくださる方に感謝しています。これからも依頼には応答していくつもりですから、
なにかあればご連絡ください。

戯曲、小説、詩、エッセーを書くことができます。批評はやりませんが、「感想」を書くことならできます。

生成AIの登場は、作家をはじめ、多くのクリエーターにとってショッキングな出来事であったはずです。これから文章が無限に生成される時代に突入していくことになるでしょう。

では、人間の作家ができることとは何か?……それは、書き手が心の底から誰かのことを想って書くこと。

読みやすさよりも素直さ——愚直なまでの素直さ——が歓迎されるかどうかはわかりませんけれど、AIと人間の決定的な差にはなるでしょう。


3. 『AI時代に増す日記の重要性
』

「生成AI」が流行語になっていた。今や多くの画像や文章が「生成AI」によって一瞬で作成できてしまう。

「まだクオリティが不十分だから……人間の手で創作しています」

と、仰言る方も多いとは思う。けれども、それはAIを使う側の人間——AIに対して指示(プロンプト)を出す人間——の技術不足と言い換えられてしまうかもしれない。

このように「生成AI」はある種の人間の役割を代替し、確実に職業を奪取していくだろう。この世界からは単純労働者は消えて、マネージャー職だけがかろうじて生き残るだろう。というのが僕の予想だ。そのような未来予測性向で、来年もリスキリングを進めてみよう。

もちろん、(みずからの手で)文章をかくことも、これまで通り続けていく。

まだクオリティが不十分だから……文章作成にAIを導入しないわけではない。「文章を書く」という行為が自分の思考整理になっており、リラクゼーションの一部になっているから。僕はもうしばらく自分の手で文章を書き続けるだろう。


4. 『傷つけられた自分は、誰かのことを傷つけていたかもしれない』


自分にとって、ほんとうに大切なことは、誰かと一緒に考えるのではなくて、自分ひとりで考えて答えを出すべきだ。

と、僕は思う。

自分ひとりで下した決断に対して、「どうしてそのような決断に至ったのか?」と訊かれたときには、ロジックで理由を説明できるようにしておくとなお良い。直感はあまり歓迎されなければ敬われもしない(かわりにうとまれる)。なにより人を納得させるのはエビデンスである。

ひとりで考え抜いて、ひとりで決めることはしんどい。だから、人は、誰かと一緒に考えることに逃げてしまう。確かに、他人の意見を聞くことはとても大切なことだ。けれども、他人の意見を取捨選択するのは自分自身でなければ、僕は僕の人生を生きていないことになるだろう。

ひとりで考えるのはしんどい。

何がしんどいのかというと、

  1. 思考がどうどうめぐりを起こすこと。

  2. 解決させたはずの問題について、気づけば、再び悩み始めていること

……そうした虚ろなループから解脱するには、思考を整理して書き留めておくことが特効薬だと思う。


バーのマスターのすごいところとは、ずばり客の様子を察して、その日客が飲むことになる酒を、客のかわりに決めてくれるところだと僕は思います。

マスターから紹介してもらった酒が、その日の気分にしっくり来たり、あるいは自分のなかに潜在していた新しい扉を開け放たってくれたときには、僕は「バーのマスターの技術」というものをやはり感じます。


5. 『バーのマスターの役割と技術』

1日は24時間しかない。僕は7時間半眠るから差し引いて16.5時間しか活動できない。

すべての意思決定を自分で下そうとすると、「やれること」が限定されてしまう。時間を浪費して「やりたいこと」につぎこめる時間が少なくなってしまうのはとても悲しい。一番楽しい局面でだけ、自分で意志決定する。そうなるように人生・生活をプランニングするのが重要だと思う。

8月17日に『会話が下手な自分が,でも,下手なりに会話をしたい,とは思っていて,会話が下手な自分が会話をするための方法——それが「聞くこと」.』という記事を書いた。


僕は、今年多くの人たちとのふれあいを通じて、「聞くこと」の重要性を学び取った。しかもそれを効果的に行うにはどうしたらいいか?——つまり、「もっと聞く」ためにはどうしたらいいか——を考えて実践し始めた。言うなれば、「聞くこと」の応用編って感じだろうか。この件は年が明けてから、『「またまた」やって生まれる「たまたま」』の特集noteを書く際に深く取り上げよう。

自分の人生だから、全部を自分で決めないといけないというわけでもない。「決めなくては気が済まない」と言う人もいるだろう。事実、僕はそうだった。

だけれども、信頼できる相手に、自分のかわりに意志決定をしてもらう能力=タイムマネジメントの能力が30歳代を迎えるにあたって重要になってくるだろうと予感している。そんな気がしている。

自分が意志決定をするのは自分にとって一番大切なところ、一番楽しい局面だけでいい。

「バーのマスターのような友人が欲しい」のではなくて「友人をバーのマスターのようにしていく」のである。

それは友人を手段として活用するということではない。全幅の信頼を寄せることのできる友人には全幅の信頼を寄せるべきだ、ということだ。多くの人が投資のことを投資アドバイザーに相談するように。ペット(コンパニオンアニマル)の具合を獣医に相談するように。その分野に精通したプロフェッショナルに対して助言を求める。

では、僕(という分野)のことをよく知ってくれているプロフェッショナルとは、誰かというと、僕の友人であり、恋人であり、家族であり……ということになるのだろう。そんなかれらの意見・提案をもっと積極的に自分の人生にインストールしていきたいと考える。そうしたほうが人生全体を通してのクリエイティビティが高まる。

作品のクリエイティビティだけを高めるのではなくて、人としてのクリエイティビティを高めていくことが、今後(AI社会)ではいっそう重要視されることになるのではないか。

バーのマスターのすごいところとは、ずばり客の様子を察して、その日客が飲むことになる酒を、客のかわりに決めてくれるところだと僕は思います。

マスターから紹介してもらった酒が、その日の気分にしっくり来たり、あるいは自分のなかに潜在していた新しい扉を開け放たってくれたときには、僕は「バーのマスターの技術」というものをやはり感じます。

『バーのマスターの役割と技術』(2023年11月29日)

けれども、勧めてもらったお酒を全部飲んでいては酔っぱらってしまいます。だから取捨選択をしないといけない。

【フィードバックのガイドライン】

◯フィードバックを与える
① 相手を助けようという気持ちで
② 相手の行動変化を促すように

◯フィードバックを受ける
③ 感謝する
④ 受け取ったフィードバックを取捨選択する

『率直なフィードバック #太陽と鉄と毛抜 #演劇note 』(2023年6月28日)

僕はこれからも【フィードバックのガイドライン】を自身に課し、順守することによって他者からのフィードバックを得やすい状況を構築していきたい。人生全体を通してのクリエイティビティを高めていくために。


6. 『「社会」は手段であって目的ではない.「芸術」は目的であり、手段ではない.しかし,「社会」を目的であると捉え(違え)るために,「芸術」について語ることを忌避するのだろう.』

自分がどうしてそのような意志決定をするに至ったのか、「思考のログ」のようなものをのこしておくことが大切だと思う。日常の些細な出来事であったとしても。

例えば、どうしてそのようなスケジューリングを自分に課すことにしたのか、その理由を
、簡単でいいから、書き留めておくことが重要だと思う。

「下した決断に対して、「どうしてそのような決断に至ったのか?」と訊かれたときには、ロジックで理由を説明できるようにしておくとなお良い。直感はあまり歓迎されなければ敬われもしない(かわりにうとまれる)。なにより人を納得させるのはエビデンスである」と僕は書いている。

けれど、他人を納得させるためだけではなくて、自分自身のことも納得させるつもりでログをのこさないといけない(だいいち、「未来の自分」とは「現在の自分」から見れば他人であるように、「過去の自分」も「現在の自分」から見れば他人なのである)。

「社会」は手段であって目的ではない.「芸術」は目的であり、手段ではない.しかし,「社会」を目的であると捉え(違え)るために,「芸術」について語ることを忌避するのだろう.

このnoteを書いていた頃の僕は、「社会」と「芸術」の(自分なりの)理想的な相関関係について、このように考えていたのだということはわかるし、それが現在においてもだいたい変わらないということを確認できる。

ただ、過去(8月20日時点)の自分が「芸術」と定義するものを、現在の僕は創造しようとしているか? と訊けば、「少し異なる」ような気がしている。

では、具体的に、何が異なるのか。そういうことを考えて、分析し、前に進むためのアセットとするために、「思考のログ」はひじょうに有用だ。


7. 『いも焼酎を愛する理由』

「思考のログ」をのこすという意味でも、自分の好きなもの(買ったもの・食べたもの・愛用しているもの)をnoteに書くのは良いことだと思う。

「創作すること」も好きだけれど、同じくらいに「創作されたものに対して感想を述べること」も好きなのだということに気づけたのは、《インキュベーション キョウト 人材育成プログラム》に参加させてもらったから。

「創作されたものに対して感想を述べる」ための場(プラットフォーム)としてnoteをつかうことはできないだろうか。

もし、できたとして、投稿を続けていったら、僕のnoteは僕の好きなもので充溢するデジタルな私設美術館みたいになるんじゃないか、と考えた。もしそうなったとしたら、それはとても素敵なことだ。

プレゼントとして頂いたものも、できるだけnoteで取り上げていきたい。口頭でのお礼(ありがとうございます)に加えるようにして感謝の気持ちを伝えることができたらいいな。


8. 『【短編小説】 ムード』

今年もたくさんの短い小説を書いてnoteで発表していた。『ムード』はそのうちのひとつです。作者としては、「今年最もよく読まれ、スキされた記事」に『ムード』が挙げられることになるのかぁ……ちょっと意外ではあります(自己評価と他己評価はいつも乖離する。だから、自己評価ばかりで己を測らないように努めよう)。


9. 『老人との生活』


「今年もたくさんの短い小説を書いた」というより小説しか書くことができなかったのだ。少なくとも、そういう時期があった。波のようなものが周期的にやってくる。エッセーをやりたくなる時期、小説(フィクション)しか書けないようになる時期。

『老人との生活』を書いた頃は、たぶん小説しか書けない時期に入っていた。けれども、ここに書かれてある内容は、現実に自分が見聞きし、感じたことがモデルになっていて、書いてあることがあまりモデルに乖離しないことから、タイトルに【短編小説】と冠をつけないことにした。

ボク:コレモ d'après nature[写生]デスカ.
[G:]ソウ.コレハ mon frère[弟]ノ像ダ.顔ハ写実ダ.シカシ身体ノ部分ハ記憶ト想像ダ.

矢内原伊作『完本 ジャコメッティ手帖』2010年、みすず書房、p52

アルベルト・ジャコメッティが、このように述べるように、作品全体がフィクションかそうでないかを言いきることはひじょうに難しい。

たぶん、純文学——この言い表しかたが正しいかどうかはよくわからない——のような小説を書いたことがある(あるいは、書こうとしたことがある)人は深い同意を示してくださるはずだと期待します。


10. 『人生における新しい経験が、自分自身の成長やクリエイティビティにどのように影響を与えるか』

最後に紹介させていただくのは、『人生における新しい経験が、自分自身の成長やクリエイティビティにどのように影響を与えるか』という題の記事です。

この文章では、ほんとうは、ラフロイグってウイスキーを買って、自宅で飲み始めたので、ラフロイグの感想を書こうと思っていたのですけれど、どんどん脱線していってこのような「作品(エッセー)」になってしまったというわけです。

最終的には、愛についてを論じることになってしまって——どういう経緯でそんなことになってしまったのかは実際に記事を読んでご覧になってみてください。

もう5年近く前になりますか。複数人で旅行をした夜に、友人のうちのひとりが「愛について語らいたい」と唐突に言いだし、僕たちは、愛についてを夜な夜な論じあった。そんな素敵な夜の記憶があります。

「愛」は僕が作品をつくるうえで、つねに大切にしているテーマであると自覚しています。「恋愛」という比較的わかりやすいかもしれない愛のかたちだけじゃなくて、「親子愛」であったりとか、もっと規模が大きく、抽象的に響きかねない「人類愛」、「共同体への愛」……愛の種類や形式はさまざまだけれど、愛についてを、いつも書いたり、芝居にしたりしてきた(つもりではある)。

逆に、愛の要素が比較的薄い作品は振り返って観てみると、あんまり自己評価として肯定しがたい作品になっていることが多いかもしれない。

2022年。傑作と呼べるような舞台作品をつくって上演した。『斗起夫 -2031年、東京、都市についての物語-』は、愛の対極にある憎悪がテーマになっていた。

憎悪が愛を塗りつぶし、愛が憎悪を融解していく。

対極にあるもの(憎悪)を描くということは、愛の本質を描く(少なくとも、本質を描くことを迫るような)ことにつながる。

愛からちょっとだけ離れたところにある対象(モティーフ)を描くよりも、よっぽど愛を描けている。と僕はいつも考えている。

2023年。僕はさまざまな場所に出かけて、さまざまな人と出逢った。そうして、さまざまな「愛」と触れあった。

『「またまた」やって生まれる「たまたま」』は自分の作品群のなかで、最もストレートに愛を描けている。

と自負しています。ぜひ観に来てください。

もともとは、『斗起夫』を観てくださったお客様のなかに、
「宮澤はいつもこういうようなテイストの作品をつくるのかぁ……。そういう作家なんだなぁ……」
と誤解されている方がいるらしいので、そのことが僕の癪に障った。自分の作家としての幅の広さを提示してみせる。

と、奮うことによって立案された企画でもある。

今年7月に上演した『太陽と鉄と毛抜』に続き、僕の新境地である。


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