【短編小説】 ソファ
その邸宅の主人は自室にひとりの青年を招き入れた。青年は遠慮した。「ただ、僕は、お聞きしたいことがあってここを訪ねただけです」
聞きたいことがあるんですね、とその邸宅の主人は応えた。それなら、廊下で立ち話もなんだから部屋のなかでゆっくりと話しましょう。
青年は断りきれなかった。見たところ、この青年には自分の意志というものがないのだ。
と邸宅の主人は感じた。
困惑しながら、遠慮がちに主人の部屋に招かれた。甘い花のようなにおいが漂っていた。しかし花なんて、一輪も飾られていなかった。床には毛の長いカーペットが敷かれてある。そのとき、自分がスリッパを履いていないで裸足だったことに気づいて分を悪くした。
青年が分を悪くしていることに主人もすぐに気がついた。「そのことなら、気にする必要はありません」
青年は振り返って主人を見た。
「どうぞ座って」と主人は目で促す。座面が焼きたてのパンみたいに膨れ上がったソファにおずおずと腰掛ける。そのソファは見た目よりもずっと座り心地がよかった。
「夫がオランダで買ってきたものなの」
ああ、そうなんですか、と青年は言った。夫はなんの仕事をしているのですか? と青年は訊きたかった。しかし、「夫」という単語をほかのどの単語に置き換えれば失礼のないように、相手に対して自然に響くだろうかと考えた結果、しかるべき単語を即座に手繰り寄せることができなくて質問するのをあきらめた。
「ご主人」と言えばよかったのだろうか。しかし、目の前にいるその人のことを「邸宅の主人」として認識している以上、「主人」が重複して存在することに違和感があった。
「わたしの夫は貿易関連の仕事をしていて」と邸宅の主人は話し始めた。「今は買い付けなんかもインターネットでできてしまうけれど、若い頃はヨーロッパを転々と、旅するようにして商談をしていたの。わたしは、彼についていくこともあれば日本に留まることもあった。海外ってあまり好きじゃないの」
「どうしてですか?」
「においがね……ちょっと」
そう言って邸宅の主人はガラス製のタンブラーに赤い液体を注いで持ってきた。
「トマトジュースしかないの。上階の台所に行けば、ほかのものの出せるけれど」
「大丈夫です……トマトジュース……ありがとうございます」と青年はタンブラーを受けとった。そしてトマトジュースを一口飲んでみた。青年はトマトジュースがあまり得意ではなかった。だから少しだけ口をつけて、舐めるようにして飲んでみた。今までに飲んだどのトマトジュースよりも美味しかった。青年は驚いた。もう一口飲んでみた。やっぱり美味しかった。甘さと酸味のバランス、そして液体のとろみも抜群だった。まるで清廉な神の、血液を飲んでいるみたいだった。
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