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短歌五十音(え)江田浩司『メランコリック・エンブリオ 憂鬱なる胎児』

※このnoteは次の三部に分かれています。

  1. 江田浩司の第一歌集『メランコリック・エンブリオ』の紹介。

  2. タイトルの「憂鬱」から、憂鬱の近現代史を辿る。

  3. タイトルの「胎児」から、江田浩司の現在を辿る。

第一部が独立しており、第二部、第三部は補論です。気になる方のみお読みください。


江田浩司『メランコリック・エンブリオ 憂鬱なる胎児』(2022, 初版1996)

巻頭歌から見えてくるもの

たとえば海。たとえば空。翼。月。光。水。性愛。性器。思想。言葉。そして憂鬱。江田浩司『メランコリック・エンブリオ』にはこうしたモチーフが繰り返される。

憎しみの翼ひろげて打ち振れば少年の雨期しずかにめぐる

「冷たき楕円」

巻頭の歌。なぜ「翼」が出てくるのだろうか。解く鍵は歌集のタイトルにある。副題にあるとおり、メランコリック・エンブリオ(melancholic embryo)は憂鬱な胎児を指す。

メランコリーの語源は古代ギリシアの医学用語である。四種類の体液によって体調や性格が決まるとする四体液説において、人間は黒胆汁が増大すると憂鬱質メランコリアになると考えられていた。四体液説は九世紀に入ると占星術師によって惑星と結びつけられ、土星が憂鬱質の象徴となった。

ここからが重要である。知識人が霊感インスピレーションを求めて頭を悩ませることから、中世ヨーロッパでは知的行為と憂鬱質が結びつけられた。この憂鬱な知識人は、絵画において翼の生えた女性の姿で描かれることが多い。

たとえばデューラー(1471-1528)の《メランコリアⅠ》では、〈翼〉〈頬杖〉〈葉冠〉をはじめとして、〈幾何学形〉〈コンパス〉〈数表〉といった数学の諸要素までが知性の象徴として描かれている。知性的であるがゆえに憂鬱になる。ここで女性は思い悩んで霊感を待ち、知性による飛翔を求めているのだ。

wikipedia

憎しみの翼ひろげて打ち振れば少年の雨期しずかにめぐる

巻頭歌に戻ろう。「憎しみ」は憂鬱に近い感情だが、憂鬱と違って強い他害性がある。「翼」を「打ち振」る少年は空を飛ぼうとしておらず、翼で怒りを表現しているかのようだ。そして、「雨期」が歌全体をメランコリックに沈めている。

憂鬱の象徴であった翼を用いながら、主体は女性から「少年」に変わっている。「少年」は憎悪から暴力を振るうこともあるだろうし、「雨期しずかにめぐる」ように物思いに沈むこともあるだろう。現代では憎悪と憂鬱の象徴として「少年」ほど適したものはないように思える。

また、「雨期」に性的なニュアンスを読み取ることも可能かもしれない。「少年」とは空を翔ける翼を持ちながら、ときにその翼を誤った方向に用い、また濡らしてしまう存在である。このように読むと、この歌は普遍的な少年像を提示していることが分かる。

イメージの城

全六部、短歌九〇三首、俳句三三句を収録した長大な第一歌集を紹介するにあたり、巻頭歌にこだわるべきではなかったかもしれない。しかし、ここまでの文章から言葉のイメージを駆使する江田浩司の作歌法が見えてくるはずだ。

それは「憂鬱なる胎児」というタイトルにも共通する。あとがきによると「胎児」は自身の創作欲を示しているというが、巻頭歌を踏まえれば歌集そのものを憂鬱な私の子ども作品……ではなく、それ以前の胎児として位置づけようとする意図が明白である。この歌集を起点として、彼は胎児を産み、育て、翼を広げようとしているのだ。

父となすなにものもなし葬りの夜は明け思想咽喉のみどを通る
りんりんと淡雪の中影を曳く一群ひとむらの父海境うなさかを超ゆ

巻頭の連作から二首を引いた。主体は父の葬式を「父となすなにものもなし」という「思想」として受け止めている。しかし、この時点で作者は結婚して子を持っており、「父となすなにものもなし」には自身も含まれているだろう。父ではなく一人の子として葬送に立ち会ったということだ。

「うなさか」は『万葉集』や『古事記』に見える語で、人の国と海神の国との境界を指す。「りんりんと」が鈴の音を想起させ、鈴は魔除けの道具として寺社と深い関わりを持つ。「淡雪」のはかなさを経由し、亡き父は海神の世界に入っていったというのだが、「一群ひとむらの父」とはそこに他人の父をも見ているのか、自身の姿を重ねているのか。

このように入り組んだ歌ではなく、純粋にイメージとイメージの協奏曲を楽しめる歌も多くみられる。

おまえの笑顔に櫂を濡らして漕ぎゆかんしずかな朝がひらけるだろう
君も水われも水かなのなかに囲いてやればさんざめく乳房ちち
傷ついた抽斗(ひきだし)だけが美しい寝息を立てている昼下がり
春霖(しゅんりん)をあかず歩めば影以外すべて売りたる男に会はん
透明な肉片、おーい出てこいよ君と余白を嗅ぎたい
 ※春霖…春の長雨

第一部「溺死する月」
「さんざめく乳房ちち
「さまざまな耳」
第三部「氾濫」

全く脈絡がないわけではないが、「櫂」や「抽斗」が何を意味するのかということよりも、歌が生み出すイメージの総体に圧倒される。本来詩と呼ばれるものは一つの意味に解読されるものではなく、イメージとイメージが重なり合う空想の城ではなかったか。

リアリズムの手腕

江田の手腕はリアリズムの短歌においても発揮される。

君死にし夕べにひとり酒を飲みき豚足を炙りて喰らう
死にし友とかつて争いし女いて寿司を喰いおり骨あがるまで
顎の骨馬蹄のように焼きあがり長き箸もて壺に納めぬ
   〈三田線巣鴨駅にて中学教師S君自殺〉
君の死を知りしあしたに骨一本折れし傘さし学校へゆく

第一部「Sへのレクイレム」三首
第五部「かなしき魂」

〈食〉という卑俗な、命を貪るその行為が〈死〉と見事に対置されている。連作から抜粋した三首だが、このように続くと骨上げの「長き箸」に〈食〉のイメージが重なってくる。おそらく主体と「君」は親友で、よく会食していたのではないだろうか。

四首目は別の連作であり、「骨一本折れし傘」が主体の心情をうまく表現している。

このように優れたリアリズム短歌がすべて挽歌(死を悼む歌)なのは注目したい。巻末の年譜を見るとわかるが、彼は以後も繰り返し挽歌を制作している。


短歌しりとりの可能性

第六部は「神々の手淫」と題された一五三首の連作である。この連作は特異な構造を持っており、すべての句の末尾がつぎの句の先頭に引き継がれている。

脈細り世界の果てに巣を編める韻律はく罪のごとしも
罪のごと冷ややかにあれししむらは鏡の中に海を呼び出し
呼び出している寡黙なる怒りかな山羊のごとなる対話の果てに
対話から雨匂いくる夕まぐれ野に立ちし妻ひそかなるにえ
 ※ししむら……肉塊、肉体

一首目の脈拍のグラフを編んで「巣」とする表現は面白いが、ほかの歌はイメージがまとまりきっていないように思える。

しかし、この連作の価値は一首一首の内容にあるのではない。連作を素早く読むとき、同じ言葉が意味を変えながら次の歌に変奏される、その波のような連鎖が快感を生んでいるのだ。

ただし、江田浩司のしりとり短歌は一首一首の表現が入り組んでおり、この流れるような快感を味わいにくい。表現を平易にしたほうが魅力的なしりとり短歌が出来るのではないだろうか。同じ方法でつくられた様々な歌人の連作を読んでみたい。

評価

巻末には岡井隆、谷岡亜紀、藤原龍一郎、神山睦美の解説がある。師である岡井隆は江田浩司の本領を「意味偏重の歌」ではなく「蕪村流のロマネスク」、つまりは典雅な抒情性にあるとし、谷岡は多大な首数による世界観の提示を評価する。神山はフロイトを援用し、江田に母なる胎内を超えた永遠性への「胎児」の憧憬をみる。

筆者の読後感に最も近いのは藤原龍一郎の解説だった。

結局、この一巻は知性の自慰なのだと思った。自慰といっても否定的な意味ではない。表現欲求にあふれたインテリジェンスが、短歌という詩型にであって、これらの歌々が生み出された。他人のためではない。ただただ自分だけのために九百余首はほとばしったのである。

しかし、藤原ほど強くこの歌集を否定する気にはなれない。まず、挽歌までを「自分だけのため」の「自慰」とするのは受け入れられない。また、藤原は「どの作品をとっても、読者の脳裏に具体的な像などむすびはしない」と続けるが、これはどう考えても過言であろう。見たように巻頭の一首は重層的な喩が一つの像を結んでいるし、「リアリズムの手腕」で紹介した短歌は比較的分かりやすい。

大半の歌は解釈にひどく難航し、その多くは空回りしているように思えるのも事実である。とくに「思想」「言葉」といった視覚的なイメージを持たない語を中心に据えた歌にはこの傾向が強い。歌集全体の評価としては「知性の自慰」が最も当たっている。

そのうえで、第一部で変奏される〈水〉のイメージからは連作の新たな可能性を見たし、成功しているとは言えないが俳句と短歌を交互に並べた「思考する卵」(第三部)には驚かされた。「絞首刑――R君」(第四部)にはnoteでは紹介しきれなかった江田浩司の思想性が見事に現れており、「イメージの城」で紹介した短歌は詩的な短歌として充分に完成されていると思う。そして、最後の「神々の手淫」からはこれまでにない感覚を味わった。

通読する必要はない。気まぐれにページを開けば脳を揺さぶる一首に出会えるはずだ。その力がこの歌集にはある。


補論①「憂鬱」の射程

人生そのものが憂鬱だと思わないだろうか。いや、世界はますます憂鬱になっていると思わないだろうか。鬱は一方では精神医学の用語であり、他方では憂鬱な気分を表す語として広く使われている。世界が憂鬱な証拠に、SNSは「○○で鬱」という表現に満ちているではないか。

ここに二冊の本がある。菅野昭正『憂鬱の文学史』は明治から昭和初期の憂鬱を分析し、三浦雅士『メランコリーの水脈』は戦後の憂鬱を分析している。この二冊から憂鬱とはなにかを考えることにしたい。

菅野は憂鬱の意味を三つに区別する。医学用語としての憂鬱と、持続的な憂鬱と、一時的な憂鬱。持続的な憂鬱は無力感、疲労感、倦怠感などによる長期的な沈滞を指し、ふと嫌なことがあって塞ぎこむのが一時的な憂鬱だ。「○○で鬱」は一時的な憂鬱で、多くは刹那的とでもいうべきだろう。

問題を持続的な憂鬱に限定するとして、その内実はどのようなものだろうか。三浦は木村敏『時間と自己』を参照し、憂鬱な人間は「過去・現在・未来をまとめた歴史的展開の全体が『とりかえしのつかない』確定性において経験される」という一文を引く。これは、私は今までこうだったのだからこれからもこうだろうとか、私がいなくても世界は続いていくとか、何をしても世界は無に帰すのだとか、このような「未来までもがすでに終ってしまったもののように感じられる」心性と連続するものである。

このような、いわば人生や世界を一括して絶望する憂鬱が七〇年代に変化したと三浦はいう。三浦が挙げるのは「離人症」的な憂鬱、つまり確固たる主体としての〈私〉が分裂し、〈私〉が〈私〉を眺め、〈私〉の欠点や世界の不思議をぼんやりと眺めるような憂鬱である。〈私〉にとって人生や世界への絶望は自明のこととなり、〈私〉はそれを凝視するだけになってしまう。

三浦はさらに、なぜ自分がこのように存在しているのか、自分がこのように存在しているのはどういうことなのかといった実存の憂鬱や、「とりかえしのつかない」なかで何を書き、何を書き進めるのかといった作家の憂鬱、このように存在してしまった〈私〉を傷つける自罰的な憂鬱(これは他者から与えられることが予期される憂鬱の先取りとも言える)を挙げる。

こうした憂鬱の水脈を現代までつなげる能力は筆者にないが、たとえば引きこもりの憂鬱を挙げることができるかもしれない。そこに人生や世界への絶望はなく、〈私〉そのものに対する絶望もない。そのように存在している〈私〉を匿い、独善的な物語を積み上げるような憂鬱である。

すこし整理しておこう。とりかえしのつかない世界や人生をひとまとまりに感受して絶望する憂鬱は、それを当然のこととして眺めるような憂鬱に変化し、ここからとりかえしのつかない〈私〉への様々な対応が現れる。ときに〈私〉を思索し、自罰し、擁護するような憂鬱が登場してくるのである。

ここで、あえていまの憂鬱を考えると、不在の憂鬱というものがあるのではないだろうか。社会としては機械化・システム化が進み、労働は賃金に還元され、都市化によって人々の交流が減り、少子化が進み、メディアは〈私〉抜きの生を綿々と記録し、SNSでは受けやすい〈私〉を演出し、Web広告は〈私〉の知らない〈私〉の好みを見せつけてくる。等身大の〈私〉がここにいるはずなのに、どこにもいないように感じる。このような憂鬱がないだろうか。

筆者はここに現代短歌の位置があるように思う。それはまず歴史性を持った詩形であり、私たちはその器に〈私〉の生を記録することができる。それは短いために容易く作れ、短いために素早く流通し、SNSという流れの早い場においても辛うじて生を交流することができる。短歌は、非人間化が進み加速を続ける社会で、ありのままの生を交流させることができる小さな箱舟なのではないだろうか。

一方で、いまはこうした持続的な憂鬱を覆いつくすように刹那的な憂鬱が蔓延しているのも事実である。病気としての鬱が広く認知され、またその数が増大するのと足並みをそろえるように刹那的な憂鬱が幅を利かせている。思うに、これは〈憂鬱な気分〉を表わす簡潔な言葉として「鬱」の一語が便利だったという事情もあるのだろう。そして、短歌はときに刹那的な憂鬱をも自身の領分としているようだ。

こんな世界じゃもう 息ができなくて さよなら告げた 現実に 許してはくれないか 弱い僕たちを また何処かで会いましょう ◇ 簡単なこともわからないわ わたしって何だっけ ◇  例えば 今夜眠って 目覚めたときに 起きる理由が ひとつも 見つからない 朝が来たら わたしは どうする? ◇  「なんてことだ!生きてしまう!」 ◇  人生のネタバレ 「死ぬ」っぽいな なにそれ意味深で かっこいいじゃん… ◇  「あのー、人間ってどう思います?」「なんか、わかんないですけど、存在しててウケますね。」 ◇  私 ビバ良くない ただ物足りない! うん 小さくなってく器で トびたい! トびたい! トびたい!

すりぃ「テレキャスタービーボーイ(long ver.)」2020/9 ◇ ツミキ「フォニイ」2021/6 ◇ いよわ「きゅうくらりん」2021/8 ◇ 柊マグネタイト「マーシャル・マキシマイザー」2021/8 ◇ ピノキオピー「神っぽいな」2021/9 ◇ ピノキオピー「匿名M」(2023/5) ◇ 原口沙輔「人マニア」(2023/8)

二〇二〇年代のボーカロイド楽曲から引用した。今まで述べてきた憂鬱の混在が見てとれるだろう。

元々は『憂鬱の文学史』から近代の憂鬱史を辿る予定だったが、ここで閉じることにしたい。最後に菅野の示唆的な記述を一つだけ引用しておこう。菅野は、憂鬱が問題化されるのは個人が家族や村や社会や国家といった共同体から切り離され、共同体との軋轢から人間の生存や存在といった個人の内奥の問題へと視線が向くようになってからだとしている。個人が個人として切り離された時代とは、まさに現代のことではないか。

補論②「胎児」の現在

評論

江田浩司の評論集『緑の闇にひら言葉パロール』(万来舎, 2013)は万来舎ホームページの連載「短歌の庫うたのくら」(2007-2014)をまとめたものだ。連載はネットで読むことができる。いくつか興味深い指摘を拾っておこう。

斉藤斎藤は「牛乳が逆からあいていて笑う ふつうの女のコをふつうに好きだ(宇都宮敦)を「ふつうの女のコをふつうに好きなふつうの男の子」という当たり前の「かけがえなさ」を詠んでいると評する。対して、江田は他者を「ふつうの女のコ」と称することは「ふつう」ではないとして、そこに現代の「自己愛」「自意識」の問題をみる(第13回)。

江田は具象画と抽象画が絵画の「ジャンル内ジャンル」として区別され、俳句においても伝統派と前衛派が組織的に住み分けられているなか、短歌が多様な表現を「一つの組織の内部に抱え込」んでおり、読みや批評の場で柔軟な対応がとられていないという。その上で、自己の価値観に合わない短歌を安易に斥ける態度を難じる(第81回, 第82回)。

さらに、この観点から『短歌の友人』における穂村弘の「「実感の表現」に基づくリアリティー」(読者がどれだけ実体験のように感じられるか)という評価軸を相対化し、「実感」に左右される「言葉の方が読者を選ぶ」歌に疑問を呈する(第33回)。

また、江田は「短歌が千数百年以上の「伝統」を内在化していると安易に語るべきではない」とし、短歌は三一音の形式は継承したものの「詩性ポエジー」を継承したかは別の問題だとする。ここで江田が引用する冷泉貴実子氏の発言は非常に興味深い。

現代短歌は、私とあなたは違うというのが前提。私とあなたは一緒というのが和歌です。

「京都創生東京講座『不易流行の京都』」講演記録(東京新聞2008/2/3)

江田は俳句では季語という「共同性と歴史性」が継承されているとし、もし冷泉氏の発言が正しいならば「短歌は短歌自体の内部で、二度と和歌の詩性ポエジーに遭遇する手立てを失ってしまった」と述べる(第27回)。

この評論集で度々繰り返されるのは、歌の評価軸を現実世界のみに求めることへの異議である。江田はいかに現実をうまく詠み、その実感を共有するかという短歌に根強い価値観をどうにか崩そうとしている。では、江田が提唱する価値観とは何なのか。

江田浩司の近著『前衛短歌論新攷 言葉のリアリティーを求めて』(2022)に「短歌のポエジーとは何か」という章がある。「短歌のポエジー」と言いながら、本章で問われるのは短歌・俳句・現代詩に通底する〈詩のポエジー〉についてである。江田はそれを「言葉のリアリティー」だと考える。以下に内容を整理してみよう。

短歌のリアリズムとは一般に現実世界の再現 写生主義 を指すが、対して自己の心情のリアルな表現というものを考えることができる。自己や自己の心情というものは外界のようにすでにあるものではなく、言葉によってはじめて立ち現れてくるものである。しかし、立ち現れたを自己と呼ぶことはできない。それは作者の内界から切り離されており、作品内に自律しているからである。それを〈私〉と呼ぶことにしよう。

このように作品内に自律した〈私〉を想定するとき、作品内の〈世界〉をも自律しなければならないと江田は考える。ともに自律しているからこそ、言葉そのものがリアリティーを有するのである。江田は作者が持っている一意の思想を伝達したり、読者が持っている景色を再現する短歌を斥ける。短歌として並べられた言葉がいつまでも一つの意味に収斂されず、言葉そのものとして機能し、一塊の〈世界〉と〈私〉を提示する。このような短歌を推奨するのである。

自己は内部の「他者」との会話から形成されたものであり、外部の「他者」へとポエジーを通して交感する。

この一文が感動的なのは、〈自己は内界の他者との関わりによって形成される〉という一般論が、〈自己は外界の他者とポエジーによって交感する〉という詩論へと直結されるからである。つまり、私たちが生き、他者と関わりあい、自己を確立する生活に必要不可欠なものとして〈詩〉が位置づけられているのだ。

短歌の言葉が言葉そのものとして生々しいリアリティーを持ち、そこに〈世界〉と〈私〉が現前しているとき、短歌は作者にとって〈私〉という〈内部の他者〉と出会う場として、読者にとって〈私〉という〈外部の自己〉と出会う場として機能する。このように自己 - 他者との遭遇 - 交感の場として自律している短歌を、江田は詩のポエジーを持つ短歌として捉えるのである。

「イメージの城」で紹介した短歌はこの詩のポエジーに迫っているが、より肉薄しているのは最新の歌集であろう。

詩歌

彼の最新の詩歌集は『律 : その径に』(思潮社, 2021)である。「本書をわが師岡井隆の御霊に捧げる」という一文からはじまり、本書全体が挽歌の色彩を帯びていることがわかる。

とはいえ、挽歌ではない詩歌も多い。たとえば次の詩は江田の心に巣食う「胎児」の現在を思わせる。

もう何ねんもまへから
夜になると
鼻のかたちがわたしに似たいき物が
わたしを訪ねてくるのです
わたしが死にたくなるのは
そのいき物のせいなのか
たのしい仕ぐさにふける今宵も
あのいき物は訪ねてきます

あなたの隣にゐる人
そのままわたしの前を
通りすぎてはもらえませんか
やがて月もきえ
らんぷのあかりが
わたしの影をあたためます
かうべをめぐらせるあのいき物
ふかく息をするわたし
しづかな部屋にはあなたの気配……
もう死んでゐますかと
祭りのあとの夜のやうに
あのいき物のつぶやきが聞こえます

Ⅰ「もうすぐ秋がくると」第二連、第三連

「たのしい仕ぐさにふける今宵」は「わたしに似たいき物」によって台無しにされる。「あなたの隣にゐる人」が通り過ぎ、わたしとあなただけになった夜更け、「わたしに似たいき物」があの人は「もう死んでゐますか」と告げる。あの人とは岡井隆のことだろうか。祭の後、夢の跡、楽しかった現実は過ぎ去り、死に満たされる。

そして短歌では、岡井が予言したように「蕪村流のロマネスク」を思わせる歌、抒情的な世界を詠んだ歌が非常に優れているように思える。それも含めて岡井への挽歌ということだろうか。

霧ながれ牛のからだをつつむころ原初のごときしづけさはくる
ゆふぐれにあかるき影をおびてたつ少女のごとき木犀ありぬ
さはいへどもどる道なき生なればまぼろしにすむうつろなる鬼
おるがんのおかれたあかるいこつとう屋うつくしい名をもつ街にゐる
ひるの星うたひし人のかたはらにちひさな村をしづめる湖水

Ⅳ「みち
「獅子王の息」
「螢火」
「ひかる柱」
「しよ夏のろまんす」

O氏との対話はいまもつづきたりおそらくわたしが眠るときまで

Ⅳ「O氏に」

次回予告

「短歌五十音」では、中森温泉・初夏みどり・桜庭紀子。ぽっぷこーんじぇるの四名が週替りで、五十音順に一人の歌人、一冊の歌集を紹介しています。

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お読みいただきありがとうございました。
本稿が、みなさまと歌人の出会いの場になれば幸いです。

次回は中森温泉さんが岡野大嗣『音楽』を紹介します。

短歌五十音メンバー

中森温泉
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初夏みどり
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桜庭紀子
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ぽっぷこーんじぇる
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