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選挙の意義は投票だけじゃないと思うんだ~

先日、都知事選があったばかりなので、本日はそれに関連して、わたしが考える選挙の意義を書いてみたいと思います。
といっても私自身、選挙や政治に詳しいわけではないですし、こういう話題について文字にしたことなどないですし、さらにお恥ずかしいことに、今回初めて投票しに行きましたし、ということでかなりライトな内容です。
ひょっとしたらこういう意義もあるんじゃないのかな~、みたいなぐらいの。
お付き合いいただけたら幸いです。

最近私の周りでは、SNSに政治の話をのせたり、選挙に行こうと促したりする投稿をする人が増えてきました。
若者こそ政治に参加するべきだ~とか、政治の話を堂々とできるといいな~とか。
それは本当にその通りで、諸外国と比較すると(なんでも外国と比較すればいいということではないですが)、日本は政治や選挙に対する関心が低い国だなと思いますし、もっと知り合いと活発に政治の話をしてもいいと思います。
最近の身の回りの出来事の一環として、趣味について話すような感覚で、知識なんかなくても、所感を述べる感じで、ライトに。
もちろん、政治や選挙なんか微塵も興味ない人たちもたくさんいると思います。
でもきっと、興味がないわけではないし、もっとライトに扱っていいんだろうなということは頭でわかってはいるけど、何かそれを邪魔するものがある、と感じている人も結構いるのだと思うのです。
その邪魔するものは、個人的に2つあると考えています。

まず1つ目は、無意識な自己防衛本能。
多くの人は、SNSで政治や選挙について投稿している人を”意識高い系”として勝手に認識してしまい、自分がその人たちと同じになるのが嫌だ、という気持ちが生じているのではないでしょうか。
SNSで発信している当の本人たちは、自らが意識高い系だとは思っていないと思いますし、ただただ純粋に、もっと多くの人に政治や選挙に興味をもって、参加してほしい、そう願っているだけだと思います。
だから、自らが興味を持って、時間をかけて調べたことを、みんなが調べずとも知れるように、あるいは理解できるようにと、SNSに投稿するのだと思います。
そう、善意以外の何ものでもないのです。
(稀に自意識の高さをアピールしたい人もいるのかもしれませんが、放っておきましょう。どうでもいいので…!笑)
しかし、善意であるかどうかに関わらず、人に呼び掛けているという状況そのものが、周りの人たちから見ると、ちょっと上から目線に見える、そういう感じなのではないかな~と思います。
その結果、意識高い系の人たちと自分の存在とを無意識に区別し、意識高い系の人から言われてもなあ、みたいな反発心が生まれると同時に、自分が意識高い系にみられることへの羞恥心のようなものも芽生え、結果として、政治や選挙に関する話題を控えるのではなかろうかと思うわけです。
つまり、ただの善意が意識高い系と勝手に誤解され、自己防衛本能によりさらに区別される、といった感じでしょうか。
なんかちょっと悲しいですね…。

さて、2つ目の邪魔するものは、国の文化に由来するものだと思っています。
私は幼少期にクラシックバレエとピアノを習ったり、小学校で音楽コンクールに参加したりしていたせいか、比較的芸術というものが好きです。
現在でもストリートダンスを続けていて、発表の場に立つこともあれば、友人の発表を見に行ったりもします。
また、気になる企画展示があれば、美術館や博物館といったところにひとりでも出かけます。
しかし、これもまた諸外国と比較することになりますが、日本では日常生活にあまり芸術というものがなじんでいないように思います。
もちろん日常的に芸術に触れる機会は以前よりは増えていますし、そのような趣向を持つ人も増えていると思います。
その一方で、芸術に対して敷居が高いと感じている人も多くいるのも事実です。
少し前、「美術館女子」のワードが問題となりましたが、これももとはと言えば、もっと芸術を身近に感じてもらいたい、という思考が発端だったと思います。
言葉選びやプロモーションの仕方は間違えてしまったかもしれませんが、思考やアイディアとしては、間違いではなかったと個人的には思っています。
日本ではまだまだ、庶民が芸術を嗜むなんて敷居が高くて無理だわ…知識もないのにおこがましいわ…的な思考が残っているのです。
本来は、人々の間に広まり、浸透してこそ、芸術の真の価値が問われますし、芸術が人々に与える本当の力がわかるはず。
にも関わらず、なぜか一部の高尚な人たちが、根拠を持って楽しむもの、と捉えられているような気がするのです。
このような思考が、政治や選挙に対しても適用されているのではないでしょうか。
つまり、知識や経験もないのに、政治や選挙に対して関わるべきではないわ…といったような感じです。

以上2つの邪魔モノにより、政治や選挙に参加しなくては、という自意識が妨げられていると思うのです。
その結果、投票率が低いのではないかなと。

ここまで書いてきた考え方でいくと、投票率はそう簡単に上げられるものではないのかな、と個人的には思っています。
個人個人の自意識によって、投票という行為が阻まれているような感じがするからです。
それに、無理に投票率を上げようとするのも何だか違う気がするのです。
では、投票の有無にかかわらず、選挙を行う意義はあるのか、ということについて考えてみたいと思います。
(やっと本題…!)

世の中では一般的に、選挙を行うからには、選挙でより多くの人が自らの意思表明として投票をすること、これが最大の目的であり目標であり意義であると捉えられていると思います。
しかし、選挙はこれとは異なる側面での意義も有しているのではないかなと、最近ふと思ったのです。
それは、選挙を行うことで、今世の中で起きていることや問題となっていることについて知ることができる、ということです。

選挙が行われるにあたって、立候補者はマニフェストを作成し、それを国民に対して示すという行為を行います。
立候補者により、思考(たまに思想。笑)の違いは出ますが、それは”世の中で現在問題になっていることの何に着目しているか”の違いでもあります。
つまり、誰を支持したいかわからない、誰が正しいかわからない、といったような、投票という行為を想定するからこそ発生する考えとは関係なく、世の中で起こっていること、問題になっていること、注目されていることについては、どの立候補者からも知ることができるのです。
私はここに選挙の意義を感じています。

世の中で起きていることや問題になっていることに日常的に考えを巡らせる人は、そんなに多くはありませんし、きっとそんなことをしていたら疲れてしまう人が大半だと思います。
正直、そんなこと考えないでいるほうが楽しいのも事実だと思います。
しかし、だからといって、世の中で問題になっていることから目を背けてばかりではいけないのも事実です。
じゃあ、いつ、何を、どうやって考えればいいの、ってなったときに、選挙というものが大きな役割を果たしていると思うのです。
選挙というのを1つのきっかけとして、自分が普段考えもしない、考えが及んでもいない、自分一人では解決できないけれど、ひとりひとりが考えて行動したら解決できそうな、世の中のあんなことやこんなことに、たまには意識を向けて、事実を知り、現実を知り、そのうえで可能であれば自分なりの考えや意見をもってみようよ。
これが選挙であり、選挙をおこなう意義でもあると思うのです。
そう考えたら、必ずしも選挙って、投票が絶対だ!投票に行かないと価値がないんだ!というものでもないと思うのです。

というわけで、今回は選挙について考えてみました。
ちょっとお堅い内容になってしまいましたが、今後はお堅い内容もお堅くない内容も、どちらもお堅くない気持ちで書いていくつもりですので、よろしくお願いします~~。
まあたぶん次回は、これまた話題の”レジ袋有料化”関連で”脱プラ”や”環境問題”についての話題にするので、人によってはお堅く感じるかもしれませんが…!
気持ちは緩やかですので、ゆるゆる読んでほしいです。



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