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メンクリとわたし

noteでも度々書いているが、わたしは何度か(というか何度も)メンクリ=メンタルクリニックにかかっている。今回はその話をしてみようと思う。
わたしがメンクリのことをメンクリメンクリと呼ぶのは、自分がかかっているのが精神科なのか心療内科なのかよくわかっていないからである。気分の落ち込みでもかかっているし、気分の落ち込みからなる身体の不調でもかかっている。


メンクリにかかるまでの人生

これまでの人生を振り返ると、圧倒的に成功体験が多かった。友達にも恵まれたし、異性と付き合うこともあった。勉強にもあまり困ったことがなかったし、志望校は全部合格してきた。スポーツだって得意で、約8年間陸上をしていて表彰されたことも、それなりに大きな大会に進出したこともあった。美術もオールAの5以外とったことなくて、こちらでも度々表彰、展示、選出されてきていた。

しかし、日常生活のディティールを見ればボロを沢山落としているような人生でもあった。数え切れないほどのダブルブッキング、それに伴うキャンセル、リスケ、怒られ、エグい頻度の忘れ物&失くし物、怒られ……。小学6年生の頃、あまりにも忘れ物を繰り返していたためか、ある日担任の先生に「(名前)さんはしっかりしているように見えるのに、(実際はそうではなくて)ガッカリしました」と吐き捨てられて泣いたことを、わたしは一生忘れないだろう。

話は変わるが、高校生の頃、部内で初めての彼氏ができた。わたしは所謂束縛の激しい彼女になった。毎日彼氏がとられないか、彼氏が他の子のことを好きにならないか、嫌われないか、不安でいっぱいで、沢山束縛して困らせた。あの頃のわたしは神経質で、待ち合わせの時間を少しでも破られるとひどく怒った。そうやって、自分で苦しくなっていってたんだと思う。

初めてのメンクリ

初めてのメンクリは初めての彼氏と別れてからのことだった。春先に内科にかかったけど良くならなくて、秋口にメンクリにかかった。あの人に振られた、自分にはもう価値がない、嫌われてしまった、もうあの日々はもとに戻らない、と底なしの不安に突き落とされて、毎日泣いて過ごしていたときだった。外でも涙がこぼれるし、元からの苦手もあって入眠ができなくなってきたし、嗅覚過敏も酷くなって生活が辛かったので、自分でメンクリに行った。診断名は告げられなかった。詳しくは↓

内科でデパス、メンクリでランドセンとレキソタンを処方された。たしか3週ほどでぶっちした。

大学時代

1年生は変な3年生♂に引っかかってしまった以外は普通に過ごしていた(とんでもなくヤバい人だったが)。2年生になって間もなくコロナが流行ったが、そんな中、秋頃に彼氏ができた。とっても優しくて頼りがいがあって、一緒にいて落ち着くような人。しかしそんな幸せもあったものの、冬頃に父が末期の肺がんだと診断された。同時に、同居している祖母の介護が大変になり、わたしも手伝うようになった。祖母はパーキンソン病とBPSDの症状が顕著で、介護にはかなり苦労した。さらに祖母と母はよく喧嘩しており(というか母が一方的に祖母を大声で怒鳴りつけており)、家はまさにカオスだった。 

末期の肺がんの父、怒鳴り散らかす母、常に介護が必要な祖母、受験近い弟、介護を手伝うわたし。

母が怒鳴り散らかすとき、ときどき後片付けが必要なくらい文字通り散らかすことがあった。祖母のおむつを破り割いて散らかしたり、ゴミ箱やゴミ袋をひっくり返したりすることもあった。そういうときに始末するのはいつもわたしだった。弟には苦労をかけたくなかったし(ていうかやってくれないし)、父は病人だし、祖母は放っておけないし、全部わたしにのしかかってきた。それでも母はわたしがその頃21歳だったのを理由に、「ヤングケアラー」であることを認めようとしなかった(未成年に限った話だと思っているらしい)。

そんな感じの家庭環境で4年生を迎え、わたしは臨床実習に行った。大体折り返しの頃、父と弟がコロナにかかって父は入院した。母も体調不良になり、わたしは1人で介護と家事を受け持った。慣れない料理にも挑戦した。同期は実習しているのに、自分は濃厚接触者になってしまって行けない、介護と家事をしないといけない、父親はいつ危なくなってもおかしくない、と、気持ちはいつでも不安と焦りでいっぱいだった。 それでもどうにか堪えてこなしてきた。

家庭内パンデミックも落ち着いた頃、気持ちの沈みと入眠困難、日中の意欲低下が顕著になった。しんどい、辛い、悲しい、寝られない、起きられない、動けない、日々そんな感じだった。そして再び以前お世話になったメンクリの戸を叩いた。

2回目のメンクリ

メンクリの先生に、父が末期の肺がんなんです、それでパーキンソン病と認知症のBPSDの酷い祖母の介護もしていて、しんどくて、寝られなくて起きれなくて動けなくて涙がよく出ます、と訴えた。先生は話を聞いて、すぐにカウンセリングを手配してくれた。薬は以前と同じレキソタンとランドセンに加えてアリピプラゾール(エビリファイ)が処方された。

診断①

何回か通った頃、医療系学生のわたしは国家試験も近かったので、勉強になるだろうと先生に診断名を尋ねてみた。「全般性不安障害」と「抑うつ神経症(気分変調性障害)」だった。あと「睡眠リズム障害」とも言われた。先生曰く、診断名を告知すると患者がその診断名たる状態になろうとしてしまうことがあるからあまり言いたくなかったそうなのだった。ごめん。

帰ってから病名を調べてみた。当時全般性不安障害はあんまり自覚がなかった。気分変調性障害はああたしかに〜って感じがした。「鬱ほどじゃない抑うつが2年以上続く、鬱ほど重く見られないが辛うじて生活ができるので逆に困るし、治りにくい」と書いてあって絶望した。高3でかかったとき既にこれだったんだろうな……。

診断②

冬頃だったように思う、以前から忘れ物グセが酷いのでとADHDの検査をお願いした。よく聞くWAISとかはやらず、A-ADHDスケール、CAARS、A-ASD、AQ成人版というのをやった。質問紙式のADHDとASDの評価尺度。
結果、バチバチにADHDだった。ASDはなかったけど。

それで暫くストラテラを処方してもらった。「霞がかっていた靄が晴れる……!」みたいな劇的変化はなかったけれど、国家試験の模試や過去問でケアレスミスをすることが減ったように思う。
国家試験後は症状にもなんとか対処できているでしょう、とストラテラをもらうことはなくなった。いや全然元気に傘とか手袋とか忘れるしダブルブッキングも予約ミスもやらかしとるで。

診断③

めちゃくちゃげっぷが出るので、調べてみたら呑気症というやつがヒットした。鬱でなるらしい。わたしは鬱ではないけど、鬱に近いようなもんなので全然ありえるじゃ〜んと思い、先生に話した。すぐにCTを撮ってくれて見せてもらったそのお腹は、空気でパンパンになっていた。先生が思わずウケるレベル。「写真撮ってスマホの壁紙にしなよww」と言うくらい、お手本みたいな呑気症だった。

小腸と大腸の黒い部分全部空気です
これも胃が真っ黒ですね、空気です
ちなみに胸のあたりの白いやつはパットです、気にしないで

いま

大学院1年生の今もまだ通院を続けている。3年目に差し掛かった。変わったことといえば、3週に1度だった通院が1月に1度になったこと、呑気症が悪化して食事量が減ったこと、自立支援医療制度を使って経済的負担がかなり少なくなったこと、そしてなにより父と祖母が亡くなって逆に家庭が平和になったこと、である。気分が落ち込むことも泣くことも減ったし、不眠もまあまあ良くなってきた。

今飲んでいる薬は、ガスター(呑気症の薬)、六君子湯(呑気症の薬)、モサプリドクエン酸塩錠(呑気症の薬)、リーマス(気分の薬)、ラツーダ(気分の薬)、ロゼレム (眠剤)、ランドセン(眠剤)、ベルソムラ(眠剤、不眠時の頓服)の8つ(!!)である。ADHDゆえなのか、こういったものの管理が非常に苦手である。朝も起きるのが遅いのでブランチで済ませることが多く、毎食前に飲む呑気症の薬をはじめ、いろいろな薬を飲み忘れて溜め込んできた。ヘッダーはそれの写真だ。

メンクリ卒業までどれくらいかかるかわからないけど、焦らず着実に治していきたい。

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