恋で生計は立てられない 第四章「他人の領域」3
空が明るみ始める頃、カーテンを開けて、窓の外の動き始めた街並みを見るのが好きだ。乗用車がぽつぽつと道路に出始め、街灯や街ビルのネオンは光の具合を少し弱めている、朝方の仄暗い空気。マンションの七階から眼下の景色を覗くと、地上から十メートル強も離れていないのに、ずいぶんといろいろなものが小さく見える。もっと上の階――それこそ最上階にまで行けば、見渡す景色のさまざまは、ミニチュア模型の果てなき宇宙に思えるだろう。人や動物が暮らす地面の、人家の明かりやいろいろな光は、夜空でいえば星々のようだ。わかってる。自分はけっこうなロマンチストである。
白は本日着ていく服をクローゼットから吟味して、涼しくなったら袖を通そうと思っていたハイブランドのカットソーを選んだ。アウターには薄手のジャケット、下はあのデザインのデニムで足りるだろう。コーディネートが決まり、洗面台でスキンケアのチェック。準備が整い次第、出発する。
玄関のそばに立てかけた姿見に全身を映して己の容姿を確かめる。今日も悪いところはない。上出来な男が得意げにプロポーションを見せつけている。
満足し、ファッションの最大の注意点、足元の見栄えを考える。
今日はこれにしよう。そう思い、足を入れたが最後。
「……か」
痛かった。かなり。
これはどういうことだろう。
「……か」
この前までは難なく履けたはずだ。が、無理やり足を動かしても痛みはいっそう強くなり、そのまま玄関を出れば靴擦れどころではない大惨事を引き起こしかねない現実が、白の脳天を直撃する。
「……革靴が、入らない……!?」
さー、と全身の血液が冷えていくようなおぞましい感覚がした。白は半ばパニックになり、とりあえず手近にあったスマホを手繰り寄せ、かつての旧友に緊急の連絡を入れる。
五回ほどのコールで、友人は応答した。
「はい、どうした?」
電話の向こうの相手は心配そうに声を落とす。
「九条、どうしよう! 俺、太ったかも! 激太りしちゃったかもしれない! 身体が資本なのに!」
泣き言をぶつけたとたん、右耳の向こうから三秒ほどの深いため息が聞こえる。
「何だよ、お前。そんなことかよ。痩せろ、がんばって」
九条は心底あきれたように、先ほどとは打って変わって声の調子を強くする。次いで「切るぞー」とやる気のなさそうな返事をすると「あ、ちょっと待って、もっと相手してよ」と白が引き止めるのも構わず、通話をブツリと遮断した。
「薄情者ー」
白は文句を言いつつ、出社の時間に遅れないように急いで代わりの靴を見つけ、慌ただしく玄関のドアを開けた。
家から『極楽浄土』までは県をまたいで離れている。あの店に通うために近場のマンションを借りたかったのだが、仕方ない。働くことは生きること。極楽浄土は、白にとっての生きがいだった。
白は一人で生きている。
肉親はいない。親族もいない。正確には、いるにはいるが、家族という役割を果たしていない。血だけが繋がっている、それだけの関わりしかない。
雨季が終わり、夏と台風の季節も過ぎて、穏やかに晴れる日の多い、少し肌寒い日。この時期は人寂しさからかお店の方がわりかし繁盛するので、指名客は増える。現在、スケジュール的には忙しい毎日を白は送っている。
電車に乗り、始発の車内の人混みは意外に混んでいて、スマホをいじりながら時折車窓の外を眺める。速度をつけて流れ去る民家の数々を目で追っていると、日本にはまだこんなに人間が住んでいて、一日を生きているのだと感じる。幼い頃より、年寄りが抱くような心境を白は度々感じる時があった。「年寄り臭いよ」と仲間からしょっちゅうからかわれる、昔からの癖である。
今日はお店に赴き、ミーティングを開く日だった。久しぶりに店長に会えるのだと思うと、胸の中をうずうずと甘いしびれが広がるような、落ち着かない気分になる。だがこれは恋心ではない。言うなれば、親愛の情というべきか。
電車は東京を出た。陸橋を渡る無機質な機械音が響き、窓の向こうでは多摩川が緩やかに流れている。すぐに景色は移り変わり、煤けたビルや十数年以上営業し続けているような地元の店が建ち並ぶのが見える。
スマホに視線を戻し、数件の通知を確認する。本日は昼から二件のデートの予定が入っている。
液晶画面には『アカリ』と『園子』の名前。
それぞれに気の利いた返信をよこし、白はイヤホンをして音楽アプリを起動した。
店に入ると、仲間たちがいた。久しく顔を見ていなかったので唐突に学生時代に戻ったような錯覚を抱いた。十代の頃から風俗業界で働いている白にとって、学生時代などなかったも同然なのだが、なぜか彼らには、同じ机を並べて勉学を共にしたような青い気持ちを感じてしまう。
奥まった休憩スペースのソファーに一人腰かけ、スマホをいじっていた青年が、白を見つけて微笑む。
「お久しぶりです!」
「よっ、詩乃《うたの》」
名を呼ばれた詩乃は、美容アイテムで綺麗に整えた髪を少し触りながら、立ち上がって白にソファー席を促した。
「どうぞ、どうぞ」
「いやいや、そんな立場じゃないし」
「何言ってんすか。もうトップオブトップじゃないっすか。そもそもベテランだし」
「ベテランの年になったか~。年月感じて悲しくなるからやめてー」
しばらく二人でじゃれた後、詩乃と同じ空間でしゃべっていた男女が同様に声をかけてくる。
夢《ゆめ》と蘭堂《らんどう》だ。
「客は上々?」
「白に限って取り逃がすなんてことないだろ」
白より上背があって男性的な色香がほとばしる蘭堂が、ちょっとからかうように言葉を被せてくる。現在、自分とほぼ同じ売上額を競っているトップキャストであり、『ワイルド』部門で堂々一位のモテる男だが、こちらとは系統が違うタイプの端正な顔立ちで、求められる美しさもだぶらないので、仲良くできている相手である。
夢は女性キャストだ。『極楽浄土』ではまだ少ない、女性と寝たい女性のために集められた人材で、彼女自身は男女問わず抵抗なく受け入れる性質を持っている。中性的なファッションスタイルと、客からの要望で丁寧に切り込んだショートカットの黒髪が素敵だと評判を呼んでいる。
「おはよう、二人とも。俺はいつも通りだよ」
『極楽浄土』では昼夜問わず「おはよう」と挨拶するのが昔からの習わしである。また、名前はすべてシークレットネームだ。ここで本名は明かされない。キャストとスタッフ両方が守秘義務を徹底している。白は仲間たちの本名を聞かないし、彼らも必要以上に白の身辺を探ってこない。つかず離れずの関係が心地いい。
談笑しているうちに、掃除用のモップを抱えた園子がやってきた。
園子の方から挨拶することはない。彼女はただじっと下を向きながら、何かに耐えるように黙々と廊下を拭く作業に徹している。
白は会話を切り上げて、さっと園子に近寄る。彼女が身を固くしたのがわかった。仲間たちが好奇心いっぱいに瞳を光らせてこちらを見つめている。白は彼女に一言、
「園子さん、誕生日おめでとうございます」
とささやいた。
おー、と仲間たちが声を上げる。
「園子さん、誕生日だったんですか? 言ってくださいよー」
「何歳になったんです?」
詩乃と夢が交互に話しかけるが、園子は仏頂面を崩さず、いっそ吐き捨てるような口調で、
「三十歳です」
と伝えたきり、会話をやめて床拭き作業に没頭し始めた。
二人は気分を害した様子もなく、「おめでとうございます」と笑いかけ、以降は各自のおしゃべりに戻っていった。園子の扱いをよくわかっているのだ。
白は園子を盗み見た。
うなだれているように顔をうつむけながら、手を動かしている。
園子はつい最近まで白の顧客だった。
見た目も性格もこの上なく見栄えがせず、いつも猫背気味にうつむいて歩き、コミュニケーションも苦手なようでめったに自分から人と話さない。彼女のようなタイプは特段珍しくはない。白を求めてやってくる女性にはわりかし多い、孤独過ぎて人生のかじを切る手段を見失っている人だ。
そういう彼女たちに、白は手を差し伸べてやる。甘い台詞をささやき、誰も触れてくれない肉体に優しく入り込んでやる。すると彼女たちは次々と財布の紐を緩めてくれる。
別段、白はそれが快感だと思ったことはない。生きるために、生活費を稼ぐためにこの仕事をしているだけであり、女性を食い物にしている罪悪感はきちんとある。だから許してほしい。心の内を免罪符に今日も仕事をこなす。
家を出た時は暗かった空が、少しずつ午前の気配を濃くしてきた時分。半月ぶりのミーティングが開かれようとしていた。
店長の城内香《じょううち かおる》は定刻通りに顔を出した。「みんな、揃ってるね」と艶のある声で白たちを見渡すと、「おはよう」と優しくも凄みのある笑顔で挨拶をする。風俗業界での女性の店長は今の時代でもまだ珍しく、彼女は男社会の風俗の世界を自身の世渡り術で長く生き残っている、稀有な才能の持ち主である。
白たち従業員は彼女を「香さん」と呼び、店長とは言わない。キャリアの長い白が率先して名前で呼んでいるので、他のみんなにも呼び名が浸透した。
「今日、ミーティングを開いた理由はね、アカリさんのことなの」
香がみんなを見渡してその一言を発した時、後ろで掃除をしている園子がびくりと肩を震わせた。それに気がついたのは白だけで、何事もないように話は進んでいく。
「白くんのところに、アカリさんからの電話が、見過ごせないレベルにまで届いてるのよね」
香は白に同意を求めるように目を合わせた。白もうなずく。
「はい。最近、情緒がまた不安定なようで、俺に助けを求める電話をかけるんです。打ち明けると、会いに来なかったら店にまで押しかけるという……」
「うわー、脅しじゃん。こわっ」
詩乃が眉をひそめて言った。その場の空気は重くなる。
極楽浄土のルールは、定期的にミーティングを開き、客の情報をメンバー間で共有し合うことだった。万一、マナーのなってない客に迷惑行為をされた時に、お互い対処できる方法を探し合うのだ。
「白はよく被害に遭うよな」
蘭堂が同情するように言う。白は苦笑を浮かべた。
「アカリさんは、現在旦那さんとのセックスレスに悩んでいて、子どもはまだいなかったはず。不妊の件で双方の両親からあまりいい扱いを受けていないらしく、少し追いつめられている様子でした」
白はここ数日間のアカリの行動をみんなに報告した。
無言電話、一日に十数回を超えるメール、店に頻繁にかかってくるコールなど、彼女の問題行動は日に日にエスカレートしていっていた。
「そのうち待ち伏せされるんじゃないんすか? 白さんの家、特定されてるかも」
「詩乃、シャレにならないこと言うなよ」
夢がそれとなく注意した。
「シャレじゃないっすよ。こういうことは早く対策打たないと」
詩乃の言葉に蘭堂がうなずく。
香が対策案を出した。
「受付の二人には、アカリさんからの電話が来たら白くんは予定が埋まってると言って。実際、スケジュールは詰まってるし」
奥の席に並んで座っている受付の女性二人が、神妙な顔で首肯した。
彼女たちは会社とのダブルワークで極楽浄土の仕事を請け負ってくれている。一人は稼ぎの少ない旦那と小さな子どものため、もう一人は独身人生をもっと謳歌したいためだと言っていた。
しばらくアカリに対しての対策案が議論された。自分の身を案じるみんなの声が耳に響いて痛かった。誰かに心配されるほど、守られるほど、心の奥が痛くなるのはなぜだろう。
「みんな、そんなに気遣わないでいいよ」
白が声を発すると、みんなの声がやんだ。
心外そうな表情が周りの顔に浮かぶ。
「そうじゃない。お前は大事な従業員だから、配慮するのは当然の権利だ。仕事をしている以上、労働者の身辺は守られるべきなんだ」
蘭堂が真剣に白を正す。彼らの仲間意識が白にとってはありがたく、これ以上ない感謝の気持ちでいっぱいになったが、白は首を振った。
「自分を卑下してるわけじゃないよ。ただ、俺に考えがあるんだ」
みんなの視線が集中する。疑問符を浮かべるメンバーたちに、白は説明した。
「アカリさんと話し合いたいんだ」
「……話ができる状態なのかな」
夢が不安そうにつぶやく。
実際、それは難しかった。アカリの言動に一貫性はなく、情緒を失っているのだろうと見て取れるしつこさだからだ。
「このままフェードアウトはしたくない」
白は強い要望を出した。
「香さん、俺をアカリさんに会わせて。危なくなったらすぐ逃げるから」
蘭堂たちが心配そうに白を見遣ったが、香は表情を変えず、じっと白の目を見つめる。心を見透かすような、不思議な眼力だった。香はいつでも目の力が強い。
「何か考えがあるの?」
香が冷静に問うてきた。白は答える。
「考えは……ありません。でも、アカリさんは俺に助けを求めているように思えます」
場がしんと静まり返る。
香はふっと息をついた。
「助け、ね」
香は瞳をこちらに向けてくる。
「白くんは、自分がアカリさんの救世主になれると?」
ぐっと息を詰まらせる白に、香は黙って言葉の続きを待つ。
「……そんなたいそうなことはできません。でも、このままずっとスルーされるのは、アカリさんがかわいそうだと思います」
語るうちに、自分も誰かをかわいそうだと思うのだと悟る。かわいそうだと言われるのは嫌だとプライドが認めない一方で、人を哀れに思う心は自分の中にもあるのだと、自己の矛盾に気がつく。
それでも白は食い下がった。アカリと強制的に別れさせられるのは、自分の中で納得がいかない。
しばらく場が押す中、香は条件を出した。
「一回だけ。一回なら会って、話ができる。この店の中で」
白はほっと胸を撫で下ろす。
「それだけでじゅうぶんです。ありがとうございます」
頭を下げ、膝の上で拳を握る。
香はいつも、最終的に自分の意思を認めてくれるのだ。
白の心中で、どんな意図があるのかも、見越しているように。
香はまるで白の何もかもをわかっているかのようだ。白の企み、腹積もり、すべて見通しているのではと錯覚してしまいそうになる。
白はもう一度、彼女に感謝の意を示した。
「ありがとうございます」
香は口の端だけを上げた。
〇
4へ続く。