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【創作】 ふにゃり

「幸せって、なんだと思う?」

光子はそう言った

「さあ…?
今の結婚生活に何かご不満でも?」

「そう言う言い方が嫌いなのよ」

光子の横顔は綺麗だ
キッチリと揃えられた黒髪ボブ
首には何本か筋が入ってて

光子とは東大のベジタリアンサークルで出会った。僕は仲間内との罰ゲームとしてそのサークルに入った。フルーツトマトの甘さについて熱心にふにゃりとした笑顔を時折混ぜながら話す彼女は、その後実際に食べたフルーツトマトの甘さなんかよりも、僕の心は甘くなった

当時光子はカラー剤で染めた、バサバサの茶髪のロングヘアーで。

本気で口説こう(やった事ないけど)と思った2人の駅までの帰り道、
光子の髪を持った瞬間に「彼氏が染めてくれたの」とふにゃりと笑った。それは僕への失恋宣告だった


大好きだったあの笑顔さえも、僕は見ると、アイツの、知らないアイツの、彼氏の為に笑ってやがると嫌気がさして、誰もいない個室トイレで声が漏れないように泣いた。
僕は馬鹿か、高校生か。もっと大人な恋愛しないと
拓也とか茂雄みたいな… 

あれ、大人な恋愛って、…なんだ?

大学の友達関係はゆるく、そして複雑で、綺麗な真緑色の田んぼが、細く柔らかい女性の髪が風で優しく揺れているようなあの景色が大好きな僕は、何と言うか、全てに向いていないんだ



光子は立ち上がった

ねえ、私の髪を真緑色に染めてみてよ

え?なんで?突然

いいから。私がいいから、だからいいの



手を取られ洗面所へと向かった
光子と手を繋ぐなんて何年ぶりだろう


僕にぬるま湯をかけられ、
洗面所に顔を埋めた彼女は笑っていた

多分ふにゃりと笑っていた

「私ね、自分の笑い方が大嫌いだったの
嘘くさいとか。ちっさい頃周りにも、親にも親戚とかにまで言われちゃって」

濡れた彼女の髪は触れると細く柔らかくて

「でもね、君のふにゃりが好きだからって告白してくれたじゃない?貴方。告白の返事よりも先に、私のふにゃりってなんだろうって必死に考えたわよ」

ふふふと聞こえてくる

「あの時は気が動転していたんだよ笑」

「まさか、私の笑顔の擬音だったとはね。ふにゃり
自分の結論をすぐに出せない私の哀れな性格の事かしら?とでも思ったわ」

「はは、考えすぎだよ
そろそろシャンプーしようか?」

「いえ、いいわ」

「え?あ、先に染め粉?」

「いいえ、もういいの」

光子はあの頃よりも首に皺があり、それが下に垂れていて、さっき手を握った時も、幼少期のおばあちゃんと手を繋いだ記憶を思い出すカサカサ具合だった



「…なんで君は、若返りの手術を受けなかったんだい
今は、当たり前だろ、60を過ぎたら皆、若返りの手術を受けて、それが当たり前で、受けないと老いは醜いと非難される。僕だって、手術受けたさ、でも、でも、いくら外見が20歳でも、体力や寿命はそのままだから…
生きていると、生きている度に、余計自分の人生が虚しく感じるんだ。君がいるのに」

僕は声を殺して泣いた。失恋したあの時みたいに

彼女は濡れた髪のまま僕を抱きしめて。傍から見ると、おばあちゃんが孫を抱きしめているように見えるんだろうけど、僕達は立派な夫婦だ

「頭が冷えるだろう。早くドライヤーを」

「貴方は心が冷えているでしょう。その方が大変だわ」

より抱きしめる力は強くなって、
起きて朝一番に見つめる光子の顔は、明らかにあの頃よりも歳を重ねていて

「…髪は、染めないのか」

「あれは…久しぶりに貴方に頭を洗って欲しかったから。手だって触れ合いたかったから、それの、口実よ。60も超えたおばあちゃんが、真緑色の染め粉なんて持ってるはずないでしょ?馬鹿ねえ」

「君はたまに突拍子も無いことを言うね」

「そんな変な私に惚れ込んだのは、貴方でしょ?」

まだ抱きしめられている。年甲斐もなく恥ずかしい

「…そろそろ離してくれ。息が苦しい」

光子はより抱きしめる力を強め、僕にこう言った

「私はね、おばあちゃんになってもらぶらぶなんだって思ってた。若かったからかもしんない。でもね、そんなのは難しくって、貴方が部屋にいることなんて、いつしか当たり前の存在になっていたの。それがどれほど大切なことで、奇跡で、愛おしい事なのかさえ忘れていたの。そんな時に若返りの手術の申請書が国から届いて。迷ったわ、迷ったけど…受けるのをやめた。もう一度あの頃のように…!なんて思ったけど、私は今の私が好きなの。だってこのしわの数は、貴方と過ごした時間の証だから」

光子はとても綺麗だ。中身だって、外見だって、
凄く綺麗だ

「僕は… 世間が怖くて。ジジイになるのが怖くて、手術を受けた。とんだ情けのない奴だよ。君に僕なんかは勿体ない」

「いいえ、手術を受けること自体勇気がいることなのよ
愛くん、自分を責めるのは辞めなさい。それは貴方の悪い所。何度も何度も言ったでしょう?責めるなら、あの時見栄を張って咄嗟に彼氏がいる!なんてホラを吹いた私を責めなさい!ってね」

彼女は笑った
僕は声を出して泣いた

そうすると、彼女は優しく抱きしめていた僕の体を、ゆっくりと離した

涙と鼻水で僕の顔は雑巾のように濡れている
光子の左肩にはその跡がびっしょりだ

「…僕はとにかく、死ぬのが怖いよ」

「それ、若い頃からずっと言ってるわね」

光子が笑った。笑った事により余計に顔にしわが増えた。
でも、その時の笑顔がなんとも可愛かった
なんだか今までで一番、ふにゃりとしていた。







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