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【短編小説】眠る子供のように

 憂鬱が胃の底で停滞するとき、ノアはいつも黙ってそれをやり過ごす。ストレス発散の名目で剣や魔術の訓練をするとか、なにもかも忘れて趣味に没頭するとか、そういった手段はノアにとってなんの意味もなさなかった。
 ただ、今日は偶然酒瓶を発見した挙げ句、普段は「飲む」なんて選択肢すら取らないのに何故か封を切ってしまった。つまみの準備も氷の準備も億劫で、何とか振り絞った気力でグラスだけは用意する。雑に注いだ常温のウイスキーをそのまま一気に呷って胃に流し込むと、喉がジリジリと焼ける。
 そのまま天井の明かりを見上げて、ノアはじっと何かを耐えた。どうやら憂鬱はアルコールに溶けはしないようだ。
「珍しいなぁ」
 笑うラスターの声になんと反応すればよいのか分からなくて、ノアはそのまま動かなかった。しかし、テーブルにコトン、と固い物が置かれた音に、思わず真っ正面に向き直る。
「付き合うよ」
 ラスターの手にもグラスがあった。氷まで用意されている。まったく、やることが速い。
「あまりいい依頼主じゃなかったからな」
 ラスターは素早い動きで椅子に腰掛けた。その際、外套が起こした僅かな風に、ノアは煙とアルコールの臭いを感じた。彼も外で飲んでいたらしい。普段のノアなら「飲み過ぎだよ」とかそんなことを言っただろうが、今日はそんな気分になれなかった。誰かに、傍にいてほしいと思っていたのかもしれない。
 依頼反省会をする気力などなく、二人は黙々と酒を呑んだ。途中、ラスターが席を立って食料保管庫を漁る。
「食べる?」
 ラスターの手にはチーズがあった。ノアは頷いた。少し塩気の強いそれは、確かにつまみの最適解だ。
「ノアは、酒強いのか?」
「どうだろう。家族の中では結構強い方だったけど」
 ラスターはチーズを載せた皿と一緒に胡椒も持ってきていた。見るとちゃっかり干し肉が添えられている。
「母さんは酒豪で、父さんは普通だったから……平均くらいじゃないかな」
 チーズに干し肉を載せて、胡椒をまぶす。これだけ簡単なつまみすら準備出来ないくらいに弱っているらしい。
「ラスターは、強い方?」
「俺? 俺は顔に出るけど強い方」
 空きっ腹に流し込んだウイスキーの暴力を知らないわけではない。あっという間に悪い回り方をした酔いは、いたずらに憂鬱を加速させる。やけ酒なんて言葉があるが、結局の所、気晴らしにすらならなかった。
 膨れ上がった寂しさを紛らわすようにしてもう一杯飲もうとしたところで、ラスターの手が触れた。
「随分荒れてる」
「たまにはそういう日もあるよ」
「初めて見た」
「……幻滅した?」
「いいや」ラスターは笑いながら、ノアのグラスに何かを注いだ。「そんなに薄情じゃないさ」
 見ると液体の色はどこまでも透き通っていて、ノアは別の酒が入ったのかと思った。先ほどと同じようにして一気に飲み干してようやっと、あの液体が水だと気がついた。水入りのボトルは本来遠征用で、こんなところで使うべきものではないのだが……。
 ラスターは再び、ノアのグラスに水を注いだ。
「寄り添う素振りを見せておきながら裏切るなんて、そんな残酷なことは流石の俺でもできないね」
 ノアは笑った。
「よかった」
 グラスの中で、氷が音を立てた。
「今裏切られたら、もう立ち直れないと思う」
 ノアはもう一杯水を飲んだ。氷がカランと音を立てた。
「……子供の頃、自分は何でもできる、何にもなれる、って思っていた時期があった」
 ノアは氷しか入っていないグラスを揺らしながら語る。
「かっこいい騎士になって、困っている人を助けたいって、ずっとそう思って生きてきたんだよ、俺。十八で騎士団に入ってからも、夢ばっかり見てた……」
「…………」
「ナナシノも俺の自己満足みたいなところがあって……」
 そこまで言いかけて、ノアはハッとした。この言葉は外にこぼすべきでは無い。
「あー、……」
 ノアはグラスを置いた。
 もう一度あの言葉を口の中へと戻さなければと思ったところで遅い。台詞は既に夜の部屋に溶け込んでしまっていた。
「なんだろう、上手く言えないや……」
 妙な熱を持った双眸を押さえながら、ノアはじっと思考に浸ろうとした。吐いていい言葉と悪い言葉の区別がつかなくなったらおしまいだ。急に口をつぐんだ自分を見て、ラスターは少し不思議そうな顔をしている。酒に頼らなければよかった。やはり不慣れなことはすべきではなかった。
 夜が、ゆっくりと歩いている。昔恐れていた暗闇が遠巻きにこちらの様子を窺っている。
「自己満足でもいいじゃないか」
 僅かな灯火から声がした。双眸はまだ熱を帯びている。ノアはぼんやりとした視界の中でラスターの姿を探した。
「それで救われてる奴は沢山いる。俺もそうだよ」
「ラスターも?」ノアは思わず笑った。光が丸く滲んでいる。
「俺、特になんにもしてないよ?」
「してるよ」
 徐々に、輪郭が明瞭に形を持った。ラスターが真剣な眼差しでノアを見ている。
「単にあんたが気づいていないだけ」
 あの眼差しを、ノアは見たことがある。壊れかけた錠前を解除するとき、ラスターはああいう顔をする。思わずノアは自分の胸元に触れてみるが、そこには何もなかった。立派な南京錠どころか、鍵穴の存在すらなかった。
「あんたは両手で水を掬ったとき、零れた水を見て悲しんでいる。真に見るべきは手の中にある水だ。あんたは賢い。自分の力を駆使したところで救えない奴がいるって分かってる。だけどあんたは、現実に自分が救った奴のことが見えていない」
 ラスターはノアのグラスに再び水を注いだ。
「俺のこととか、ね」
 彼の目の中で炎が揺れた。あの真剣な眼差しは最初からそこになかったかのようにして、ラスターは微笑んでいた。代わりに、彼の目には妙な自信が満ちていた。ノアはなんだかおかしくなった。
「口説いてるみたい」
「へぇ? もしかして惚れちゃった?」
 いよいよノアの口元から笑い声がこぼれる。
「惚れはしないけど、嬉しいよ。惚れはしないけど」
「繰り返さなくたっていいじゃないか」
「そうじゃないと、君は本気になっちゃいそうだから」
 膨れた闇が去って行く音がする。ノアは水を飲んだ。酔いの残骸が身体の下へと沈んでいく気配の中、まだ憂鬱がこびりついているのが分かる。
「お酒に悲しみは溶けないんだね」
「溶けたら楽だったんだけどな」
「でも、君が来てくれた」
 ラスターはちょっと目を反らして、何かを考える素振りをした。再度テーブルに視線を移し、彼はもう一度ノアの顔を見つめた。
「……口説いてる?」
 ノアは、黙したまま微笑んだ。


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気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)