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【短編小説】花弁をこじ開ける

(注:この文章は静物画「花弁をこじ開ける」のカンバスの裏に書かれた文章の欠損部分を、フレッド・J・エイクハーストが補完したものである)

 その油絵画家が評価されるようになった原因は、恥ずかしながら私にあると言ったら皆は驚くだろうか。なんてことはない、私は彼の友人だった。だった、というのは今は絶縁しているが故のものになるが……。
 
 と、まぁこんな感じで調子に乗って都合の良い解釈をあたかもそれが正解であるかのように語る元・友人へ告ぐ。君はいくつか酷い勘違いと馬鹿馬鹿しい思い込みをしているようだ。

 まず一つ目。君のしたことはまだ柔らかく閉じているバラの花弁をこじ開けて、花が咲いたと喜んでいるようなものだ。もしかしたらそのバラは元より開く予定がなく、君の助けがなければ瑞々しい花弁を空へ広げる予定はなかったかもしれぬ。しかし君は、そのバラのつぼみがゆったりと膨らむ様子や、やや照れくさそうに花開く瞬間といったものを無残にも奪い尽くし蹂躙したのである。そのことを知らずに自分のおかげで花が咲いたと手を叩いて喜ぶ様子は本当に滑稽で、私は君を哀れに思ってしまう。

 次に二つ目。先ほど少し触れたが、君が花弁をこじ開けてしまったことにより失われたものも多々あるのだ。勿論君が花弁をこじ開けなければ得られないものもあったかもしれぬ。しかしそれ以上に失われたものが多すぎるのだ。バラの蕾が膨らむ様子は花が開いて以降見ることができないように、芸術家がその瞬間にしか生み出せない作品という可能性を君は粉々に砕いてしまったのだ。

 そして三つ目。君は花弁をこじ開けた結果花が咲いた、花が咲いたのは自分のおかげだと、ふんぞり返っているようであるが、私はそれを真っ向から否定する。君が無理矢理にこじ開けたバラは、自らの力でその歪みをなんとか元に戻そうと藻掻いたのである。間違っても君の成果ではない。繰り返す。間違っても君の成果ではない。君のしたことは明らかに必要のなかった攻撃であり、それは酷く暴力的で独りよがりで、最低最悪なものである。尤も、君にはその自覚がないようだがね。だから友達が減っても平気な顔をしているのだろう。君は自分の壊した玩具が何故壊れたのか理解できていない子供とそっくりだ! そしてその壊れた玩具に興味を失い、二度と関わろうとしないところまで!

 さらに四つ目。本当に「恥ずかしながら」と思っている人間であれば、何もかもお構いなしに自分の暴力を誉れ高く語り歩くことはしない。大抵の人間は、そういった己の恥を極力他人の目に触れぬようにして、心の奥底へとしまい込み、怯えたそぶりを見せぬようにして振る舞うのだ。「わたくしはそのような物を持っていませんよ」という風にしてね。

 最後に五つ目。君は何か物を喋る前にその言葉が相応しいか否か、そもそもその発言を投げるのが必要になるかどうか自体をよく考えるべきである。今回、運良くバラは枯れずに済んだと思え。世の中を広く見れば君のせいでダメになった者の方が遙かに多いのだ。数多くの失敗は僅かな成功の前では大した物ではないというが、如何せん君の場合は街をまるごと燃やし尽くしている炎を使ったら美味しいベーコンエッグができたと言っているようなものである。

 私は君とは絶縁済みであるため、君の被害に遭うことは二度とないだろう。だが君の傍若無人な振る舞いで私と同じ、どころかもっと酷く傷つく者が出てくるのはいたたまれない。私のことは大いに嫌ってもらって結構であるが、君自身の振る舞いに関してはベーコンエッグを囓りながら考える必要があるということを肝に銘じておくように。



   解説

 静物画「花弁をこじ開ける」の作者エリック・ハイドは長年親しくしていた友人に暴言を吐かれたことによる精神的苦痛が原因で作風が変わり、皮肉にもその影響で人気が出た画家である。彼に暴言を吐いた友人はそれを「自分のおかげ」だと周囲に吹聴して歩いていた。ついにその友人の言動がエリックの耳に入り、激怒した彼が描き上げたのが「花弁をこじ開ける」だ。元々エリックが自身のことを「私は芸術家ではなく、ただ絵を描くことしか知らない男である」と称していたことからも分かるとおり、彼は友人に吐かれた暴言による心の傷を、絵に昇華することによって癒そうと躍起になっていただけなのである。騒動前に手がけていたいくつかの絵画をエリックはなんとか完成させたかったようだが、結局仕事絵以外の、エリックが本当に制作したかった絵画は全て未完成のままとなっている。このことも、エリックの心に暗い影を落としたのだろう。自身のスケッチブックにこのような言葉を残している。
「私が受けた傷は私の筆を折るまでには至りませんでしたが、私自身の作風をおかしくしてしまったことに代わりはありません。私はもう、かつてのような花々を描くことはできないでしょう。しかし人々は私の苦しみに理解が及ばぬようです。『なんだ、エリックは描けるのか、よかった』と胸をなで下ろすばかりで……」
 一連の騒動でエリックが精神病院の世話になっていたことは、人物画「スィパール精神病棟の看護婦」からも分かるとおりであるが、エリック自身は病院の世話になっていることをあまり語りたがらなかった。彼が病院にかかっていることを知っていた人物は多くなく、そのうちの一人に画家のアルフィー・エドワード・ハワードがいる。親友ともいえる存在であったアルフィーに、エリックはこのような手紙を送っている。
「近頃ようやく精神不安の大半が私の中から出て行って、随分と身体がよくなりました。しかしまだ私の中にこびりついている痛みというものは、梃子てこでもここを動かぬと言って聞かないのです。……(中略)……私は君に『何も心配はいらないよ』と言うことでしょう。これは本心ではありますが、実際のところ、胸を張って完治したと高らかに謳うことは一生掛かってもできそうにないのです」
 エリックは自分そのものはあまり好きではなかったらしく、自画像を残すことはなかった。しかし芸術に対しては強い愛と誇りを抱いており、彼は時折創作意欲や創作する者をバラに例えることが多々あった。彼が生涯で描いたバラの絵はスケッチブックの切れ端を含めて数万点にも上るが、その中の大半は当時活躍していた芸術家たちの暗喩であり、特に気に入っていた詩人ターナーをモチーフとした「箱庭~最も敬愛する詩人へ~」は現在でも高い評価を受けている。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)