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【短編小説】鍍金の豚

 今もそうなのだが、一番好きな動物が「豚」だ。世の女性たちに「君って豚みたいだね」と言ったら大半は烈火の如く怒り狂うと思うが、かつての私はそう言われると嬉しかった。愛想のいい顔にふくふくとした体。くるんとまるまった尻尾もかわいい。だから小学校に入学したときに私のことを「ぶた」と言ってからかってきた男子が、先生に怒られているのを私は不思議な気持ちで眺めていた。自分の顔は好きだ。私は母親似らしく、父親は眉毛がすごく濃い人だったので「お母さんに似てよかったね」と言われた。私は自分の顔が母に似ているのが好きだった。母は笑うとすごくかわいいのだ。なんだかこの世に悩みの一つもないような、本当に幸せなんだなという顔でにこにこと笑うのだ。まるまるとした顔、ぱんぱんの頬。細い目に団子っ鼻……と、世の中でカワイイともてはやされている女優たちとは対極の位置にある顔だが、私は母の顔が好きで、それに似た自分の顔も好きだった。「美雪は本当に美智子さん(母の名だ)に似ているけど、笑うと本当にそっくりだわ」と伯母に言われたときはもう跳び上がるくらいに嬉しかった。
 美醜の基準など容易に変わる。小学校で私はいじめの崖っぷちにいた。先ほども少し触れたが、事あることに男子が私の事を「豚」と言ってからかい、先生が怒る。いくら好きな動物であってもその「豚」という文字が私のことを揶揄しているというニュアンス自体は幼い私にも伝わった。自分が豚と呼ばれること自体ではなくて、私が大好きな母と豚が馬鹿にされていることが辛かった。なんとかしてこの状況を脱しなければと考えた私は、男子が私の事を「豚」と呼ぶ度に「どすこい」と返事をした。これが大ウケで、私のあだ名は豚から「相撲取り」に変化した。傷つきそうな柔らかい場所に触れられないよう、攻撃を逸らすのが私に出来る唯一の護身だったのだ。それと、幸い女友達には恵まれて、彼女たちからは「みゆきちゃん」「みゆちゃん」なんて呼ばれていた。「ブタよばわりなんてひどい」と憤慨する彼女たちも、豚を悪く言うことには抵抗がなかったらしい。
 私は「相撲取り」のまま、二年生、三年生になっていった。田舎の学校だからクラス替えなんてものはない。その頃にはもう体格もよかった(私の名誉のために言うが、体重は適正だった。ただ身長が平均よりも高かったのだ)ので、からかってきた男子を軽く突き飛ばして「なによぉ~!」とか言っていた。相撲の張り手の真似をして「どすこい!」というネタはいつでも大ウケだった。調子に乗った男子が「みゆきやまァ~」なんて掛け声を出した日にはクラスの全員が笑った。相撲取りと言われることには慣れていた。張り手の動作をすることにも慣れていた。


 小学校五年生の夏休みが終わった頃、クラスに転校生がやってきた。
 先生は黒板に「神山美幸」と書いて、転校生を紹介した。彼女は都会からやってきた美少女で、垢抜けていてクラスでは少々浮いていた。ぱっちりと開いた二重の目に、すっと通った鼻筋。唇は適切に弧を描き、ふっくらとした感触が見ただけでも伝わってくる。ああいった女優をテレビで見たことがある、と私は思ったが肝心の名前を思い出せなかった。男女問わずこんがり焼けた五年一組の教室の中で、日焼けしていない彼女は病弱にも見えたが、実際はそんなことはなかった。
「神山美幸です。父の仕事の都合で引っ越してきました。慣れないことがたくさんあると思いますが、よろしくお願いします」
 そう言って彼女がぺこりと頭を下げたとき、綺麗な髪留めが見えた。このド田舎の商店街では絶対に売っていないような、青いバレッタだった。
「ミユキって、相撲取りと一緒の名前じゃん」
 誰かがそんなことを言ったので、私はいつものスイッチを入れた。
「誰が相撲取りだってぇ~?」
 そう大声を出してから、張り手をする動作をする。クラスは大笑いだった。先生が「静かにしろ」と言う。それを神山美幸は奇妙な表情で見つめていたのが不思議だった。


 ほぼ毎日のように相撲取りになっていた私は、翌日も翌々日もそれで笑いを取っていた。教室の後ろには皆の自由研究・自由工作が並んでいて、私は豚の貯金箱を作っていた。貯金箱のパーツの外側に紙粘土を貼り付けて絵の具で綺麗に色を塗っただけの簡単なものだ。おなかにはお金を取り出すための蓋が着いている。名前は勿論笑いを取るために「貯金箱山どすこいたろう」にしてあるがこれは仮名で、本当の名前はスノーである。私の「美雪」から一文字あげたのだ。
 残暑厳しい夏の日のことだった。空には入道雲がそびえていた。
 相撲取りの真似事をする私の後ろで、神山美幸の綺麗な声がした。
「ねぇ、どうして下沢さんはいつもお相撲さんの真似をしているの?」
 その質問に答えたのは彼女と仲のいい女子だった。
「似ているからだと思うよ。実際言葉の返しとか、動きとか……面白くて人気なの」
 神山美幸はそうなのね、と言って納得した。
 彼女は遊ぶつもりだったのだろう。初めての遊びを目にした子供が「ぼくもやってみたい」と言うようにして。
 一言一句、今でも思い出せる。
「確かにぶっくりしていて……でも、どちらかと言うと豚みたい!」
 私は一瞬虚を突かれた。その「豚みたい」という言葉は私にとって一番嫌な言葉で、私の心の一番弱い部分を的確に貫く言葉だった。私は慌てて何か返さねばと頭をフル回転した。
「流石にそんなことを言うのは失礼だぞ!」
 馬鹿にされたとき、怒るフリをする。テレビの中で芸人がよくやっている手法だ。だが神山美幸にはそれが通じなかった。私がこうなった過程を知らない彼女に加減というものはなかった。

「実際、豚みたいだよ。そうやって鼻の穴を広げてフンフン言って怒るところとか」

 林檎を磨く力で桃を磨いたらどうなるか知らないのだろうか? 彼女は私が「どすこい」と言うのと同じノリで私を「豚みたい」と言ったのだろう。教室は笑いに包まれた。私は顔を赤くして、「怒った! どすこい!」と言って必死に豚を護ろうとした。しかし鍍金めっきは既にはげていた。中身はもうぐちゃぐちゃだった。
「なぁ、ブーブーって鳴いてみてよ」
 同調した男子がそう言った瞬間、私はもう耐えられなかった。私はブーブー鳴く代わりにわあわあと泣いた。教室中が何事かと一瞬ざわめいた。クラスの大半は私が何故泣いたのかを理解できていなかった。
 鍍金めっきの豚はわあわあ泣いた。わあわあ泣いて初めて気がついた。中身はとっくに錆びていたことに。錆びてボロボロになっていたことに。いいや本当は気づいていた。とうの昔に気づいていた。錆びた豚はそれしか知らなかった。鍍金めっきを塗るしか知らなかった。
 神山美幸が慌てて私を慰めようとしたが、私はその手を払いのけた。神山美幸は都会の子だ。田舎で走り回っていた私とでは力の差がありすぎた。私は私の思った以上の力で神山美幸を払いのけ、彼女の細い体は思いっきり吹っ飛んだ。彼女の体はランドセル入れのロッカーの上へ上半身を投げ出す形になり、その際いくつかの作品が巻き添えになって倒れた。その中には私のスノーもいた。スノーは丸くて良く転がった。壁にぶつかり跳ね返って、教室の床にたたきつけられる。
 紙粘土がぱっくり割れて、プラスチックの中身が教室の床に転がった。
 私はあれよあれよという間に保健室に連行され、私のいない教室では何があったのかを見ていない。保健室の先生に何か話したような気もするし、何も話さず黙って早退した気もする。ただ、その日の夕飯は私の好きなハンバーグだったことは覚えている。味がしなかったのでとても悲しかったのだ。

 次の日は学校を休むわけにもいかなかった。母も父も「無理せず休んでもいいんだぞ」と言ってくれたが、この程度のことで休みたくないという小さなプライドが私を学校へを向かわせた。それで、私は教室に入れずにぼーっと扉の手前で立ち尽くした。
「でもさ、今までずっとさー、自分は相撲取りです! どすこいどすこい! って喜んでやってたのに、今更豚って呼ばれただけで泣く方がおかしくないか?」
「何がダメだったんだろう、わかんねーなぁ」
 このまま帰ろうか、と一瞬悩んだが、私は意を決して教室に入った。男子がさっと視線を逸らした。
「おはよう」
 威圧的にそう言うと、お調子者の一人が言った。
「今日はどすこいしないのか? 引退か?」
 教室から小さな笑い声が漏れて、私がまた顔を真っ赤にしたとき、
「いい加減にしなさい!」
 と、机を叩く者が居た。
 神山美幸だった。
 教室は水を打ったように静まりかえる。都会からやってきた美少女転校生という希少価値あるクラスのマドンナの話であれば、みんな話を大人しく聞くらしい。呆気にとられている私の前につかつかと歩み寄ってきた神山美幸は、私の前で勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい」
 ド田舎の商店街では絶対に売っていないような髪飾りが見えた。今日はピンクのバレッタだった。
「あなたがそういう振る舞いをしているから、あのくらいなら平気だって思ったの。でもいくらなんでも言い過ぎだった。本当にごめんなさい」
 顔を上げた神山美幸は私の目を凜と見つめた。
 よく見ると、彼女は手に何かを持っていた。私が彼女を突き飛ばしたせいで壊れてしまった貯金箱だった。
「豚みたいって言ってごめんなさい。あなたとあなたの好きなものを馬鹿にしてごめんなさい」
 貯金箱は修繕されていた。ペールピンクの体には紙粘土のつぎはぎが少々目立ったが、壊れる前と遜色ない出来映えだった。
 神山美幸は私に貯金箱を手渡した。私は貯金箱の腹の部分を見た。提出時には「貯金箱山どすこいたろう」で申請した、私の大事な貯金箱の本当の名前。爪楊枝で掘った「スノー」の文字を、神山美幸は見つけていたのだ。
「あ、あの、わ、私も、突き飛ばしてごめんなさい、ヘンに力が入っちゃって、怖い思いさせて、ごめんなさい」
 私が覚えている神山美幸の言葉は、先ほどの一言の他にもう一つある。
「いいの。全然いいの。私には怪我はなかったんだから」

 神山美幸は翌年の夏、小学校六年生の夏休み前に、再び父親の仕事の都合とかで転校していった。転校する前に、彼女は再び私に謝ってきた。私はもう大丈夫だよ、と言った。あの一件以降、女子たちは結束して私の事を護ってくれた(そこまでしてもらわなくても大丈夫ではあったものの、やはり彼女たちにも思うものがあったのだろう)し、まともな男子たちは私の事を相撲取りと呼ばなくなり、「雪」なんて呼んだ。ちなみに神山美幸のあだ名は「さち」だった。ミユキと呼んだら二人振り向くからやむを得ない。
 神山美幸はお別れに、と小さな袋をくれた。かわいい豚の絵が描かれた不織布で作られた袋の中身を、私は学校から帰ってから開けた。中には彼女の新しい住所が記載された手紙と、小さな豚のキーホルダーが入っていた。
「本当はピンクがよかったんだけど、こういうのしかなかったの」と手紙には記されていた。
 金運を呼ぶ幸せの豚は全身を金色の塗料で包んでいて。嬉しそうに四つ葉のクローバーの形をした石を抱えていた。私はそれをスノーの隣に飾って、時折手紙を送った。手紙はメールになり、LINEになり、私は今日初めて東京へ行く。新幹線の中でスマートフォンに通知が来た。神山美幸の写真。駅に降り立ったら彼女を探さねばならない。できるだろうか? 都会初心者に。

「迷子になったときには助けてね」と返信を送る私のスマートフォンには、クローバーの石を抱えた金色の豚がぶらさがっている。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)