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【短編小説】画家と少年

 青年画家は自分という存在がまだこの都会になじんでいないことを自覚していた。例えばこの街が夕焼けの光を浴びているとき、住民たちもまたその光を受けて黒いシルエットを残したり、自分の服や肌にオレンジの色を重ねたり、影を伸ばしたりする。しかし青年画家にはそれがうまくできないのだ。自分の影は縮こまったままで、服も肌も昼間の光を浴びているかのような色彩を持ち、下手したら地面に足が着いていないような、そんな違和感を抱えながら日々を過ごしている。田舎町の学校で「君には絵の才能がある」と褒めた先生の言葉をそっくりそのまま鵜呑みにして彼は都会へと飛び出した。元々絵は好きだったので丁度良かったのかもしれない。果たしてこれを素直と取るか馬鹿と取るかの判断は、まだその材料が揃っていないがために不可能である。

 青年画家は時々街の広場へと足を運んだ。中央に噴水が置かれ、周囲には花や木々が植わっているよくある広場だ。ベンチにはカップルが一組座っていて、何やら互いの手を弄りながら不明瞭な会話をしている。手回しオルガンを持った老人がやってきて、演奏を始める。すると広場のあちこちで遊んでいた子供たちがわっと飛び出してきて、老人を囲む。オルガンの演奏にじっと身を委ねる子供たちの傍で、カップルの男が女に何かを伝えた。女はそれを聞き取れなかったらしい。「なぁに?」と唇を動かし、男に頬を寄せる形となった。男は女の頬に強烈な接吻を落とした。
 青年画家はふと、広場の目立たない場所で物乞いをしている少年の存在に気がついた。彼だけは手回しオルガンの音で満たされた広場から、自身の存在を切り取り、まるで都会になじめぬ青年画家のようにして振る舞っていた。彼の座るすぐ傍には錆びた缶があって、青年の位置からは中身が見えなかったが、大した額は入っていないだろうと思った。
 青年画家は興味本位でその乞食の少年へと近づいた。
「おねがいします、おめぐみをおねがいします」
 少年はそう言って缶の中身を示した。錆の色とよく似た銅貨が数枚入っている。
「妹もいるんです、おねがいします」
 青年はそこに銀貨を一枚入れてやった。少年は銀貨を見て、青年の顔を見て、それで更に銀貨を見た。
 絶望と名付けられた自画像のような顔で、少年はお礼より先に「いいんですか?」と確認を取った。青年画家は手をひらひらとさせて、構わないと告げた。少年は大きな声で「ありがとうございます!」と頭を下げたが、その声は手回しオルガンに阻まれて、広場にはちっとも響かなかった。

 青年画家がこの街に来て数ヶ月が経った。画家として成功しているかは判断に困るところであるが、パトロンが二人ついたことを考えると画家としては十分に幸福といえる。運が良かったともいえるだろう。
 この街には画家を目指す者が毎年何人もやってきて、その大半は現実という容赦のない影にもみくちゃにされて傷心のまま故郷に戻るか、他の職にしがみつきながらなんとかカンバスに向かうかのどちらかとなる。追い込まれた人間が心臓に突き立てたナイフで描く芸術というのは、時に強烈な輝きを以て鑑賞する者の心をも抉る。しかしそうなってからでは遅いのだ。墓標に向けて「あなたの作品はすばらしい」と言われたところで天国の画家は喜ぶものなのだろうか。青年画家にはまだそれが分からない。いつか誰かに聞いてみたいものだと思う。
 そうこうしているうちに青年画家は久しぶりにあの広場へとやってきた。ベンチにカップルの姿はなかった。手回しオルガンの老人は相変わらず演奏を披露しており、子供たちもやはりその音色に聞き入っている。次はどの音が来るのだろうかとじっと待ち続けるその姿は、獲物を狙う肉食獣のそれとなんら代わりはなかった。青年は近くのベンチに座った。噴水の縁で飛び跳ねていた小鳥が、慌てた様子で飛び立っていった。
 と、青年はオルガンを聞く子供たちの中にあの物乞いをしていた少年の姿を見た。最初、彼はそれを自分の見間違いか、若しくは妄想だと思った。なぜならあの少年は、随分と良い服を着て、まるまると肥えていたからだ。上着の光沢はウールを着潰したものではなく、シルクが放つ独特のもので、青年はますます混乱した。自分はあの少年にそれといった思い入れはなかったが、あそこまで肥えさせるほどの幸福を彼に与えたのだろうか? 青年は膝を揺らして、ひとまず演奏が終わるのを待った。酷く退屈な時間だった。その間青年画家は何も出来なかった。


 演奏が終わり、青年画家はベンチから立ち上がった。そうして少年の肩をとんとんと叩き、帽子を脱いでにっこり笑って見せた。どちらかというと歯並びを見せつけるというのが正しかったかもしれない。少年はどうやら青年のことを覚えていたようだ。
「銀貨のおにいさん!」と少年は言った。
「元気そうだね」と青年画家は言った。「妹さんは?」
「とても元気だよ。ボクたち裕福になったんだ」
 青年画家はほっとした。どうやらこの少年はまやかしでもなんでもなかったようだ。彼は青年画家と同じくらい、あるいはもっと素晴らしい人々の優しさに触れて、健康的に膨れるくらいの余裕をえることができたようだ。広場の片隅で錆びた缶詰を示しながら金を請う彼が、ここまで大逆転できた理由を青年画家は推測できなかったが、まぁ悪いことではないだろうと思った。しかしこれが大きな間違いであった。そして答えはすぐに本人の口から吐き出されることになる。
「おにいさんたちがくれたお金で買った馬券があたったんだ」
 それも斜め上の答えが。
 青年は何と言えば良いのか分からなかった。慌てて振り絞った言葉は「君みたいな子供でも馬券が買えるのか?」だった。
「お父さんの代わりに来たって言ったら売ってくれたよ」と、少年は悪びれることなく答えた。
「へぇ、そうか……馬券が」と青年画家はしどろもどろになった。少年の行いは正しいものとは言えないが、青年画家にそれを叱る権限はなかった。自分を応援してくれるパトロンと幸運にも巡り会えた自分と、裕福になれるだけの金を賭け事で当てた幸運に、一体なんの差があろうか?
 少年は青年画家にいろいろな事を喋った。今まで知らなかった肉の味、シルクのシャツに袖を通したときの感動、雨漏りの不安が存在しない家――彼の口から淀みなく流れる言葉は既に誰かを見下すようなニュアンスが含まれていて、青年画家は悲しくなった。それと同時に、自分は決してこのようにはなるまいと思った。
「賭け事はほどほどにね」と言うのがやっとだった青年画家は、少年に適当な挨拶をしてその場を去った。
「またね、銀貨のおにいさん!」と少年は言ったが、青年画家はできれば彼のその後を知りたくないと思った。

 更に月日が流れ、再び数ヶ月が経過した。人々を疲れさせる暴力的な夏が終わり、街は秋の気配に満ちていた。店の女主人が憂いを帯びた顔で落ち葉を掃除する光景がなんら珍しくなくなってきた頃、青年画家は絵の具を調達しに出歩いていた。大人気画家とまではいかない彼は、しかし幸運にも、絵だけで食えるだけの収入を得ることができていた。実家に手紙を出すとすぐに返事が来た。父も母も喜んでくれた。村に「偉大なる絵の巨匠 エリック・ハイド」の銅像を造る計画が出ているらしいが、それだけはやめてくれ、せめてもう少し待ってくれと言った。美術館から個展をしないかという誘いが来た辺りで手紙を出すから、そのときに検討してくれとやや急いた文字で記した。背伸びのしすぎはよくないということを、この青年画家はよく知っている。
 そしてまた青年画家は広場にやってきた。芸術家に必要なのはその芸術を作り上げるための道具のみではない。ありとあらゆるものを見聞きし、それを自らの血肉にせねばならない。経験を咀嚼し、凝縮し、そして自らの中へと取り込み、貯蔵したそのとき、初めて作品ができあがるのだ。昔読んだ詩人の言葉にそういった記述があった。青年画家はその詩人に陶酔している。
 秋のベンチには随分と前に接吻をしていたカップル――否、女の腹が膨れているのを見るところ、二人はもう結婚しているのだろう。よく見ると二人の薬指には白金の指輪があった。手回しオルガンの老人は変わらずオルガンを回している。子供たちは音楽に身を浸し、妊婦は曲に合わせて優しく己の腹を撫でた。それを男が幸せそうに見つめている。
 その世界から自らを切り取るようにして、一人の物乞いが綺麗な缶を差し出していた。青年画家は見てはいけないものを見てしまったと思った。彼はもうシルクのシャツを着ていなかった。随分と汚れた綿のシャツを身につけて、広場を行く人に「おめぐみを」と言っている。しかしこの広場に頻繁に来る人々は、彼が初夏にどういった服を着て、どういった振る舞いをしているのかよく分かっているのだ。それは広場の木々も同じらしく、少年の頭の上に葉を落としていた。彼は人々の優しさを受け取る方法を知っていたが、受け取ったものをどう扱うかまでは知らなかったのだ。
 青年画家は帽子を目深に被って、その場を後にしようとした。少年は青年画家をめざとく見つけて「銀貨のおにいさん!」と声を上げた。青年画家は足を止めた。優しさとは一体何なのだろうか? といった疑問が己の中で鎌首をもたげた。
 青年画家は少年の前まで行って、缶の中へ銀貨を一枚入れた。そうして少年の顔を見た。少年の顔はぱっと明るくなって、即座に「ありがとう銀貨のおにいさん」と正しいお礼の言葉を述べた。なんらおかしくない、普通の、ありきたりな光景だった。青年は何故か酷く落胆した。
「これが最後だよ」と青年は言った。それが正しい判断なのかは分からないが、銀貨を入れ続けることも同じく正しいとは思えなかった。しかし少年はニコニコしながら「またね」と言っている。青年画家は少年に背を向けて歩き出した。
 石畳の床を歩きながら、そういえば自分は絵の具を買いに来たのだなと思いだし、青年は画材屋へと向かった。女主人はまだ落ち葉と戦っていた。

 冬になり、青年が小さな絵を数枚手がけ、大作がいよいよ形になろうかとした頃には雪が溶けていた。暖かくなった広場には見知らぬカップルや遊びに来た親子連れ、手回しオルガンの老人など様々な人が集まってきたが、青年画家がいくら目をこらしても、何度広場に足を運んでも、そこにあの乞食の少年はいなかった。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)