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【短編小説】お前が私にした仕打ち

 ナツミが泣きながら私に電話をかけてきたのは、日付が変わる頃のことだった。
 風呂上がりの私はバスタオルで頭を撫でながらその電話を取った。時計の針が静かに回る中で、私はナツミの、何と言っているのかよく分からない声を聞いた。
 静音ドライヤーはこういうとき便利だ。また同時に不便でもある。
 私は「うん、うん」と相槌を打ちながらナツミの話を適当に聞いてやって、時々「そうだねー」「つらいねー」と言葉を添えるだけで良いと思っていた。だが今回ばかりは事情が違った。最初はナツミの可哀想な失恋話で始まったはずだった。しかし話題が転換したとき、彼女は多少落ち着いていた。私はこのときドライヤーのスイッチを切った。髪はまだほんの少しだけ湿っていた。
「それでさ、エリコは覚えてる? 伊藤麻美いとうあさみのこと」
「え? あー、うん。なんとなくは」
「アイツ、小説家になったらしいよ」
「マジで?」私はドライヤーのコードをくるくると巻きながら返事をして、スマートフォンの充電の残量を確認した。残念、六十四パーセント。
「それがどうかしたの?」
「どうかした、じゃないの!」私は慌ててスマホの音量ボタンを長押しした。ナツミの声がフェードアウトした。一瞬静かになった部屋をマズいと思った私は、今度は丁寧に音量をあげたら
「……らアタシがアイツのこといじめたの小説のネタにしてるんだよ!」
 ナツミの声がまた潤みだした。どうして彼女はこんなに情緒不安定なのだろうか、と思う。
「買ったの?」
「違う。ウェブで連載してるの。今URL送るから」
 いらないなぁ、と思ったが、私の悪知恵はこの瞬間働いた。
「ありがとう。ちょっと読んでみる。読み終えたらまた電話折り返すから」
「分かった。早く読んでね」
 おお、今日のナツミは素直だなと私は感心した。電話を切ってから、私はナツミに紹介されたURLにアクセスする。
 ――伊東真実いとうまみ
 名前が違う、と思ったが掲載されている写真が本人の物だった。少し調べると、彼女は「いじめ」をテーマにした短編をいくつも発表しているらしい。そのどれもが被害者の心情をリアルに表現しているということで、賞賛の声が上がる一方で「生々しい」といった批判の声も少し上がっているようだった。
 私はそれを全て読んだ。気がついたら朝になっていた。伊東真美という作家が作り出した短編は、確かに子供時代の私たちが存在した思い出の欠片が、あちらこちらに点在する世界観だった。


 伊藤麻美は内気な少女だった。
 小学三年生といえば何だかんだでまだまだ遊びたい盛りで、みんなプレイホールやグラウンドに飛び出して、鬼ごっこやサッカーなどで遊ぶのが通例である。私もナツミたちと一緒に体育館で走り回っていた。楽しかった思い出だ。
 アサミはそんなクラスメイトのことは気にせずに、黙々と何かを書いて遊んでいた。
 当初、私たちはアサミに声をかけた。いっしょにおにごっこしよう、とか、かくれんぼしよう、とか、そういったたわいもないお誘いだ。アサミは困ったように笑っていたが、ナツミが彼女の手を引いた。
「一緒にあそぼ」
 アサミは渋々、といった様子でナツミに従い、鬼ごっこをする羽目になっていた。私はその時、別に何も思わなかった。「誘ってもらえてよかったね」くらいの認識でいたのだ。
 何度か鬼が変わり、ナツミの気が済んだらしい。「あつまれー!」の声で集まった私たちは、ふとアサミがいないことに気がついた。私たちは体育館を探し回った。体育館の外には出ない、ステージやステージ裏には行かない、といったローカルルールが存在したのだが、私たちはアサミにそれを説明していなかった。
「アサミちゃーん、どこー?」
 心配そうなナツミがあちこちを探す。私もステージに登ってアサミを探した。どこを探しても居なくて、途方に暮れた私たちは大人しく教室へと戻った。
 すると、そこにアサミが居た。
 アサミは私たちの目を盗んで、教室に戻っていたのだ。
「何で勝手に戻ってるの!?」
 ナツミの鋭い声が飛んだ。
 アサミは困ったように笑うだけだった。
 私はその時、彼女の手元に書かれていたノートの文章を覚えている。あれは小説の類いで、兎と鼠がおとぎの世界を冒険するファンタジーだった。私はそれを特別読みたいとは思わなかったのだが、興味を持ったのは事実である。
 ナツミの怒声とアサミの笑顔は、グラウンドで遊んでいた子たちが戻ってくるまで続いていた。ずっと、ずっと、続いていた。
 いじめの始まりに理由はないという説がある。それを聞く度に「ただなんとなく」という理由で無視や暴力が始まってはたまったもんではないな、と思う。アサミがいじめられたのにはれっきとした理由があった。おにごっこを勝手に抜けたのだから嫌われて当然だと思う。
 ただ、ナツミの行動は行き過ぎているとも思った。
 ナツミは狡猾な子供だった。本当に嫌な奴だった。人間にはこんな醜い一面があるのかと私は驚愕したものだ。ナツミは人前ではアサミのことを決していじめない。親や先生の前ではいい子を演じる。大人たちの信頼を勝ち取ったナツミは、それを盾にアサミをいじめたのだ。
 物を隠すとか、壊すとか、通りすがりにちょっとぶつかるとか、そういった事を当たり前のようにする。影でアサミのことを「ブス」「ネクラ」と呼び、存在しないかのようにして振る舞う。アサミが「○○がなくなった」と先生に相談し、先生が皆に尋ねると、ナツミは「学活の時間を使ってアサミさんの○○を探しませんか」とか言う。先生はナツミの行動を褒める。
 徹底っぷりが完璧すぎて、私は恐ろしくなったものだ。
 私は一度、アサミが担任に「ナツミさんにいじめられています」と訴えているのを見たことがある。しかし担任は全く取り合わず、アサミは失意の中職員室を去っていった。そのときのアサミの後ろ姿と似た風にして歩く小学生を、私は時折見かけることがある。私はアサミを庇わなかった。対岸の火事は眺めているのが一番よいのだ。うっかり近づいて燃え移ってしまったら大変だし、そこまでしてアサミを庇う理由もない。暗闇の中でアサミが燃えている。そこにナツミが薪を入れる。私はその炎が余計なところに燃え移らないように警戒しているだけでよかったのだ。薪を新しく投げ込む人が増えないように、アサミを守ってあげるだけでよかったのだ。
 ……よかったはずだったのに。


 私はナツミの主張に同意できなかった。
 ――アタシがアイツのこといじめたの小説のネタにしてる。
 伊東真実の書いている小説が私たちを糾弾しているとは思わなかった。残念ながらこの話は全国、いや、世界中でしょっちゅう発生している行為なのだ。靴を隠すのも、わざとぶつかるのも、無視をするのも、嫌なあだ名をつけるのも、陰口をたたくのも、ナツミの専売特許ではないのだ。
 だけどナツミはヒステリックに叫んで、何が何でも伊東真実に話をつけると言って聞かない。私はそこに同席して、ナツミとアサミのZoom会議を見守る羽目になった。
 ナツミが暴走して、アサミを傷つけないよう見張るために。
 ナツミはwebカメラをオンにしていたが、アサミは――否、マミはカメラをオフにしていた。
「久しぶり」
 あの頃より少し低くなった声が、パソコンから響いてきた。私はぺこりと頭を下げた。
「通話断られると思ってた」
 にこにこ笑うナツミは、そのまま本題に切り込んだ。アサミの小説を読んだこと、その小説に自分のことが書かれていること、ともかくその二点を丁寧に告げた。ナツミがヒステリックにならないように見張るのは私の役目である。それは今も昔も変わらない。
 するとアサミは、心底感心した様子で呟いた。
「すごいね、あれを全部自分がしたことだって自覚があったんだ」
 かつてのアサミなら、そんなことは言わなかっただろう。私は口腔に溜まった唾を飲み込んだ。私やナツミの背があの頃より伸びたのなら、アサミも同じに決まっている。伊藤麻美は私たちの知る伊藤麻美ではなくなっていたのだ。ナツミはヒステリックにあれこれ並べ立てていたが、アサミはそれをひとつひとつ丁寧に切り捨てていった。ナツミはついに酷い暴言を吐いて部屋を出て行った。
 取り残された私はなんとすればいいのか分からなかった。
「あの、なんか……ごめんね? でも、ナツミのことを悪く思わないで。あの子昔からあんな感じ……分かってあげて?」
 沈黙に耐えられなかった私の謝罪に、アサミがため息をついた。
「本当に、エリコは変わらないのね」
「え?」
「あなたは私の小説を読んだの?」
「よ、読んだよ。まだ全部は読んでないけど、『教室の慟哭』と『カタストロフィパレード』は読んだ」
 何故、私はここで嘘をついたのだろう。何度考えても出てこない問いの答えは考えるだけ無駄だと思う。でも、私は今でも自問する。
 何故、私は「全部は読んでいない」なんて言ったのだろう。
 アサミは「ふぅん」と鼻息を吐いた。
「あなた、もしかしたらナツミより厄介かも」
 アサミは畳み掛けるようにして続けた。
「あ、そうだ。今度単行本が出るの。あなたに是非読んでほしいな。よかったら読んでね」
 そして、彼女は通話を切った。
 取り残された私たちはしばらく静寂に沈んでいた。パソコンの向こうで台パンの音がした。隣の部屋からだ。他でもないナツミの仕業だ。
 ナツミのこういうところが嫌いなんだよなぁと思いながら、私はしばらくそのままZoomを繋いでいた。
 ――単行本が出るの。
 アサミの言葉がこびりついて離れない。脳の一番上のところを、ぐるぐると飽きずに回っている。これは私があいつの本を買うまで続くだろう。観念した私は素直に本屋に行くことにした。月めくりのカレンダーを一枚めくってからだけど。
 本屋に行くのは久しぶりの経験だった。私はすっかり疲れ切った状態で店内を歩いた。一角にコーナーが設けられている。
 伊東真美の初の書き下ろし単行本「お前が私にした仕打ち」を、私はそれとなく手に取って開いてみた。その間に、見知らぬ人たちが彼女の本を手に取ってレジへ向かっていった。
 この物語は、こんな書き出しで始まっていた。

「私はE子。
 イジメの傍観者だ」

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気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)