これって意味ある?は禁句
祇園「都をどり」で見た夢浮橋の美しさに感化されて(その時のエピソードはこちら https://note.com/ponioponio/n/ne1c4e509fa9d )、瀬戸内寂聴さん訳の「源氏物語」を読み始めた。
元々大まかなストーリーは知っていたので、物語を追うと言うよりも言葉の美しさや世界観に触れてみようと思って読み始めたのだけれど。
うん、なかなか、難しい。
何が難しいって、私の乏しい感性と知識では、和歌や文語の美しさを理解できないのだ。
(光源氏の好色ぷりに辟易するのも少しはある。)
今のところ、読んでいてすごく面白い!という感覚はなくて、私の感性で辛うじて感じ取れる雅な京の様子をふんわりと想像するくらいしか読む楽しみがない。一度読むと決めたのでなんとか読破したいらという根性だけで読み続けている。
で、美しさをあまり理解しきれず、夢中になれない状態での読破ははたして意味があるのだろうか、と思ったりもして、ここ2日感くらい考えたのだけれど。
結局、読書にしろ観劇にしろ鑑賞にしろ、
対象 × その時の自分 = 何かを観る、感じる行為
なのだという結論に至った。
要するに、対象物が唯一無二なのと同じように、今の自分というのも、二度と出会えない唯一無二の存在ということ。
その時の自らの感性はその時だけのもので、昨日でも明日でも一年後でもそれは全く別物になってしまう。朝早起きして読むのか、夜寝るときにベッドで読むのか、それだけの差でも同じ感覚、感性とは言えないのだ。
(こういうの、なんか量子力学のどうのこうのみたいなやつで読んだ気がするけど、物理の知識0でもなんとなく感覚でわかる。)
だったら、二度と出会えない今の自分を思いっきり楽しむしかなかろう。あまり理解できないが何となく雰囲気は好きかも、と思ってなんとか読んでいる、今の私。今の私が今感じていることは、明日の私は感じ取れない。
わずかながら空気は感じ取れる、という状態で読むことは、玄人からすれば、これは無意味なことのかもしれないけれど、私にとって、今の自分が読むということが大切なのだ。
関西に住むことになって、都をどりを鑑賞して、そして、源氏物語を読もうと思い立って。
全てがめぐり合わせなのだから、今、この瞬間、このタイミングで読むことに意味がある。
何かを鑑賞する行為に、無意味という言葉は禁句だと、強く思った。
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