春の京都は〜都をどり体験記〜

先日、人生初の都をどりを観に行ってきた。
都をどりは、毎年4月に京都の祇園で行われる舞台で、芸舞妓の舞と音楽を楽しむことができる。始まりは明治時代で歴史は100年以上だが、昨年、一昨年とコロナの影響で中止になった。

そんなわけで、今年の都をどりは3年ぶりの夢舞台。やっと訪れた「春」は、活気溢れて華やかで、それでいて艶っぽく儚くて。
私は、都をどりに高校生のときから憧れていたので、訪れることができただけでも感無量であったが、その大きな期待を上回る素晴らしさだった。

1時間の内容だが体感3分。美しく咲き誇りあっという間に散ってしまう桜のような舞台。

記憶がまだ新鮮なうちに、この感動を言葉にしていこうと思う。


①生身の人間が舞う尊さ

私の趣味は舞台鑑賞で、主に宝塚をよく見ているけれど、それ以外でも舞台は大好きだ。今は舞台映像の円盤が売られていたり、ライブ中継、ライブ配信も盛んだけれど、やはり生で見るのと映像とでは全く別物だと思っていて。

都をどりでも改めてそう感じた。

言ってみれば映像というのは光の集合体を連続して見ているのであって、それを脳が「人間が歌う姿」とか「人間の芝居」と認識しているのだ。

それに比べて、生の舞台というのは、正真正銘、目の前で生身の人間が歌い踊っている。目に飛び込んでくるものだけでなく、空気を一緒に感じることができる。

都をどりでは、実物を見ることがそう多くはない舞妓さん、芸妓さんを直接拝見することができる。

光の集合体をそれと認識していた時とは違い、生身の、実物の彼女たちと一時同じ空気を共有し、彼女たちの芸に身体ごと入り込むことができるのは、生の舞台ならではだ。

美しく装い、華やかな舞台で舞う彼女たちは、見ている私たちを細胞レベルで揺さぶってくる。目だけではなく、肌の毛穴まで反応する感覚。

これは、彼女たちの発するもの全てが、電子的な信号になることなくダイレクトにこちらに伝わってくるからこそだと思う。

もちろん、映像化してくれることによって、出会える芸術の数は圧倒的に増えたし、感動を反芻することもできる。映像自体を批判するつもりは全くない。
というかかなりお世話になっているし。

けれど、やはり、生での鑑賞を前提とした芸術は、やはり生で触れないと本質的な感動は得られないと、改めて感じた。

映像でも美しいが、それ以上に崇高さが、生の舞台にはあると思う。


②追求された美の前では平伏してしまう

都をどりは1時間の舞台だ。冒頭とフィナーレは総踊りで、間に何場か独立した演目が入る。

全てのシーン素晴らしかったが、私が思わず平伏したくなるほど気高く美しかったのが、フィナーレ直前の「宇治浮舟夢一夜」。源氏物語より、浮舟という女性と二人の男性(匂宮と薫)の三角関係を描いたシーンだ。

古典芸術は、何が美しいのかが定義されているが、それは一見、形だけで中身のない凝り固まったもののように見えるがそうではない。型、形式を突き詰めていくと究極の美に出会えると思っている。

緻密に計算され、それでいて毎回ゼロから作り上げるのが古典芸術だ。「創り上げるのではなく、いつだって生み出すモノ」というのは、私の音大時代の恩師の言葉だが、まさに、今この哀しみが生み出され、それがこの上なく美しい、というのが、この「宇治浮舟夢一夜」だった。

浮舟は、夫である薫の帰りを待っているが、そこへ匂宮がやってくる。いけない恋とはわかっていながらも、匂宮へ惹かれてしまう浮舟。情熱的に浮舟を求める匂宮と、冷静ながらも怒りを露わにする薫。

それぞれの心情が、手に取るように伝わる舞は、あくまでも形に忠実で完璧な身のこなし。身体は取り乱さず、けれども心は荒れ、情感を曲線的に表現するとでも言おうか、全てを曝け出さない上品さが絶妙だった。

感情はその場で生み出されるもの、それを美しく舞うには、いつ何時も崩れない舞の核があるからこそで、その核は生み出される感情によってさらに洗練され、本質的な輝きを見せるのだろう。


追求されつくした究極の芸術。

情感と型を、両立と言うよりはお互い作用し合った、至上の美。その美しさには、何も敵わない。

平伏すことしかできないなと、客席で身体が震えた。


③京都という街

今回、都をどりのプログラムも購入したが、700円とは思えない内容の濃さだった。カラー写真と詳しい解説で盛り沢山、素人にとってこういうものがあるとないとでは、ハードルの高さが全然違う。それに加えて価格も良心的となると、感謝せずにはいられない。

プログラムは内容もてんこ盛りだが、その分広告もてんこ盛り。しかもその広告は、おそらく地元祇園の企業。地元全体で、都をどりを盛り上げようという姿勢が伝わってくる。

いつ、誰とでも繋がれる時代に、こういったローカルな輪を見ると、心がジーンとなるのは私だけだろうか。
地域と人、人と人、繋がりの輪があってこその伝統なのだなあとしみじみ感じた。


地域の繋がりが今もなお色濃く生きている街。

京都に訪れると、まるで故郷に来たような気持ちになるのは、繋がりがすぐ側にあるからだろう。


春の京都は、最高に美しく暖かい。

そんなことを思ったひとときだった。

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