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インディゴ・ブルー

 「ハイボール200円」ののぼり、雑居ビルから溢れる灯、達筆なフォントの黄色い看板、艶やかに光るピンク、どこかで破裂したような笑いが聞こえる。歌声が、流行りの音楽が、食器の割れる音が、怒号が、悲鳴が、酒を飲め、とコールが響く。座っているだけなのに、音も声も、色も形も一緒になって、波を作り、椅子を揺らす。テーブルはジョッキから滴る結露か、溢れたビールか、誰かの唾液か、涙か汗か、血か、そのどれもが染みつき、ベタベタしている。昼間の残した温度と古い空調の冷気、煙草の煙と卑猥な言葉と感動と怒りと熱い思いと、注文の声とが混ざり合い、揺蕩い、向こう側に見えていたはずの、壁にさがっているメニューが見えなくなっていた。僕はそこに書いてあったはずのメニューを思い出せない。肉味噌もやしだった気がする。

 決して美しいわけではない景色が、パノラマ画像みたいに広がっていて、見惚れていた。今目の前にある光景なのに、酷く懐かしい気がした。もうこんな夜が二度と手に入らないんじゃないかという気がした。

 厨房から聞こえる喧騒が心地いい。電話が鳴り、揚げ物の油が弾け、食器が触れ、全体が大きく波を作り、僕はまた椅子の上で揺れた。飲み会なんてまた開けばいい。明日も明後日もどうせやるんだ、こんな毎日が続くんだから。明日?今日は何曜日だっけ?明日は何かあったような気がする。腕時計を見ればそこに曜日と日にちが書いてあるから、それを見ればいい。左腕を…

 「大丈夫?次、行くってよ」

 女の顔が目の前にあった。髪が長い、明るい。女はデニムのオーバーオールを着ている。一目で素敵だ、と思った。「それ、欲しい」と僕が言うと、「は?」と嫌な顔をされた。「アンタがくれたんじゃん」と言われてよく見たら、妙に見覚えがあった。

 外に出た。夜はまだ、微熱を残している。会計は、と思ったけど、勝手に抜き取ったらしく、女が僕の財布を渡してきた。財布をジーンズの後ろにしまっていると、どん、と笑い声があった。見ると、10人くらいが立ち止まって喋っている。どこからかやってきた別の店の店員が喋りかけているが、無視して喋る。喋る。誰かは笑い、誰かは泣いて、誰かが励まし、誰かは顔色が悪く、ゲロを吐いて、誰かがそれに付き添っている。一人が、ガードレールに座ってぼうっと何かを見ていた。ダボダボのTシャツの、ロン毛の男。何見てるの?と近寄って聞いたら、白、と言った。その方向を見たら、雑居ビルの看板と、その奥に二階建てのビルの屋上のヘリに、白いワンピースの女が腰掛けて、僕たちを見下ろしていた。

 どっ、とまた笑い声が夜空を割った。集団が移動しはじめたが、ロン毛は動かなかった。行かないの?と聞いたら、顔だけこっちを向けて、焦点の合ってない目で、「俺、一応先輩だよ」と言って、また視線を戻した。視線の先をもう一度見たら、女はいなくなっていた。

 集団について歩いていたはずが、急に辺りが静かになっていた。リリリ、という虫の声が耳が聞こえる。ピン、と張った街頭の真っ直な灯りが、静かに真っ暗な夜を紛らわしている。

 「それでね、カニミソに告られて」

 僕はベンチに腰掛けていた。街灯は、公園の端にあるものだった。女が隣に座って、僕に話しかけている。厚底の知らない形の靴。ひらひらの膝丈のスカート。ふりふりが付いているブラウス。顔立ちは子どもっぽく整っている。でも全部趣味が悪い。

「それでまあ、一応付き合うってなったんだけど。みんなはあんまり好感持ってないみたいだけど、私好きなんだ。ああいう静かな人。ちょっとおどおどしてるところあるけどさ、いい人なんだよ。私、ぐいぐいくる人ダメでさ。静かにシュールな笑いとってくる感じでしょ?私もお笑い好きだし、映画も好きで、話合ってさ。で、気にしてなかったんだけど、何回かデートみたいになってて。で結構話してて夜遅くなっちゃった時ね、うちくる?って言われて!その時はすごく滑らかに言ったんだよ。それでキュンとしちゃってさ、それでついて行っちゃったわけ」

 突然、後ろからうるさい声が割ってきた。蛍光灯みたい、と一瞬思う。

「マジでー?カニミソはやばいっしょ!あいつノリ悪いしさあ、見た目も地味じゃん?でも、まあ、そうか。たまに面白いこというんだよなやっぱ。映画とかすげえ知ってるし。俺も結構知ってると思ってたけど、全然敵わなくてさ。でも二人で喋ってるとすごいいいやつなの。すごい面白くて、俺の知らないこといっぱい知ってて、カフェとかで話す方が好きなんだと思うんだよな。なんであいつ、いつも無理に飲み会来るんだろ、やべ、なんか泣けてきた。あいつ、人と関わるの、すごい苦手なんだと思うんだ。でも、将来そういうのって大事じゃん?だから頑張ってるんだって、言っててさ。俺兄ちゃんもそうで。人と話すの苦手でさ。就職頑張ったけどなかなか上手くいかなくて、兄ちゃん、頑張ってるかな」

「サイトー、うっさいわ。なんでここいんの?あっち行けよ」

 邪険にされたサイトーがやっべ、涙出でくるわ、と言い、くたくたのバケットハットを顔に押しつけて泣きながら、よぼよぼと街灯の方に歩いていく。サイトーがなんとか街灯の真下のベンチに座ると、子猫がベンチの下から出てきて、サイトーに何か話しかけた。サイトーは「じいちゃあん」と泣きながら膝の上に乗ってきた猫を撫でていた。街灯の白い灯が、サイトーに不器用に寄り添っていた。

 「それでね」フリフリの女が頬を赤くし、下を向いてカニミソの話をしている。僕とは目が合わなくなっていた。「カニミソ、エッチすごい上手で」

 トイレ、行ってくるね、と言って僕は公園を出た。振り向くと、フリフリ女はまだ、砂に向かって喋っていた。公衆トイレを除いたら、男と女がキスしていた。男の足元をゴキブリが這って、奥に消えた。

 コンビニの白い灯を見つけて入っていく。トイレで用を足してから、一応ドリンクコーナーを覗いた。オランジーナを買って外に出た。ビニール袋がガサガサ、と言った。それが何故か懐かしい。

 潮の匂いがする。広いコンビニの駐車場に、風が吹き込んで、熱い身体を撫でる。車が通り過ぎる音。喧騒はどこかに消えていた。解放的だった。どこまでも自由な気がした。夜はまだまだ長いんだ。明日もまたあって、また夜が来る。またくだらない具体世界の、偶然の出来事に、ブラウン運動に身を任せればいい。意味もない、他愛もない海の、波の上を浮いて、空の青色が変わりゆく様を、眺めている。波が陽の光を反射して、煌めかせる。その一つ一つを見ることは叶わない。波は寄せては返す、それだけだ。それらを眺めながら、僕は何の歌か思い出せない鼻歌を歌っていた。

 ふと誰かいるような気がして隣を見たら、背の低い女がいて、僕の右手を握っていた。オーバーオールの女。「その歌、クリスマスソングじゃなかったっけ?まあ好きだけどさ、今、夏。」

 思いの外それが嬉しかった。僕はその手を握り返した。きつく握り返したら、「痛いって」と言われた。そうだった。いつのまにか横に来て、彼女は僕の手を握る。その手を握り返すと、痛いって、と少し呆れた顔をするんだった。僕はそれを見るのが好きだった。愛おしかった。くだらないことだ。でもその声が酷くに懐かしく、苦しくなり、目が滲んだ。滲んで彼女の顔が見えなかった。涙が溢れた。思わず声が出た。居酒屋の喧騒みたい。ぼんやりと滲んだむこうに見えるオーバーオールのブルーが、波打っていた。いつか船の上から見た海の、波、その煌めき。

 「逃げないからさ、ちゃんとマスクするんだよ」

 彼女は僕の握る手を解いて、マスクをつけてくれた。届かないから、不恰好にズレたマスクを僕が左手で直した。それでもう一度繋ごうと彼女の手を探したら、もうどこにもなかった。涙を拭ってみたが、右手にはエコバックがさがっているだけだった。

 振り返ると、コンビニのレジの、透明なシートがヒラリと舞っている。もうちょっとだからね、と誰かが言ったような気がした。


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