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小林秀雄から考える「悪口」

悪口を言うこと

今日も小林秀雄の話で申し訳ない気持ちでいっぱいなのだが、何か評価を下したものについて語るときは、彼の批評精神を大いに参考にさせてもらっている。昨日も紹介した小林秀雄『学生との対話』の中から引用する。

批評というのは、僕の経験では、創作につながります。僕は、悪口を書いたことはありません。少し前には書いたこともありましたけれども、途中から悪口はつまらなくなって、書かなくなった。
悪口というものは、決して創作につながらない。人を褒めることは、必ず創作につながります。褒めることも批評でしょう?
僕はだんだん、褒めることばかり書くようになりましたね。
褒めるというのは、医者のほうから言うと、病気を治す方になるのではないですかね。

これを読んだ瞬間から何かの、あるいは誰かの悪口を言うことは一切なくなった。何かについて語る際には良い面だけを伝えるようになった。

悪口とは気持ちいいものだ。口に出せば頭の中では自分を正当化できるし、誰かと共有すればより強固に自分たちを正当化することができる。悪口によって自分を世界の王に仕立てあげることができる。

ニーチェのルサンチマン


これはニーチェのルサンチマン批判のようなものだ。つまり弱者が強者に嫉妬し、恨み辛みや非難を浴びせることによって価値転換を図るが、それは「力への意思」(簡単に言えば「向上心」)を削いでしまうということ。例えば、大富豪を見た貧乏人の中には「きっと大富豪たちは裏で脱税とか闇営業しているはずだ。だったら脱税をしていない私は偉い!」と思い込む人がいるだろう。そうなると大富豪になろう!という「力への意思」は消滅してしまう。

「創作」は「力への意思」によってなされるものだとすれば、小林の言う「悪口というものは、決して創作に繋がらない」という意味もわかるような気がする。

資質という実

また小林の褒める批評精神には「人の資質を育てる、cultivateする」という意味合いが込められている。「文化について」(小林秀雄全作品<17>に収録)の中でこう述べられている。

cultureという言葉は、極く普通の意味で栽培するという言葉です。西洋人には、その語感は充分に感得されているはずですから、cultureの意味が、いろいろ多岐に分れ、複雑になっても根本の意味合いは恐らく誤られてはおりますまい。果樹を栽培して、いい実を結ばせる、それがcultureだ、つまり果樹の素質なり個性なりを育てて、これを発揮させる事が、cultivateである。(中略)
 すなわち、「culture」は、耕す、栽培するといった意味の動詞「cultivate」から生れた言葉である、だから、欧米人の耳には、「culture」は常に耕す、栽培するという意味合の語感を伴って聞える、と言うのである。
(中略)
では私たちは、どうやって自分自身を育てるか。それにはまず、自分はどういう実を成らせる資質をもって生まれているのか、そこに最大級の関心を払い、林檎の種に水を与えたり、肥料を施したりするのと同じように、自分を栽培するという意識をもつことだろう。いったいどんな実が成るのかはまるで教えられていない、そういう何かの種を一粒持たされ、とにかくこの種が芽をふき木となって実が成るまで育てよ、育て方はどういう方法でもよい、ただし絶対に枯らしてはならない、そう言われているのが私たちの人生であり、そういう人生に工夫と努力を惜しまなかった人たちが手にした結果が「culture」と呼ばれる「物」なのである。

自分自身の資質を育て栽培することも大事だが、何かを褒めることでその資質という実を育て、栽培することも同様に大事である。一方で、悪口は実を枯らしてしまうのだ。

もちろん圧政や倫理に即していないことなど、良くないことは批判されるべきなのだが、何かについて評価する際には良い面を捉えるべきだと思う。その対象に良い面がなければ、わざわざ語る必要がないというまでだ。この姿勢は今後も貫いていきたい。


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