「小林秀雄は永遠に新しい!」
今年は小林秀雄の没後40年だということで、講演会が開かれており足を運んだ。
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小林秀雄の全集は一部を除いてほとんど読破したというのは私の数少ない自慢の一つなのだが、それでもこの講演会では多くの発見・学びがあった。
メモ書きにはなるが、その発見・学びを書き留めておこう。
大正期はベートーヴェンが人気だったが、小林秀雄と河上徹太郎によって日本におけるモーツァルトの人気が急上昇した。
小林秀雄の『モオツアルト』の構成は論理的ではないが、それはポリフォニーを鳴らすような形にしたかったのかも知れない。
『モオツアルト』ではモーツァルトの感情に「悲しみ」という単語を使わ、頑なにtristesse allanteを使う。それは万葉の歌人が「かなし」と表現したように、普通の「悲しさ」とは異なる感情を表す。
「かなし」には「小さいものに対する気持ち」、「大切にする」、「悲しい」などの意味を含む。特に「小さいものに対する気持ち」はモーツァルトのディベルディメントにおいて表現されているのではないか。小林秀雄(ランボー)はグレン・グールドに似ている。批評や演奏の対象を直知したものだけ限る。小林秀雄は大阪の雑踏で頭に浮かんだモーツァルト40番から、グールドは掃除機とピアノの音の交わりから音楽のイデアを直観(ゲーテのいう「聴いてはいけないもの」のこと)。また、小林は18世紀を小説、19世紀を批評の時代と、グールドは18世紀を作曲、19世紀を演奏の時代としたことでも軌を一にしている。
グールドは変奏曲が素晴らしい(ゴルドベルク変奏曲に代表) ※地味にブラームスも変奏曲の名手。
以上が講演中の私のメモ書きである。講演を聴きながら何度膝を叩いたことか…。
このAI時代に、小林秀雄を読むことの意義を考えさせられる機会となった。
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