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僕たちの今後を考えるに。映画「モダン・タイムズ」とフーコーの「監獄の誕生」

この内容は映画「モダン・タイムズ」のネタバレを含みます。


「現実」を成立させている条件と可能態としての構造

今回、私は大学での授業を基に考察した記事を作成した。
その授業は多摩美術大学で行われた中村寛先生による「文化人類学」(2023年)の授業で、見出しとなっている「現実」を成立させている条件と可能態としての構造、というタイトルは当時の授業の一部である。

具体的に関心を持った点は、チャップリンの映画「モダン・タイムス」における現代人の機械化された身体に対する考察、現代社会における人間の価値や尊厳、人間性の喪失についての話や、ミシェル・フーコーのポスト構造主義についてふれ、著書「監獄の誕生」等をあげながらパノティコンの学習をしたところだ。
 私たちは、現代社会という時代を生きていて人間とは何かを幼少期から随分問われてきた世代だと思う。戦争やレイシズム、フェミニズム、性自認や働くことだけではなく個々の在り方について考え止まない議論を繰り返してきた。私はまだこれらの問題の終着点は見えないが、このような授業を通して改めて人間とは何か、「現実」はどう存在しているのか、どう考えれば解決の糸口が見つけられるのかを考えることが出来たと思う。


「モダン・タイムズ」における主人公の機械化された身体

 ではまず「モダン・タイムス」について書こうと思う。
この映画を観たことがあるだろうか?私はずっと観たいと思っていて、この授業で初めて観ることができた。
 あまりにもよくできた現代社会の工業化・資本主義・経済構造批判作品であり感動した、というのが率直な感想だった。時間に支配された社会がやってきて、そこに人間も歯車の如く組み込まれてしまい身体は機械化される。しかし、そんな労働をする人間は狂人へと変わり新しい人生(共産党)を歩み出す。後に逮捕されて「監獄」と「社会」との違いが風刺として描かれるのだが、あまりにもその時代を象徴した作品になっていた。チャップリンの豊かな身体表現と相まってとても面白かった。

人間の身体の進化や変化についての視点から、現代社会における身体の制約や可能性について探求する

 ここで疑問に思うのは、監獄とは何か?だ。
「モダン・タイムス」ではもはや現代社会の方が監獄のようだった。むしろ監獄の方が幸せそう。よく身寄りがなくなったり、仕事や家をなくした人が刑務所生活をしたいがためにわざと犯罪を犯すという話は聞くが、世間一般的に考えると刑務所に入りたくないというのが常識だと考える。
この監獄について理解を深めるために私は授業でも取り上げられたフーコーの「監獄の誕生」について考えてみようと思った。

監獄の誕生

 フーコーの「監獄の誕生」ではまず刑罰が身体刑から精神刑に移行したことが述べられている。身体刑は君主権の象徴であり、その苛酷さは君主の権力を再興し恐怖を与える祭式として行われた。しかし、18世紀の改革者は身体刑の改革を求め、経済的な動機から「より良く処罰する」ことを提案した。彼らは、恐怖を身体ではなく精神に焦点を置くべきだと。フーコーによると、これは単純な一連の出来事ではなく、18世紀の改革者の構想として複雑な過程であったと述べられている。
 しかし、改革者の期待に反し、監禁が主流な刑罰形態となり、監獄が社会の中心的な位置を占めるようになる。改革者は精神的な刑罰を求めていたが、社会の実践は監禁を中心とした刑罰形態に移行してしまったと述べられている。
 ここでパノプティコンという支配モデルが参照される。パノプティコンは、人々を監視するために作られた理想的な建築だ。これは、円形や多角形の建物で、中央に見える中央塔(看守)が特徴。この中央塔からは全体を見渡すことができ、周囲の細かなセルや部屋に収容された人々を監視することが可能である。
 重要な点は、監視者が中央塔に配置され、被監視者が自分が見られていることを意識する一方で、具体的に誰が監視しているのかは分からないということだ。この構造により、被監視者はいつでも監視されている可能性を感じ、自己規制や行動の変容が促されるとされている。
 フーコーはパノプティコンを通じて、監視が権力の効果的な手段として機能する仕組みや、社会的な監視が個人の行動や態度を変容させる方法を提起した。そして、この概念は建物や施設だけでなく、現代の監視社会やデジタル技術を通じた監視にも応用されている。
 「モダン・タイムス」でも監視カメラで見られていたり、作業場にいる仲間に怒られたりしていたが、まさに社会は18世紀以降の精神刑のように監獄化していると考えられる。

ネットや学校機関、社会による記号的な規定と監視

 実は今、もしかしたらこの監獄の考え方は誤読されているのではないかという批判もある。
 教育学の研究では、パノプティコン(監獄の設計構想)のアイディアが教室の空間に当てはめられ、教育の「場」の閉塞感を批判したと指摘されている。しかし、このアナロジーはフーコーの議論を正しく反映しているのか疑問視されている。教育者たちは、批判の意図からではなく、無意識のうちにこの関連を作り上げたのではないかという観点も提示されている。
(まだ私は勉強を始めた段階なので下手なことは書けないが、フーコーの 「監獄の誕生」はとても読むのが大変で、実際まだまだ理解しきれていないところが正直なところだ。)

自己規制と意思決定の重要性

 しかし、私たちはネットや学校機関、社会に従属することにより、何か記号的に規定されて監視され唯物論的に動かされているのだろう。私は女かもしれないが、そうでないかも知れない。日本人かもしてないが、そうでないかも知れない。この社会ではあくまで「女」で「日本人」に言語として規定されていて、悪いことをしないように常に社会から監視され、そのことを気にして生きているんだと思うとやっぱり自由とか尊厳とかを考えてしまう。

フーコーのこの話は社会学や権力の研究の理論的な枠組みを提示してくれていると思うし、現代社会における監視のメカニズムに対する理解を深めてくれた。この見解を現代社会に適用すると、デジタル監視や情報統制がますます強まる中で、個人の内面を見つめ、自己規制や意思決定の重要性がさらに増しているとわかる。私たちは社会の権力構造や監視の仕組みをより良く理解して、それを考慮し、現代社会において自己をどのように位置付けるか議論を深めると同時に、情報を適切に扱い自己決定を行うことが現代社会を生きる上での重要なスキルとなっているのだろう。

そのことは、まだまだ芸術が何かを表現し、作品を発表する意味にもなり得ないだろうか。
芸術とは、何かを表現するという行為が行われるのだが、その表現という言葉には常に「嘘」が含まれる。
現代アートは作品に、よりリアリティ、より現実味を持たせようするし、キュビズムもまたある真実を創造した。しかし、実際にはそもそも描かれたパイプが「嘘」であることを我々は知っている。
(誤解を生みたくないのだが、ここでは物質的な意味で、である。少女の絵があまりにリアルで息をしている様でも、その少女は成長しないことを知っているし、環境問題がテーマであり今でも環境は現実にあると言えるが、作品として表現された物自体は作為ある偽物である。映画も然り)
そのお約束の上で、私達は言葉を越えるような哲学からは発想できないような科学では証明できないような、問いを創造し新たな解を自ら発見するための表現が必要とされてるのではないだろうか。


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