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4歳の娘とシルバニアファミリーでごっこ遊びの一幕

「おいしゃさんごっこしようよパパ」

「いいよ~じゃあペンギンのお医者さんをパパはやろうかな」

「うん!あかちゃんびょういんね!」

どうやら赤ちゃん専用の病院らしい。
私は皿洗いをしながら、ぼんやりと小児科のことかな?と思っていると。

「こんにちは!ちょっとおかしいので、きました。」

「いらっしゃい。しまねこの赤ちゃん、どうしたのかな?」

「なんだかいつもはずかしくなっちゃうんです。ばいばいとか、こんにちはとかしたいのに。きゅうにはずかしくなっちゃう。できなくなっちゃう。」

「なるほど。それはしまねこの赤ちゃんが少しだけ大人になったのかもしれないね。」

「ふうん、そうなの?」

「そう、今まで平気でやっていたのに、相手がどう思うのかとか考えるようになったり、どうなるのかわからなくて怖いと思ったり。
今まではそういう事を何も考えたりしなかったことを、考えるようになった。
赤ちゃんが少しだけ成長したんだよ。だから大丈夫。病気じゃないよ。
おかしいわけじゃない」

「そっかあー!よかった!ありがとうございました!」

なるほど。きっとこれは娘自身の事に違いない。
ごっこ遊びを通じて、自分の疑問を夫に投げかけていたのだ。

最近、思い当たる出来事が度々あったのだ。
保育園でお迎えの際も、公園で同じクラスの友達と出くわした時も。

相手がまっすぐにこちらを見て「さようなら~」「ばいばい」と言ってくれているのに、なぜか娘は答えずニヤニヤとするだけだったり、まるで聞こえていないかのように私に話しかけてきたりする。
なんならそのまま反応もせず走り去ってゆく。明らかに聞こえているのに。

そのたびに、「ほら、バイバイって言ってくれてるでしょ。ちゃんとお返事しようね」と諭していた。

なんだかやれるはずなのにできない。自分の今の気持ちがよくわからない。
もしかしたら病気なのかもしれない。
自分の気持ちが今なんという状態なのか。よくある事なのか。
おかしい事なのか。今だけなのか。

娘にとってはこの世の大半がまだまだ初めての事。
当然言語化も難しい。
大人ですら自分のことでも分からない事はごまんとあるのだから。

親がそういう事を相談できる”びょういん”みたいな存在になってあげるのは勿論の事、「セカンドオピニオン」という存在、
「親以外にもそういうことを正しく答えてあげられる存在」
所謂「第三者」と結び付けてあげる事も重要な事だと改めて感じる。

実際今回の事は、そのたびに私が注意していたがゆえに娘が自分の感情を疑問に思いつつも、その思いを私に吐露できなかったように思える。

注意する際にどこか「またふざけて…」と思ってしまっている所が伝わっていたんだと思う。可哀想な事をしてしまった。
訊いても怒られるかもしれない、と思わせてしまっていたかもしれない。

こういう時、第三者という存在は重要になってくるが、子供にとって「相談できる第三者の大人」というのは非常に希少と思う。

今回はたまたま夫が当事者でなかったから第三者という立場になれたが、親であり家族である以上、日常の出来事の多くで当事者となる確率は非常に高い。
そんな中で上記のような存在を作るのは意外にも難しい。

特に未成年というのは、意識して広げないと直接的な大人との関わりは非常に限定的である。
親族、園や学校の先生、ならいごとの先生、ご近所の人、友達の親御さん。
大体がこの程度である。
そんな中で信用でき、ふとしたこと、或いは少し込み入ったことを相談できる大人となると本当に一握りいくかどうかなのではないか。

こどもにとって親というのは絶対的存在であり、ある程度の年齢までは世界そのものであると言える。

しかし、残念ながら親が全ての状況に於いて正しいとは言い切れない。

そんな時、相談できる第三者という存在、教えてくれる存在、正にセカンドオピニオン的な存在というのはとても重要なのではないか。

改めてそう思う出来事だった。

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