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【一本目:私と奴と浅草の怪しきこと】『いま、なんどきだい』【第二回】

 はじめましての方、ようこそいらっしゃいました。
 二度目以上お運びの方、本日もありがとうございます。
 虎徹書林ぷれぜんつ、木曜日のチョイと怖いお話――略称『虎徹書林のチョイ怖』をお届けします。

 今回の第六話、紙又は電子書籍に収録することが前提の短編小説の三本立て構成です。週に一度の連載で、完結まで五カ月ほどかかります(2024年7月ごろに完結予定)。一回分のボリュームは約5000文字ほどです。
 収録する書籍の出版予定は未定ですが、書籍化するにあたり加筆・修正がされます。また書籍化の規約上、noteでの公開が中止になることもありますのでご了承ください。
※無料公開中は虎徹書林作品のご紹介が含まれます。

<二>

 浅草演芸ホールでの奇妙な出来事の後、私は数日にわたってまんじりともせず、己が心身を持て余した果てに意味もない独り言を吐き出してはウンザリするという、非生産的活動を繰り返していた。
 端的に言えば、隣の席に座っていたあの不気味なババァに受けた衝撃を、忘れることも発散することも叶わず、どうにもやり過ごせないその腹いせとして、全ての怒りの矛先を自らに向けていたのである。

 演芸ホールの、たまたま座ったあの席が、あの日に限って何かろくでもない因縁に捉われていたとでもいうのだろうか?
 あのババァが正真正銘生きてる人間であったかどうかを疑う以前に、そもそも私ははっきりとした意識を保って落語を聞いていたのか?極めて浅い眠りの中で、やけに明瞭な夢を見ただけなのではないのか?時を経るごとにいかにもそれらしい可能性が幾つも出てき、それら全てがもっともらしくもあり怪しくもあった。

 ならば私は何時から、虚と実の境目を見失っていたのだろう。
 この問いにぶち当たるたび、問答はまた一からやり直しになるのである。

 そうやって考察の袋小路を彷徨っていると、まばたきの度にババァの横顔が視界の端にチラッ、チラッと見えるような気もし始めたのが、これまた厄介だった。そのしつこさ、あまりの胸糞悪さに舌打ちを繰り返しても、それを嘲笑うかのように彼女か彼か判別がつかぬ気配が濃くなっていく。
 そしてそれ以上になにが許せないかといえば、あの下品なババァがよりによって奴の声で私に説教なんぞを垂れた事である。よくよく思い出してみると、小鼻の造作や目尻の下がり方、片方の口角のみを上げる嫌味ったらしい笑い方など、どことなく、奴そのものだったような気もしてくるのだから質が悪い。
 だからといって、アレが奴の下手くそ極まりない女装の幻影だとも思えなかった。
 私の記憶の中で、ババァはババァとして、確かに隣の席に実在していた。

 そんな煩悶を抱えていた私は、とある休日、例によって行く当てを決めず、浅草界隈を散策していた。
 仲見世と伝法院通りが交差するそのど真ん中、ついにクサクサした気分が爆発し、私は盛大に叫んでしまった。
「あああああクソッたれが!」
 そばで立ち止まった子供がギョッとした顔で私を見上げ、母親と思しき女に見チャイケマセンと小声で咎められた。子供の表情から察したのだろう女は、即座に子供を抱き上げ、伝法院通りを演芸ホールの方角へと、小走りに逃げていった。
 ひとり肩を落とす私に向かって、何を思ったのか観光中の男が、
「イヤァ浅草だなあ」
 さも感心したように呟き、何の断りも無しに首から下げた一眼カメラのシャッターを一回だけ切った後、何事もなかったかのように立ち去っていく。
 どういう意味だ?と、一瞬だが狼狽えた。
 あれか?私が昼間っからベロベロに酔ってる陽気なオジサンに見えたとでも?
 そりゃあ藍染木綿の着た切りすずめ、体形も奴がいうところの『出汁を取り尽くした鶏ガラ』だが、こちとら血色の悪さに健康状態が比例していないのが自慢の、医者いらずな体だけが取り柄の健康優良オジサンだぞ。人を見た目で判断するのみならず、剰え……剰え……元気な酔っ払いが休日の昼日中に街中を闊歩することのみをもって浅草らしさを語るなどと!
――まったくだぜ、ふざけやがって。浅草はそんな単純じゃねえぞ。
 奴が憤慨するまでもなく、である。
 奴が愛した浅草という街は、笑いも涙も、悲しみも見栄も無念も慟哭も、全てが一つに煮込まれて複雑な表情を醸しだし、それだからいつもいつまでも面白く可愛らしく在るのだ。故に私も奴に付き合うのを口実に、ついつい入り浸り、今もうろついているのだというに。
 奴が居なくなっても、未だこうして浅草に繰り出す私は、断じて奴の居ない寂しさを埋めるために酩酊に逃げることはない……それだけは強く自負していた。数少ないとはいえ、私には他にも気の置けない友人は居るし、幸い自営の仕事もそこそこ順調で、顧客にも遣り甲斐にも恵まれている。
――の、わりには?毎日己に八つ当たり、御苦労が過ぎるだろうよ。いい加減手を打ったらどうなんだ?
 先ほどの無責任な観光カメラマンのような……私を突き放すように死んだ奴のような……のらりくらりと私の「言葉の拳」を受け流すような……そんな存在が私に必要だとでもいうのか?
 それこそ、余計なお世話というものではないか。
 何事も自らの思うようにいかぬが故の寂寥感は、奴が生きている間は常に背中合わせに在り、いわば人生の伴走者ともいうべきものだった。そのどうしようもなさを噛み締め、こめかみがずくずくと痛くなるたび、奴がふらりと誘いに現れて、私の肩に顎を軽く置きながら……ハテ、なんと言っていたのだったか?
 いや、そもそも。そんな時の奴は、どんな顔をしていたのだったか?
 普段、なんでも無い時の奴の女々しい作り笑いはいくらでも思い出せるのに、肝心の、私にとって鎮静剤の如き作用をもたらす、あの何か企んでいる時の奴の顔が、助六を意地汚く頬張るババァのそれに置き変わってしまってちっとも思い出せない。
 そのことに再びやるせなくなり、意気地を振り上げることも出来ぬまま、私は人通りの多い道を避けるようにして、浅草寺の裏手の方角へと歩いて行った。
 おそらくこの時は、自分が思うほどに奴の死を受け入れては居なかったのだろう。混乱とまでは行かずとも、私は、自分の身に起きていることをわかっていなかった。わかったとしても、それを頑なに認めようとはしなかったろう。
 わかってしまったが最後、本当に頭がどうかしてしまうのを……奴の死の影を追うことに、手段を選ばなくなってしまうだろうことを、どこかで予感していた。それゆえに、己を理解することを努めて拒んでいたような気がする。

 そういう日々に悪い意味で慣れてきた頃、とうとう心が悲鳴を上げた。心の不調は体に倦怠感という形で表れ、仕事で小さなミスが増えてきた。
 ある日私は、案件がそれほど立て込んでないのをいいことに午後を待たず作業場を片付けて、浅草方面へと出掛けることにした。平日の昼間、良く晴れた秋の日だけの贅沢を味わえば、このうえない気分転換になるだろうと思ったのだ。
 隅田川の両岸に整備された散策路を、駒形橋から待乳山に向かって歩いた。川風に煽られてつばがはためくハットを川への捧げものにしないよう、少々深めに被り直した時に脳天に鈍い痛みが走った。
 それが如何なるきっかけだったのか、私はふと、奴を一度だけ連れていってやった或る甘味屋の事を思い出した。
 その甘味屋の看板商品は、世間的にはみたらし団子とごま団子だったのだが、真の逸品は大将の機嫌と運が良ければガラスケースの上に値札を付けずに並べられるかんぴょう巻きだった。透明のパックの中に十二個に切り分けられたかんぴょうの細巻が背丈も均一に並んでいる様は、その切り口のつややかさと共に大将の職人仕事の確かさを物語る。少な目の米に巻かれたかんぴょうは、太すぎず細すぎず、柔らかい歯ざわりを残しながら、親の仇もかくやというほどに甘くしょっぱく煮つけられていて、それでいて醤油の新鮮な香しさが鮮烈で、私はそれが甚く気に入っていた。
 できることならば誰にも、奴にも教えたくない一品であったのだが、その店のごま団子の噂を聞きつけた奴が入院の数日前、景気づけにどうしても行きたいと案内をせがんだのである。そして、幸か不幸か、あのかんぴょう巻きがひとパック、私を待っていたのだった。
「ふぅぅん、こんな飯だか菓子だか分らんもの、良く食うな?」
 細巻きを一つ食った奴はごま団子も半分ほど食べた切り、草大福を粉にむせながらひたすらモチャモチャと行儀悪く食いながら、私にそう嫌味を言った。血色も良く、故に舌がよく回る奴を尻目に食うかんぴょう巻きは、殊更に旨く感じたものだったのだが。
「嗚呼、あのかんぴょう巻き。そういえば奴に食わして以来、とんとご無沙汰じゃないか」
 ふと口をついて出た。
 が、次の瞬間には、愕然とする事実を知るに至った。
 奴と連れ立って以来、あの甘味屋に行こうと思いつきもしなかったのだ。
 みたらし団子もごま団子もかんぴょう巻きに負けず劣らずうまい店である。何かにつけて通い、舌鼓を打っていたのに、今の今までその存在をすっかり忘れるなど……急に胸が高鳴り、川の流れを目でなぞりながら、今ここであのかんぴょう巻きを誰にも邪魔されずに食えたなら、さぞかし気分が晴れるだろう事を夢想したら、クフフと忍び笑いが込み上げてきて堪らなくなった。
 そういえば。奴が死んだというベンチはこの辺りに在ったのではないか。
 私なら、例の気の利かぬ女友達とやらと違って、奴の横でとび切り美味いもの、それもかんぴょう巻きをはじめとした、奴がその妙味に理解のおよばぬ食い物ばかりを、これ見よがしに美味そうに食い、奴を羨ましがらせて、時には一口くらい無理矢理にあの嫌味ばかり吐く口に押し込んで、あと幾ばくかは奴の生きる気力をこの世に繋ぐことができたかもしれぬのに。
 よりにもよって、なぜ、あんな――女などと一緒に。

 腹の底から、苦いものがせり上がってきて、私は足を止めた。
 川面に臨む鉄柵に両手を付き、ブーツの爪先を訳もなく、しかしそうせねばならぬという強迫じみた衝動に従って見つめ、浅く速い呼吸をなんとかして平時のリズムに戻すべく努めた。
 硬直する膝と膝の間を一陣の風が吹き抜け、一拍遅れてもう一段強い風が背中を打ち着物の袖をはためかせて、隅田川へと吹いた。
 広い川面に、流れを垂直に遮るような波が立ち、その上を、鷲っ鼻を自慢気に見せびらかす半透明の人影が、くるくると渦を描くように舞い飛んだかと思うと、川上から走ってきた遊覧船の寄せる白波にぶつかり、巻き込まれて、水泡の如く掻き消えた。

 その途端、頭の中の霞がパッと晴れた。
 それまでに起こった奇妙な出来事が全て私の夢想であり、悩むことすら時間の無駄であると考えるのが最善策なのではないか?と。

 これまでに頭の中で描いたあらゆる可能性を引きちぎった。あの世でほくそ笑む奴の思うつぼである、と定義する以前に「奴」はもう考える脳味噌を持たぬ死人なのだ。故に何も考えることなどできるはずもない……恐れるものはなにもないのだ。
 いったい、今の今まで、私は奴の死を何と捉えようとしていたのか?
 私は生きていて、奴はもう死んでいて、時の流れは二人を別った。
 それに白波の向こうに消えるほど脆弱な幻想に慄く女々しさは本来、奴の領分であったはず。
 そもそも、かんぴょう巻きは私の好物であり、奴はひとつ食べてみたいと気まぐれを起こしただけのこと。
 助六を行儀悪く、まずそうに食うやつなんて、奴の他にも世の中にはごまんといる。
 かんぴょう巻きを愚弄する者が全てが奴に似て見えてしまうなど、よっぽど神経が疲れているという以外に説明のつけようが無い。
 何と馬鹿げた……死という概念の、あっけらかんとした嫌がらせに面食らうあまり、私は気持ちが追いつかないどころか、自分自身の生き方を見失っていたのだ。奴ならば、奴だったらと、確かめようのない事で己を縛り、虚の中に身を沈めんとしていたのだ。

 ……そう、思い込むことで、堂々と逃げ果せると信じようとしていた。
 そんな子供騙しのような手にみすみす引っかかって望み通り自滅してやるほど、私はお人好しでも臆病でもない。と、浅はかにも勝ち誇っていた。
 それこそが『思うつぼ』だというに。

 そして、同時に。
 生きる私に勝利をもたらすべく、真の天啓が降りたと確信していた。
 奴の死から始まった、説明のつかない奇妙な出来事。今まで起きたこととこれから起ころうとしているそれら全てにおいて、私自らの手で、きちんと葬るべきなのだ、と。
 そのために、何をすべきか?私にできることは何なのか?
 答えは皮肉にも、私が斬り捨てると決めた夢想にあった。それはすなわち、奴が病床で食いたいと願い叶わなかった食い物を、私自身が食い、美味さを存分に五感で実感し、死した奴の影にそれを見せつけ、生きている私をおざなりにして逝ったことがどんなに大きな過ちであったかを思い知らせることである。

 ……とまあ、実にお粗末なことこの上ない結論で悦に入ったわけだが。
 己の中の執着と矛盾に気付かぬ有り様は、奇妙な堂々巡りが全て終わった後からすると、我がことながらいっそ可愛く見えてくるから不思議なものだ。

第三回へ続く


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