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【note創作大賞2022応募作品】待ち合わせはファインダーと眼球のあいだ【よろしくおねがいします】

カメラと眼球めだま

 私の親戚で『ちょっと変わった性格』の女性がいる。
 彼女とはお盆や年末年始のお休みに、祖父母の家で顔を合わせるだけの付き合いで、それ以外の交流は全くない。
 文字を覚え始めた頃に、年賀状を出したいから住所を教えて下さいと頼んだことがある。
 彼女はやんわりとした笑顔を作りつつ、目尻をピッと引き攣らせながら、一言。
「年賀状ってめんどくさいじゃない?」
 けんもほろろとは、まさにこのことである。
 年賀状の一件だけではない。一貫してそんな風な感じの女性だ。
 人をなるべく寄せ付けないように、我が道をのらりくらりと、不思議な力強さでもって進んでいく女性。
 そんな彼女を、私はとても面白い人だと思った。
 時折迷惑そうな顔をされても、構わずくっついて歩いた。
 親戚たちが口をそろえて、変な子は変な子同士寄り合うのねえなんて、嫌味を言うのもお構いなしだった。

 同じニオイがする――もしかしたら、彼女もそう思ったのかもしれない。

 「私ね、写真を撮るのが趣味なの」
 二回り以上年が離れた変人同士だいぶ打ち解け合った或る時、遠い異国で撮影したという写真を見せてくれた。
 誰にも内緒だからね……と、使い込まれた達磨ストーブの前で、こっそり。
 何枚も、何枚も。
 色鮮やかな衣装を纏ったおばあさんたちが満面の笑みで印画紙の中で踊っていた。
 「不思議なもんでね、写真を始めた時にはシャッターを押すのが楽しいからアレコレたくさん撮っちゃうんだけど、そのうち勝手に『テーマ』が決まってくるの。ほら、風景やら動物やらばっかりを撮ってナントカ写真家って呼ばれてる人、たくさんいるでしょ?」
 彼女が何についての話をしようとしているのか、よく分からなかった。
 「おばさんもナントカ写真家なの?」
 「うーん、私は……何なんだろう。気が付いたら旅に出て、こういうおばあさんばっかり撮ってるわねえ。わかるかしら?このおばあさんたちはね、御先祖さまとお話をしてるの」
 「え?盆踊りってこと?外国にも盆踊りってあるんだ!」
 「盆踊りとはちょっとちがうかなあ。彼女たちは御先祖さまをお迎えするために着飾って、御馳走を用意して歌って踊って、お話したいから現世に来てくださいってお祈りをすることを生業にしてる。ナリワイってわかる?あの世とこの世を繋いで、あの世の人をおもてなしして、その代わりにこの世の人のために力を貸してもらえるように頼むの」

 彼女は写真の束の中から、迷うことなく、とある一枚を選び取った。

 「おばあさんのここと……ここ、ホラここにも。わかる?」
 おばあさんの首から上を大写しにした写真のあちこちに、白や黄緑色、薄い青の埃のようなものが写り込んでいた。教えてもらわなければ簡単に見過ごしてしまうような大きさと質感だった。
 耳かきに付いている梵天をギュッと縮小したような、丸くて輪郭がぼんやりしていて。けれども、彼女が殊更指摘するほどの事かな?と思った。フィルムカメラで撮るとこういうゴミみたいなのが写り込んでしまうのは、私のような子供でも知っていた。
 けれど――彼女が指差す綿毛状のそれらは、一枚の写真の中に入り込むには数が多いような気がした。
 混乱し言葉を失った私に、彼女は薄く笑い声を載せながら言った。
 「これね、全部、御先祖さまなんだよ」
 心臓が跳ね上がった。御先祖さま?全部?御先祖さまって、何?
 聞きたいことが一気に湧き上がってきたのに、喉が、口が、まるで使い物にならない。
 「びっくりするでしょう?私もびっくりした。はじめてこの村に行った時にね、おばあさんの息子って人が『おもしろいものが撮れるかもしれないから沢山撮っていってよ』って、やけに大歓迎してくれたの。後からガイド料ぼったくられたり追い剥ぎされるんじゃないかって冷や冷やしたけど……結果オーライね。ほんとに『おもしろいもの』が、こうやって撮れちゃうし。写真を見せたら村の人たちと仲良くなれちゃうし。この村だけじゃないのよ?こういう写真を撮らせてくれたり、偶然撮れちゃったり。ガイドブックに載らないだけで、こういう場所がたくさんある。だから、お金が貯まるとすぐ出掛けちゃうの。カメラ持って」
 彼女は嗚呼早く旅に出たいなあ!と古い雨漏り染みの残った天井に、随分と大きな独り言を吐いた。

 結局、彼女がどんな『ナントカ写真家』なのかはわからず仕舞いだ。
 ここまで彼女との付き合いを現在進行形で書いてきたが――

 私が高校二年の秋、彼女は消息不明になった
 ふらりと旅に出たまま、帰ってこないのだ。
 田舎には彼女のお墓が有る。有るには有るが、骨どころか骨壺さえ入ってない。
 お盆の時期になると、昔を懐かしむ親戚の口から彼女の名前が出る。
 空っぽのお墓に何度も、何度も線香をあげ花を供えたけど……私には彼女の死はどうしても、受け容れることができない。
 戸籍上の死は彼女の計画の内で、実はこの世界の何処かで縁もゆかりもない『御先祖さま』の写真を撮っている――のだと思う。
 私の知る彼女という人は「そういう人」なのだ。
 信じるに足る証拠はなかったけど、私はそう信じている。

 私が写真に興味を持ち始めたのには、多分にそんな彼女の影響がある。
 カメラの仕組みやレンズの種類について教えを乞うと、人間の眼球の働きになぞらえて話を進める写真巧者は多い。
 彼女もまた、その一人だった……けれど。
 「カメラってね、私のもう一つの『眼』なの。この小さな機械は、世界をあるがままに見てる。綺麗なものも不快なものも、全部。だから、私が見たくないモノも、私の眼では捉えられないモノや人も、レンズとカメラは見てるのよ。私はカメラの力を借りて、私の眼が『見過ごしてる』モノを見たいのね」
 彼女が何を『見過ごして』いたのかは、未だに謎のままだ。
 ……なんとなく、想像は付くけれど。決めつけるのは彼女が一番嫌うことだから、謎は謎のままにしている。

 ファインダーを覗き込んでいて、ふと思うことがある。
 それは願いというよりも、祈りに近いかもしれない。
 私の肉眼で捉えられない、あるがままの世界を映すというのなら、皆がもう諦めてしまった彼女の姿をファインダーの中に見つけられるのではないか――と。
 彼女自身でなくてもいい。
 彼女を知る、異国のおばあさんであったり、その御先祖さまであってもいいのだ。
 『今』の彼女が、どこで、どうしているのか?

 いつすれ違うか、わからない。
 どこで逢えるのかの保証もない。
 だけど、もしかして、ひょっとすることもあるから……私は今日も、カメラと一緒に。



消極的盗聴と愚かな衝動

 モダンなデザインで人気のチェーン系カフェは、すっかり街の馴染みの「顔」になっていて、私もよく利用する。
 最初のうちは注文の仕方も席の取り方もわからなくて店員の手を煩わせてしまったりしたけれど、今では気に入りの一杯をメニューなしでオーダーできるほどになった。
 最近では電源も、店専用のWi-Fiも、なんならオンラインオーダーまで可能になったと聞けば、ノートパソコンとカメラを持ち込んでちょっとした仕事を済ませてしまうこともある。

 遠い異国の『御先祖さま』に驚いていた頃とは、ありとあらゆるものがだいぶ様変わりしたのだ。
 私のカメラもフィルムから、SDカードへと記録媒体が変わっている。
 ファインダーの下には大きな画像モニターがあって、印画紙に焼くまでのワクワクとした時間をすっ飛ばして、撮影したその場で写真の確認ができる。
 このモニターを見ながらの撮影もできるけれども、私はやっぱりファインダーを覗きながらの撮影が好きだ。

 もし、手の中でジッと世界を見つめるもう一つの『眼』が、私の認知外である「なにものか」を捉えたとしたら――私はその「なにものか」とできる限り密接で濃密な時間を共有したい。
 ファインダーと、私の眼球と、その僅かな隙間でもって相まみえたい。

 「ねえ、コレ知ってる?」

 ボーっとしていた私の鼓膜を、不意に隣の席からの声がはじいた。
 妙に下卑た感じの女声だったので思わず横目で確認すると、随分と幼い印象の、制服姿も瑞々しい少女だった。
 見たところ、その制服はカフェの近所にある共学の中高一貫校のもので、ネクタイの色から察するに高校の生徒と思われる。
 向かいには同じ制服を着た、これまたあどけなが色濃い少女と、額をこすり合わせんばかりにして、一台のスマホの画面に見入っている。
 ……人は見かけによらないのだ。
 見かけはまだまだ子供でも、巷の噂には敏感で、そろそろ他人の不幸の甘さにも目覚めているのだろう。
 彼女たちがクスクスと笑いながら見ているのは、おおかた人気アイドルか俳優のゴシップだろうと推測して、改めてパソコンに向かおうとしたときである。

 「この歩道橋と、ちょっと先にある橋のたもと、そこから道なりにある〇〇墓地、この三か所に共通するのが『女の幽霊が出る』って噂。実はぜーんぶ、同じ女なんだって」
 「え?待って待って、え、なんでわかるの?幽霊って、アンタ見分け付く?」
 「しらなーい!みんな白い服着て、髪長くて――」
 「「貞子みたいじゃーん!!」」

 ぎゃはははははは……と、二人はテーブルをバンバン叩きながら笑いに笑った。

 貞子というのは、恐らく本邦怪奇映画『リング』とそのシリーズに登場する、あの山村貞子のことだろう。
 確かに、あのスタイルで出てこられたのでは、全て同一人物であるかの確認は難しい。
 だが、彼女たちの会話には聞き逃せない引っかかりを覚えた。

 パソコンのモニタに視線を戻し、開いているファイルを保存した後、ネット検索に三つの単語を掛ける。
 『歩道橋、橋、○○墓地』
 
噂の歩道橋は、今いるカフェからほど近いところにある。
 そこから国道に沿って歩くと、なるほど各種都市伝説の出処になっている有名な橋、少し距離が有るが広大な敷地を誇る○○墓地に行きつく。
 心臓が一つ、大きく跳ね上がった。
 何かが、奥底から突き上げてくる感じがした。

 少女たちの興味は好きなクレープのフィリングに移ってしまい、女の幽霊の詳細については彼女たちの口からは聞けず仕舞いだった。
 仕方がないので、その噂について再度検索を掛けると……盗み聞いた話以上のデータは上がって来ない。同一人物であるという噂の出処はどこなのか?どんな風貌か?若いのか、熟女なのか?
 第一、貞子みたいってなんだ。幽霊はみんな白いワンピース着てますなんて法律はない。伸ばしっぱなしのロングヘアだという保証もない。
 赤いタートルネックの、リブ編のセーターを着ているかもしれない。
 黒いコーデュロイのパンツルックかもしれない。
 髪は生れつきの赤毛で、耳上でパツンと切りそろえたショートボブかもしれない。

 ――もしかして、ひょっとすることも、あるんじゃないか。
 私の脳裏に主のいない墓石に白々しく刻まれた名前が過る。

 いくら何でもそんな安直な怪談などあるものかと理性は激しく主張するのに、心臓は脳髄を直接叩かんとするかの如くである。
 馬鹿みたいに。賭けてみたい、と思った。
 いや、もっと純然に。
 見てみたかった。
 私もカメラを通して、ファインダー越しに、肉眼が見逃して「いるかもしれない」存在を。
 遠い異国と私が生まれ育ったこの国と、何の違いがあろうか。
 私にも。
 私にだって。
 私だから――【彼女】であると認識できるのではないか。

 根拠も、理屈も、全てごみクズだった。
 居ても立っても居られなかった。
 手早く荷物をまとめ、なるべく無表情を装い、私はカフェを後にして真っ直ぐ最初のチェックポイントである使用禁止の歩道橋へと向かった。



目的地がみえない旅のはじまり

その歩道橋で何があったのか?

写真はあくまでもイメージです。

 その歩道橋は、遠くから見てすぐに分かった。
 階段、道路を横切る橋部分、全てにまんべんなく風雨に晒された結果の鉄錆が浮き上がっていた。何故だか、一歩一歩近づくごとに、顎の付け根から酸っぱいものが湧いてくる。
 幽霊が出ようが出まいが、夜に一人でこの歩道橋のそばを歩くのは御免被りたいなと率直に思った。

 階段の上り口は、工事現場でよく見かける『安全第一』と書かれたバリケードが幾重にも太い鎖でもって固定され、がっちりと塞がれていた。
 何人たりとも渡らせぬ……強い意志を感じた。
 道路の反対側の階段に目をやると、なるほど、同じように封鎖されている。
(いやいや、どんなに頼まれても、このバリケードをこじ開けてまで歩道橋を渡ってみようとは思わないわ……)
 私はなんとも居た堪れない気分になった。
 改めて、バリケードの網目から覗いて観察する。
 鉄とコンクリートで作られた階段は、経年劣化によるひび割れや崩落が見て取れる。部材の継ぎ目部分から雑草が生えている箇所も有るし、公共建設物の知識に明るくない私にも市民が安全に使用できるものではないと分かる。
「なんで取り壊さないんだろう?」
 誰に言うでもなく、独り言ちた。
「不思議だろぅ?壊せないんだとさ」
 ヒイィィィ!と、私は声にならない悲鳴を上げて声のした方を見た。
 腰の曲がった老人が、いつの間にか私の左脇にひたり、と立っていた。

 おじいちゃんなのか?おばあちゃんなのか?こざっぱりと刈り上げた髪形と顔つきからは、駱駝色のカーディガンに紺色のスウェットという服装と相俟って、お年寄りであるということしかわからない。
「こんなとこに、こーんなもん置いといて。変なのが入り込んで怪我したり、突然崩れてクルマが事故を起こしたりしたら危ないだろう?わたしらもとっとと撤去しとくれって役所に口酸っぱく言ってんだけどねえ」
「あの……ここのご近所の方ですか?」
「ああ、そう。いやんなっちゃうねえ」
「えっと……役所からは、そのぉ……なんで取り壊せないのかって説明は――」
「壊そうとすると上手くいかないんだって」
 私の言葉尻に多少被せ気味にそう言うと、老人はヒヒヒと薄く笑った。
 ゴクリ……老人に聞かれないように、私は用心深く唾を飲んだ。そして、小さい頷きを何度も返しながら老人に話の続きを促す。
「この歩道橋ね、ちょっと前まで自由に立ち入りが出来たんだよ。アタシらは危ないから使わないけどね。なんでも幽霊が出るって噂?幽霊見たさにわざわざ遠くから足を運ぶのがさ、夜中に騒いで、町内会で問題になったのよ。それで『とっとと壊せー!』て話が盛り上がったんだけど……その時に、ね」
「で、出た、んですね。幽霊が」
「そう、真昼間にお役人が視察に来て、足首掴まれたって。それから解体用の重機がここにもうちょっとで着くって時に――ホラ、あそこ。あそこの路地をね、曲がって出てくる直前にキャリアーから滑り落ちて。怪我人は出なかったけど、歩道と角の家は地面に穴空いちゃって、そりゃ大変。解体どころじゃなくなった。そのうち、近所でもここで夜中に幽霊が歩道橋から飛び降りるのを見たとか、階段を何かが転げ落ちる音を聞いたとか言い出すのが出てきて。で、こうやって立ち入りだけはできないようにバリケードを拵えた後は、有耶無耶ってやつ」
 不謹慎と言われようが、なんと言われようが。私の胸の高鳴りは頂点に達しようとしていた。
「時に、あなたは、幽霊を目撃されたことは――」
「あるよー」
「ど!どんな、女性でした?」
「は?」
「は……とは」
「え、幽霊。女じゃないよ」
「はい?」
「ここに居るのはね、サラリーマン。きち―っとスーツを着てね、わりとがっちりした感じよ。出るのは橋の、真ん中あたりね。柵の上にサラリーマンが突っ立って、遠くの方……道なりに行くとどでかい墓地があるんだけど、そっちの方角を見てるんだ」

 女の幽霊が出る、という噂とは。一体何なのか?

「女の幽霊?そんな話は全く聞かないねえ。第一、この歩道橋でサラリーマンの幽霊が出るってのも不思議な話。事件も事故も、なーんにも無いんだから」

 そういうと、老人はアッハッハ!と豪快に笑った。
 私もつられて、ぶっはっは!と笑ってしまった。

 私は老人に話を聞かせてくれた礼を言い、記念に一枚写真を撮らせてもらえないかと頼んでみた。
 不思議ななにものかが写るかどうかは、この際関係なかった。
 ここはありふれた街角であり、朽ち果てる寸前の歩道橋の足元であり、老人はおばあちゃんかどうかも怪しいけれど、この出会いを大切に仕舞っておきたい気持ちになったのだ。
「いいよ、可愛く撮ってね」
 老人はバリケードを背に、ピースサインを顎に当てて笑顔を作った。
 午後に日差しに照らされた歩道橋を背景にした笑顔の老人という構図は、とても心霊スポットでの一枚とは思えない。消えゆく昭和の風景シリーズというか、個人的には味わいのある画面になった。

 カメラの画像モニターで手早く仕上がりをチェックした。
 その間、およそ10秒も掛かっていない。
「ありがとうございました!素敵な一枚、に……」
 目の前にいた老人は、既に、そこには居なかった。
 あたりを見回し、一番近い路地に小走りに入ってみたりもしたけれど、腰の曲がった小さな老人の姿は何処にもなかった。

 もう一度、モニターで、撮影したばかりの画像を呼び出す。

 満面の笑み。
 午後の太陽が創り出した、柔らかな光芒。
 歩道橋全体を覆う鉄錆が時間による粋な演出にも見えてくる。

 私は、確かに、撮りたい構図で撮りたい写真を撮った。
 この一枚で彼女おばさんの行方に一歩、近づけただろうか。


微笑は橋のたもとに咲かない

写真はあくまでもイメージです

 背筋を這い上る妙な興奮。
 カメラの重さと呼応するように震える、まるで自分のものではないような両手。
 これまでにも撮影しながらの散歩や旅行の経験を積んできたけれども、いずれの土地にもモチーフにも覚えたことのない心身の反応に戸惑いつつ、私は国道に沿って歩き始めた。
 東西を貫く片側二車線の道路に沿って、ただひたすら。西から東へ、真っ直ぐに。

 途中、さして長くもないトンネルを通り抜けた。
 薄っすらとではあるが、陽の光がトンネルの三分の一ほどまで差し込んでいることに加え、最近整備されたのだろうふんだんに配されたLEDライトが嫌味なまでに明るい。
 ふいに、便所の百ワットという言葉を思い出す。
 風通しも中々のもので、排ガスのにおいで噎せ返るような事も無く、ちょっと面食らうほどの清浄さを感じた。
 小綺麗も程度が過ぎると違和感に変じるもので、何とはなしに通り抜けた後を振り返ると、トンネルの出口からすぐのところに、あるものを見つけた。
 『○○寺はこちら。階段上ってスグ。厄除け、先祖供養等、御相談ください』
 でかでかと、太い筆文字調で書かれた案内板だった。それが打ち付けられていたのは、道路脇ののり面を活用したコンクリート製の階段である。
 鍵のついていない、開閉自由の金網扉の向こう側へ伸びるそれを、視線で伝っていくと無数の卒塔婆がにょきにょきと生えているさまが見て取れた。
 卒塔婆の林の隙間からは、大小の墓石の頭が見え隠れしており、その光景はトンネルの真上全体に拡がっているのであろうと容易に想像できた。つまり、私は知らず知らず墓下のトンネルを徒歩で潜ったことになる。
 暢気にもほどがある。違和感を覚えたのなら、その勘はもっと大事にした方が良い。そのように、小さく小さく反省したので……帰りは別の道を通って帰ろうと誓った。

 ぞっとしないトンネルを後にして、ニ十分も経たぬうちに、ネットの噂の二番目ポイントである橋のたもとに到着した。
 詳細のわからない女の幽霊が出るという噂の橋は、川幅も広く整備も行き届いていて、幽霊騒ぎの片鱗は感じられない。
 だが、夜に来たらどうだろう?日が暮れた後の辺りの様子を想像した途端、耳の後ろがぞわぞわした。
 脇を通る国道は昼夜を問わず車がビュンビュン走っているが、その頭上には高速道路が通り、昼間でも時間によっては歩道に影を落としている。先ほど通ってきた墓下のトンネルよりも、こちらの方が薄気味悪いという言葉がしっくりくる雰囲気だ。
 件の橋の両端はどちらも小ぶりの公園として整備されていた。見たところ、東西で植栽などのデザインが橋を基準とした線対称に配されているようだ。
 シンボルツリーとしてしだれ柳が一本ずつ、なんとも雰囲気たっぷりに植えられていた。
 街灯の類は西側の橋のたもとに一つきりだった。
 電球カバーが黄色く変色し、ところどころ煤けているから、点灯した時には如何ほどの範囲を照らすことができるのか少々心配になってくる。この心もとない灯りと共に、川風を孕んでしなる柳の枝葉を闇の中で見た時の艶めかしさはいかばかりだろうか……。

 これだけの舞台が整っているとなると、今度こそはひょっとするとひょっとするのかも?と、噂を信じてしまいたくなる。

 橋を渡り切り、東側の公園の中に入ってみた。
 西側の公園の様子に則すと街灯が設えられているはずの場所に、古びた石碑が建っていた。
 碑文に刻まれていたのは概ね以下のような内容だ。
 ・この川の端がその昔、男女の心中事件の舞台になってしまったこと。
 ・それ以来女の幽霊の目撃談が度々囁かれるようになったこと。
 ・哀れ、心中の犠牲となった女性の霊を慰めるため、供養塔と共にこの石碑が建ったこと。

 核心に迫ったという手応えと共に、新たな疑問が湧いた。
 供養塔とは?長年にわたって懇ろに供養されているのならば、幽霊は成仏して、夜な夜な柳の下に立つ必要は無いのではないか……首を傾げつつ辺りを探すと、石碑の足元、小さな石燈籠のようなそれが、石碑の影の中でひっそりと佇んでいるのを見つけた。

 石碑を読まなければ、この小さな公園の彩にと据えられた、ガーデニング用のオブジェと勘違いして見過ごしてしまうところだった。
 それほどに、小さく、素朴で、擬人化して喩えるなら引っ込み思案なお嬢さんといった印象を湛えていた。

 不躾を承知でよくよく見れば、かなりの年月をここで過ごしたと見える。
 台座はしっとりと苔生しており、管理されてる方々によって手厚く手入れがされているのだろう、雑草の類は無く水仙の花の清楚な美しさで慎ましく飾られていた。
 心中事件で犠牲になった女性は、水仙の花のように、こざっぱりとした中にも楚々とした美しさと強さを持った方だったのだろうか?とふと想像する。
 そして、碑文にさらりと書かれた史実の中から途中退場してしまった心中相手の男性の事を考えた。
 供養塔に祀られているのは、文脈からして女性だけ。男性の方はどうなったんだろう?幽霊の噂も、今のところは女性の話しか出ていないようだし、男性の霊は一体全体、何をしてるんだろう?

 兎も角も、次に向かう場所もあることだし、供養塔に手を合わせた。女性の冥福を祈るとともに、せっかくの御縁なので写真を一枚撮らせてくださいとお願いした。
 自分で言うのも気が引けるが、やけに神妙な気持ちでシャッターを切ろうとした、その時である。
 女性の霊の導きか、何なのか?
 ふと供養塔の台座が気になった。ファインダーを覗くのを止め、顔を台座に近づけていくと……辛うじて読むことができる、刻まれた文字に目が留まった。
 昭和40年代の年月日。
 とある女性の名前。
 それしか、刻まれて無い……。
 ということは、つまり?

 心中相手の男性はどうなったんだ?

 しかも、心中事件という字面で勝手に江戸時代ごろの事件であると想像したが、昭和しかも40年代となるとイメージの中の男女像がガラリと変わってくる。
 その時、ふと。
 脳裏にこだましたのは老人の声の「サラリーマンの幽霊」という一言だった。
 いや。いやいやいや。
 それとこれとは別口で考えるべきだろう、いくら何でも歩道橋とこの場所の噂が繋がっているなんて話が出来過ぎというものだ、漫画やアニメじゃあるまいし全てが壮大な絵図面の一部なんてことは――だが、しかし。
 現にカフェの女子高生たちも言っていたではないか。
共通するのが『女の幽霊が出る』って噂。実はぜーんぶ、同じ女なんだって」 
 実は……ぜーんぶ……。
 その部分だけが頭の中でリフレインしていた。

 気付けば、ずるずる……っと。
 私は後ずさるようにして供養塔と石碑から距離を取っていた。
 川と橋と石碑と供養塔、全てを一つの画面に入れて撮らねばならないような気がしていた。供養塔だけでは駄目だ、石碑と供養塔のみを切り取っても意味がない、この小さな公園の中の「この」空間を丸ごと捉えなければ、私の眼球が見落としているものをカメラもまた掴み損ねるに違いない。
 頭の中の混乱は続いていた。繋がっていたモノが引きちぎられ、繋ぎなおそうとしても失敗する。
 だから。根拠は、無い。しかし確信はあった。
 なるべく広い画角で構図を決めた。
 水仙の花がそよそよとした川風になびいて、思い思いに微笑んでいるように見え、こんな時でなければ大変に微笑ましい一枚になるだろうなと思いつつシャッターを切る。

「ありがとうーマジ助かる」
 (ッ!)

 ねっとりした濁声が不意に頭上から降ってきた。
 驚いて見上げると、細い道を隔てたところに雑居ビルが建っており、その非常階段で事務員風制服を着た女性が一人、煙草をふかしつつスマホで通話しているところだった。
 見たところ四十がらみで、酒豪で有名な女性芸人によく似た彼女は、私の事に気づく素振りも無く呵呵と笑っていた。
 あんなところからよくぞここまで、声が通ったものだ。
(びっくりさせないでよ。昼間でも心臓に悪いわ)
 舌打ちしたいのを堪えて、私はその女性から目をそらした。

 改めて、撮ったばかりの写真を確認した。
 青空と川の水面。古い石の佇まい。花と苔のグラデーション。ほのぼのとしつつも、人知れず時を刻む歴史遺産……。これといって、気になるものは写っていないように思われた。
 念のために、小さなモニターを目の高さまで持ってきて目の前の風景と見比べても、異常は見受けられない。写るはずのものが消えている、ということも無い。
 ホッと胸をなでおろしつつ、一つの仮説を立てた。
 心中事件の女性の魂は恐らく、水仙の香りと共に川面を伝って既に旅立った後ではないだろうか。
 もし未だそれらしい女性の影を見かけたのだとしても、それは夜の暗がりをものともせず現代を力強く生き抜く生身の女性であるような気がする。


黄昏時の四つ辻に立つ墓の主

 耳の奥に残る小さな話の欠片。
 煮物の湯気と草いきれと嵐の気配が入り混じる中で見た光景。
 そして、小さなモニターの中に切り取られた、何の変哲もない「今」という日常。
 それらが一本の糸で繋がりそうで、プツンと途切れる。もう一度繋ぎ止めようと試行錯誤を繰り返す。
 写真を撮り終えた後も、頭の中ではそんな思考実験の真似事が繰り返されていた。答えなど見つかりそうもないのに、何故だか止めることができなかった。

 いったい、どのくらいそうしていたのか?
 天空に有った太陽はいつの間にか、石碑の頭すれすれにまで落ちていた。空の青は一滴だけ万年筆のインクをたらしたように、くすんだ紫色を帯びてきている。
 この季節なら、西の空が橙色に染まるまでそう時間はかからない。
 私は広大な敷地面積を誇る墓地へと急ぐことにした。
 三か所の噂の場所の内、そこは防犯の都合上、鉄柵と強固な門で囲われている。開園時間も季節ごとに厳格に決められており、閉門時刻を一秒でも過ぎれば出入りができなくなる。なんとなれば、日が暮れた途端に肝試しに挑もうとする者たちがどこからともなくやってくるのだ。事件や事故の発端は大概彼等であったから、そのような決まりが作られ守られているわけだけど、その煽りをみすみす喰らって墓場で朝まで野宿という最悪の事態はなんとしても避けねばならない。
 今から早足で行ったところで、間に合うのかどうか。
 イチかバチかの賭けではあったが、私は勝ちに行くことにした。

 自他ともに認める方向音痴の私だが、国道に沿って歩くというルールさえ守れば、間違いなく墓地に辿り着く……それが私の勝算であった。
 スマホの地図アプリを立ち上げ、ショートカットルートを探すことも考えた。しかしそれをしなかったのは、ひとえに、一分一秒でも迷子になることを避けたかったからである。
 国道と高速道路がほぼ並行して走るこのエリアは、住宅街というよりも小さなオフィスが入ったビルや町工場がごちゃごちゃと立ち並んでいて、路地を一本入るとどこもかしこも袋小路になっている恐れがあった。
 それに――そろそろ退社してきた人たちが表の通りにも溢れ出す頃である。つまり、プライベートに復帰した人々と電波の取り合いになる可能性が出てくるわけだ。
 幹線道路沿いはただでさえ、お世辞にも電波状況がよろしいとは言えない。そこへ更に状況が悪くなる条件が重なり、GPS通信が途切れたりすればどうなるか?
 しかも、私はその人たちの帰宅の波に逆らうようにして墓地を目指すわけであり、道を尋ねようにも、尋ねるだけ無駄(というかはなはだ迷惑)になるという不利な立場なのだ。

 そういう数々の予想をしたうえのこと。
 背にした太陽がどんどん遠ざかっていくのを承知で、最も愚直な案に縋ったのである。

 あらゆる事物の輪郭の内側に、見る間に薄墨が流れ拡がるようだった。
 束の間の黄金が人の眼を欺く時間――黄昏時が迫っていた。

 そろそろ墓地に着くはずなんだけどなあと腕時計を見ると、到着予定時刻にほぼぴったりだというのに、墓地の入口を示す看板もそれらしい鉄柵も見えてこない。
 どこで、どう間違えたのか?間違えようもないのに。
 頭上で並行していた高速道路はとっくに方角を違えて、国道は一本道のように伸びていた。余計な曲がり角など、一つもなかった。
 不安は無かったが、ただただ不思議で納得できなかったから、スマホを操作して地図アプリを立ち上げた。
 現在地を示すピンは表示されるが、住所を示す数字や地名が、無い。つまり、私有地?ということは、既に墓地の敷地に入っているのか?
 それは無い。有り得なかった。
 自信たっぷりにそう断言できる理由は明白だった。
 私の視界には、墓石が一つも見当たらなかったからである。
 しかし、有ってもいいはずのものも無かった。民家も。ビルも。国道を走る車も、すれ違う人も、自転車も……。
 こんもりと繁った低木の列とシンボルツリーのような常緑樹、整備された歩道が私の足元に伸びている。ガードレールは?その向こうの車道は?

 私が居るのはどこだ?

 途端に両足が踏みしめるモノが、ぐにゃりと揺らいだ気がした。
 バランスを取るために、歩みの速度を下げた。
 意味も無く、歩数を数える。十七歩進んだとき、歩いている道に直行する道が表れた。

 いつの間にか、木々が輪郭を残して闇に染まっていた。実体と影の境目が分からなくなっていた。
 もはや朱と言っていい色の空に、もやもやと、醤油で煮〆たような雲が揺蕩う。下手くそな水彩画のようだったけれど、嗤う気にはなれなかった。
 アスファルトで固められた道だけが、鈍色に光って、地面から数センチほど浮かび上がっているように見えた。

 その四つ辻の際に立った時、ぴたりと足が動かなくなった。
 意思に反して、呼吸が震えていた。
 背中のリュックよりも、首から下げたカメラの方が重い。耳の奥がじんじんと痛い。聞こえている心臓の音が自分のものなのか、判然としなくなっていた。
 そういえば。
 カラスの鳴き声や動物の気配、風の音も、何も聞こえなくなっていたのはいつからだったか。
 ここは目指していた墓地ではない。やっと、そう認めるに至ったが、だからといって何ができる?認めたぶん、希望が減った。

 そのうち、視線を動かすことも怖くなってきた。
 馬鹿みたいに辻に突っ立って、前だけを見ていた。
 視界の端――左手方向の道に、ふと影が揺らめく。私と同じくらいの背丈の人間のように見えるが、人間とは明らかに何かが違う、奇妙なものがやって来ていた。
 表情は読み取ることができなかった。なぜなら、その相貌は闇に溶けたかのように真っ黒だったから。
 何処を見ているのか、目指しているのか。
 全く分からないそいつは、長い手足を持て余すように、ぎこちなく、ゆっくりと歩いてくる。二本の足、のようなものを引きずって。それとは別に交互に出すのは、首のすぐ下にある肩口から真っ直ぐに生えた二本の腕、のようなもの。仮に腕と呼称するしかないそれは、地面にまで届く長さがあり前に出す度、ペタリ、ペタリと裸足の足音に似た音を立てる。
 改めて。多少乱暴に、簡潔に説明すれば、だ。
 頭の位置は私のそれと同じ高さにある、絵心のない人間が描いた棒人間が、四つ足動物のように歩いていた。
 その奇妙なシルエットを持つものの全貌を把握したとき、喉の奥がヒュっと鳴った。
 同時に、
(あ、もう駄目なんだな)
 絶望した。

 すると――

「バカタレ、走れ。間に合うから」

 突然、頭のてっぺんを強か叩かれた。
 それまでまるで使い物にならなかった両足が弾けるように回転し始め、私は真っ直ぐに四つ辻を走り抜けた。
 左手からのらりくらりと歩いてくるあの存在はどんな様子だったのか。鼻先を掠めたろうか?息は臭かったっけか?
 わからない。

 後日、あの存在について調べてみようとしたのだが、どうにもならなかった。
 調べようにも、何を調べて良いのかわからなかったからだ。
 記憶があやふやになってきた、のではない。走り出してから暫くの記憶がキレイさっぱり無いのである。
 奇妙としか表現のしようのない存在が、私に害を為そうとしていたのか。それとも全く眼中になく、あのヘンテコな道で散歩を楽しんでいただけなのか。そんなことも勿論、わからない。

 私の脳味噌が記録を再開するのは、酸欠の危機を迎えた頃だ。
 呼吸が乱れに乱れ、新鮮な空気が取り込めないにも関わらず、体は走り続けた。本能が逃げることを、とにかく遠くまで行くことを望んだのだと思う。
 己の体力がここまで蓄えられていたことに驚きつつ、止まることを知らない腕と足に軽い苛立ちを感じ始めた頃、不意に視界に飛び込んできたのは赤に変わったばかりの歩行者用信号だった。
 交通ルール、守らねば!と一瞬焦った後、私はようやく全力疾走から解放された。
 呼吸を整える間、先ず最初に音が戻ってきた。エンジンの音、歩行者のさざめき。樹々の枝葉を揺らす風。
 次いで安心で安全な暮らしを連想させる街のにおいが喉の奥まで押し寄せてきた。肌を撫でる空気の動きも判ってくる頃には、五感で味わえるものの豊かさに感動し、文字通り打ち震えていた。
 そして、横断歩道の前でひとりゲタゲタと笑い、チクショウめ、ざまあみろ!と悪態をついた。
 完全に勝ち誇った態で後ろを振り向くと、そこは墓地に併設されている斎場の入り口だった。見るからに重たそうな鉄の門扉は固く閉ざされている。足元には歩道があるけれど、その幅は三メートルほど。
 私が走り抜けてきた一本道などどこにもなかった。

 私を叱咤した声と、引っ叩いた手。あれは誰だったのだろう。
 少なくとも墓地に出没するとされる女性の幽霊だろうとの推測は成り立たない。それはたぶん、いや、絶対に無い。
 手の方はさておき、あの声は……巻き舌で、野太いだみ声で。ヒキガエルみたいな声、という表現はここで使わなければ使い所がない。
 今思えば、昔々彼女おばさんと一緒にラジオで聞いた、落語家によく似ていたようにも思う。


テールランプの行きつく先

 どっぷりと日が暮れて、私もほとほと疲れ切っていた。
 墓地の周りは意外にも車通りが多く、ヘッドライトやテールランプが車道を照らすついでに歩道もてらしてくれるので、街灯がまばらな道でも不思議と安心だった。
 何も考えたくなかったので、鉄道唱歌の山手線内回りバージョンを歌いながら歩いた。

 時刻は帰宅ラッシュたけなわ、といったところだった。
 手近な地下鉄の駅の看板を見つけたはいいけれど、ホームへと続く階段はヌーの群れのような帰宅客の一団が埋め尽くしていた。あの中に混じって満員電車に揺られる気力は、振り絞れと言われてもただの一滴すら残っていない。
 ぎゅるる……と、腹の虫も「そりゃ無理だ」と鳴いた。
 とぼとぼと来た道を引き返すと、程なくして、草臥れた背広を着たサラリーマンとすれ違った。その風体に反し、彼はやけにご機嫌な調子で、赤地に白い文字で『ラーメン』と染め抜かれた暖簾の向こうに吸い込まれていった。
 その店の佇まいは、何の変哲もない街中華のそれである。
「うぃーす、大将!」
 何の迷いも無く、ガラスの引き戸を開け……常連客、ということか。
 会社帰りについつい寄ってしまいたくなる、そんな中毒性のある、隠れた名店なのだろうか。
 きゅるるるる……腹の虫もそろそろ限界だった。
 イチかバチか、私はその日二度目の賭けに出た。

 外観からの予想を裏切らず、店内も奇をてらった様子はなかった。客は先ほどのサラリーマンが一人。店の切り盛りは大将が一人でやっているようで、カウンター席のみ八席しかなかったが、それ故に衛生管理も行き届いている印象だった。
 赤いビニールが張られた、丸い座面の椅子。使い込まれたカウンター。鶏ガラで取ったスープの香り。全てがオーソドックスで、期待感が高まる。
「いらっしゃい、何にしましょ」
 私はメニューを見るまでも無く、醤油ラーメンと餃子を注文した。
 件のサラリーマンはカレーラーメンなるものと餃子を注文していた。
 なんじゃそりゃ……と壁に目をやると、黄色い短冊に『名物!カレーら~めん』とあり、空腹過ぎの己の迂闊さを恥じた。次にくることがあれば、絶対カレーら~めんにしよう。

 コンロと対角線を為す店の隅、天井付近に設えられた棚上のテレビでは、今まさに単発物のオカルト番組が始まったところだった。よりにもよって、三時間スペシャルである。
 サラリーマンが「大将も好きだねえ」というと「そりゃそうだ、うちはこういうのが好きな御客で売り上げ持ってんだ」と厨房から大将が返す。違いねえや、と相槌を打ったサラリーマンはチラリと私を見、そしてドアの向こう――ちょうど、あのだだっ広い墓地の方角に目をやった。
 テレビを見るふりをして、引き戸の方を見ると、なるほどのれんのスキマから墓地のものと思われる生垣と「○○墓地 入口こちら➡」と書かれた看板が見えた。
 どうやら、あの墓地で肝を冷やした者たちは、この店で一息つくのが暗黙のルールになっているらしい。

 とはいえ、大将は私に何も訊かない。世間話を振る事も無かった。
「ヘイ、おまちどうさん」
 出された醤油ラーメンは優し気な湯気を湛えていた。
 いただきますと口の中でつぶやき、レンゲでスープを一口すすった後、熱々の縮れ麵を手繰って一気に啜り上げた。
(ん?……あれ、あれ?)
 熱くて、しょっぱくて、スープのコクなんてこれっぽちも無かった。
 見掛け倒しかよと一瞬落胆したが、麺が喉の奥に滑り落ち醤油の香りが鼻を抜けていった瞬間、凄く旨いなあと思ってしまった。
 この一杯が旨いのではない。醤油ラーメンという食べものの、そもそもが持っている旨さが、普段は蓋をしている脳味噌の何処かに染み入ってきたのだ。
「生きてるんだなあ」
 思わず声に出して言ってしまった。
 腹の中がスープの温かさで満たされるのを実感したら、急に鼻水が出てきた。

(ねえ、おばさん。
 おばさんは、こういうラーメン食べたこと有る?どこかで食べてるかな。
 けっして旨くはないんだよ。たぶん、私の作るインスタントの袋麵のほうが、勝つよ。
 けどね、旨いんだ。旨くてしょうがないんだ。
 生きてるって驚きの連続で、腹も立つし悪足掻きもするけど、その分、腹が減るんだよね。腹が減って、何か食べて、何か知らないけど旨いなあって。
 私、たぶん、この先も何かの拍子におばさんを追っかけると思う。おばさんは捕まる気はないだろうけど、追っかけるよ。カメラと一緒に。それで腹が減ったら、また食べて。こんな旨いもん食ったことねーだろ!て負け惜しみを言うよ。
 だから、首洗って待ってなよ)

 鼻水と縮れ麺を同時に啜りながら、私はどこにどうしているともしれない彼女に頭の中で語りかけていた。
「どうした姉ちゃん、失恋か?」
 厨房から心配そうな顔を出した大将が言った。どうやら鼻水だけでなく、涙まで流していたらしい。
 私はそれをぬぐうことなく、首を横に振った。
「いえ、秋の花粉症なんです」
 嘘にもならない嘘を付いた。こんなぐじゅぐじゅの泣き顔では、ヨモギもブタクサもとんだ濡れ衣だと怒るだろう。
 そうか、と一言返した後、大将は再び私を放っておいてくれた。食べたいように、食べさせてくれた。
 私の嘘を嘘だと受け入れ、その上で放ってくれたのだろう。
 それでもって。
 おそらく、自分で振った私の失恋説が正しいと信じ、同情までしてしまったのだと思う。テレビ画面の中の再現VTRに見入るふりをして、首から下げたタオルで目頭を拭っていた。も、もらい泣きとか……優しすぎるにも程度ってのがあるだろ親爺、カレーら~めん絶対に食べにくるね。

 餃子を一つ頬張り、私もテレビの方に顔を向けた。
 一本目の再現ドラマが終わり、その舞台となった電話ボックスの実物が『生中継』の文字を引っ提げて映し出されている。
 昭和の歴史的建造物扱いされることも珍しくなくなった電話ボックスだが、未だ現役で活躍している場所も存在する。
 それが――
「こちらの電話ボックス、幽霊の目撃例も多くてですね。今のドラマにあったように、老婆の霊や子供の霊さらにはカメラを構えた幽霊などその証言は多岐にわたっていてですね――」
 体当たり系の芸風を売りにしているピン芸人が、汗をびっしょりかきながら、興奮気味に説明していた。
「幽霊ってさあ、電話ボックス好きだよなあ」
 サラリーマンがテレビにツッコミを入れると、
「どっちかっつーと幽霊の棲み処に電話ボックスを置きに行くんじゃねえのかねえ」
 と、大将が混ぜっ返す……。

 どうやら、次の目的地は決まったようだ。
 私は餃子を頬張りつつ、頭の中で旅費の算出と有給申請の段取りについて、策を巡らせ始めた。

おわり……?



※ この物語はフィクションです。実在の人物・場所・モノ・事件・団体等とは関係がありません。
※ 作中に挿入された写真はあらたまが撮影したものであり、演出上挿入されたものです。作中に登場する人物・事件・団体等とは関係ありません。

念のための注意書き


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 この作品はnote創作大賞2022( #創作大賞2022 )への応募作品として書き下ろしました。

 応募することをぎりぎりまで悩みましたが、書き始めたらとても楽しく書き進めることができ、改めて「物語を紡ぐ嬉しさ・難しさ」を実感いたしました。
 私はやっぱり、物語を、ちょっと不思議で怖い話を、書くことが大好きみたいです。
 このような機会を得られましたこと。
 ここまで辿り着くための数々の御縁。
 全てに深い感謝を申し上げます。
 最後になりましたが、一人でも多くの読者様に楽しんでいただけたら嬉しいです(^^♪

 あらたま

 

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