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少年少女の、反逆の物語。『小説 天気の子』読書感想

(A)はじめに:「君の名は。」の次回作ということ。

「天気の子」は、2019年に公開された新海誠監督によるアニメーション映画である。「君の名は。」公開から3年が経っているが、その偉業は記憶に新しく、多くの人がその公開を心待ちにしていたと思う。その結果、トップ10入りこそ果たさなかったものの、日本アニメーション映画としての存在感は示された。
そんな「天気の子」の小説版は、「君の名は。」小説版同様に並行して執筆が進められ、映画よりも先に完成したそうだ。

今回は、間髪を入れずに「天気の子」と「君の名は。」の小説版の読書感想をまとめることで、新海監督の直近の作品の魅力を考えてみたいと思う。

(B)あらすじ

東京へ向かう一人の青年。二年半前、2回目の東京には、大切なあの人へ会うために向かっている。青年は彼女に再開する前に、二年半前に自分たちが何を選び取り、その結果何が起きたのか。そして、彼女にどんな言葉を掛ければよいのかを考えるため、当時を回想する。

高校一年生の森嶋帆高は、出身の島から家出し、東京へ向かうフェリーへ乗っていた。甲板で激しい雨に襲われ、海に投げ出されそうになるところを、怪しげな大人である須賀圭介に助けられる。
東京では、高校一年生男子が身分を隠しながら職にありつくことは難しい。帆高は路頭に迷っていると、チンピラに絡まれてしまい、ごみ箱へけたぐりされ、そのごみの中から拳銃を拾う。偽物とわかりつつ、半ばお守りのようにそれを持ち歩き、雨露を凌ぐべく夜中のマックにいると、従業員である天野陽菜からハンバーガーを恵んでもらう。人の優しさに触れつつ、途方に暮れる帆高は、フェリーで助けてもらった須賀に頼ることにする。
須賀はしがない編集プロダクションを営んでおり、そこで衣食住を条件に手伝いを始めることになる。同じく手伝いとして転がり込んでいる女子大生の夏美と共に、全てが新しく、刺激的な毎日が始まる。

東京での生活も一月が経とうとする頃、新宿で依然絡まれたチンピラに、同じく以前マックで助けてくれた陽菜が絡まれている姿を目撃する。おせっかいは承知の上で、彼らに介入し、乱闘の末にお守りとして持っていた拳銃を発砲してしまう。拳銃は本物だったのだ。けが人はおらず、拳銃による負傷者は出ず、帆高と陽菜はその混乱に乗じて、何とかその場を逃げ出し、代々木の廃ビルへ逃げ込む。お互いの素性を知らず、尚且つ突然拳銃を発砲した帆高に対し、陽菜は嫌悪感を露わにする。帆高も自分のしてしまったことの恐怖がぶり返し、拳銃を床へ投げ捨てる。とはいえ、自分を助けてくれた帆高に対し、感謝もしている陽菜は、マックでの出来事から帆高を家出少年だと見抜き、せっかくの東京が雨続きは嫌だろうと、屋上で祈りを捧げる。陽菜が祈りを捧げると、その場だけ一時的に晴れ間がさす。帆高は、夏美と共に追っている都市伝説、「100%の晴れ女」が、目の前の陽菜の事であるとそこで知ることになる。

(C)感想:おとなと子供

本作のキーワードは、「おとなと子供」にあると思っている。主人公の帆高は高校一年生だが、兎にも角にも子供である。常識とか、社会のルールとか、そういった大人が守るべきものを悉く無視し、自分の目的の為に行動している。映画や小説を見た人の中でも、そんな帆高に嫌悪感を示した人は少なくない。一方の陽菜も、本来は庇護されるべき存在としての子どもであることには変わりない。弟の凪との二人暮らしも、周囲への迷惑の有無だけが問題でないことは、社会のルールに照らし合わせれば当然のことだといえる。帆高や陽菜は、本作の中で正に「子供」の役割を十分に担っている。
一方で、大人は誰なのかといえば、須賀や、物語後半で出てくる刑事達だろう。その中でも須賀は、加齢し、社会経験をし、守るべき常識や社会のルールを一定量理解した個人としての大人として機能している。刑事たちはといえば、その常識や社会のルールそのもの、つまり規範のメタファーとして存在している。
おとなと子供の構図を更に支えているのは、モラトリアムであることを強調されている夏美の存在だろう。おとなになりたくないと嘆く一方で、無意識に子供への壁にもなってしまっている存在。彼女の最後の行動は、大人になる前の、最後の子どもらしさだった。

おとな達は「正しい」ものとして、帆高や陽菜に徹底して立ちはだかる。一見して、社会の理から外れてしまった子供達を元に戻す正しいおとな達だが、子共達からしてみれば、それは理不尽に映る。帆高は不思議に思う。おとな達は正しいことから目を逸らし、自分たちの邪魔をしてくる。逃げるなと叱責するが、逃げているのはどちらなんだと。

帆高と陽菜は、最後にありったけの反逆をする。おとな達の突きつける「正しさ」を無視して、自分たちの為に願う。その結果が、世界の形を変えてしまうものだとしても。彼らの行動は本当に子どもだと思う。けど、彼らの行動を、誰がどのように責められるのだろうか。

最後に、一部の大人たちは、彼らに責任はないと帆高を諭す。そもそも穂高達のせいではないとか、そうだとしても、これは大きな問題ではないとか。彼らを気遣う大人の言葉である。しかし、帆高と陽菜に必要な言葉はそれらではなかった。

彼らは反逆することを選んだ。自分たちを優先した。
彼らにはその責任がある。その責任から逃げたいわけではない。
それでも彼らは、「大丈夫」なのだ。

(D)素敵な一節

「僕たちはなにを選んだのか。そして僕は、…」

「天気の子」は、選択と、その選択にどう向き合うかの物語であるということを感じる台詞。

「人の切なる願いを受け止め、空に届けることのできる特別な人間」

陽菜は、つまり空への代弁者だったのだと思う。では、代弁者は自分の願いを持っては、願ってはいけないのだろうか。

「僕は決めている。他のことなんてどうだっていい。神さまにだって僕は逆らう。…」

確かに反逆は悪かもしれない。でも、知らないふりをして従い続けるのが善なのか。

(E)まとめ:少年少女の、反逆の物語。

新海監督はあとがきの中で、「映画は学校の教科書ではない」と語っている。正しいことや事実を伝える媒体ではなく、むしろ教科書では語られない部分を語る媒体だとしている。
少年少女の反逆の物語に、読者のどんな感情が揺さぶられるのか。『君の名は。』のエンターテインメントとはまた異なる体験をすることが出来るだろう。


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