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譲れないものはあってもいいけど、許せないものはないほうがいい。


こんにちは、市川望美です。

この言葉は、先日開催されたNPO法人CRファクトリーの「コミュニティフォーラム2020」の中で私が口にしたもので、ちょいちょい使う表現です。


「絶対〇〇!」


20代の頃の私は、よく「絶対〇〇!」と言っていました。

「絶対イイ」「絶対ヤダ」「絶対そう」「絶対違う」「絶対〇〇!」
だって、私、そう思うんだもん!・・それこそが正義。
「ありえない」もよくセットになりました。

他の誰が何と言おうと、自分の感覚はこうだと言っている。だから「絶対」そうなんだ!という、「自分らしさ」や「個性」のようなものを振りかざして生きていられる20代はまだよかったけれど、年を重ね、結婚し、2人の子どもの母親となって、「他人とともに生きる」ことが、いままでよりも深さと重さをもって自分の人生に関わってきたときに、この「絶対!」縛りがちょっと不自由になってきました。

「だって、私、そう思うんだもん!」は、アラフィフになった今でも残っていて、そもそも私のエッセンシャルな資質でもあるのだと思いますが、「譲れないものはあってもいいけど、”ゆるせない!”と思う気持ちは違う方向に変換できるんじゃないか・・・」と思えたことで、その資質をもう少しだけ上手に「使いこなす」ことができるようになったのかもしれません。

「ゆるせない!」の変換


じゃあ私がなぜそう思うようになったのか。それは一言でいえば「違うことが前提」になってきたからだと思っています。

第1子を産むまでの30年間はある意味「自分の感覚に近い世界」かつ「自分が知っていることを他の人も知っている世界」で生きてきたけれど、出産で世界が一変した。

30年間紡いできた人間関係、生活リズム、ライフスタイルがガラッと変わって、「世の中にはこんなにも私が知らないことがあるんだなあ」とか、「今までなら絶対に友達にならなかった人たちと過ごして結構楽しいなあ」とか、「悪くない、むしろいい」ことを沢山経験できたことで、価値観がソフトに変容しました。

子育て界隈では「学生の時同じクラスだったとしても絶対仲良くならなかったよねー」みたいなことがよく語られましたが、ほんとその感覚です。

人とのつながりの種類(質や強さ、距離感 etc...)が広がったことで、いったん受け止めてみようと思えるようになった。自分の感覚や気持ちが伝わってないときにもすぐに反応せず、もうちょっと違う言い方で伝えてみようとか、背景を話してみようとか、逆に何か分からないか聞いてもいいのかな・・とか、考えられるようになった。

違うことが前提になると、受け取り方や見え方が変わっていくことを実感しました。理解に「余白」が生まれる。


理解の余白は、関係性の余白や想像力。


「違う」ことは本能的にコワイことかもしれないし、慣れ親しんだ感覚と違うものに出会うとイラっとしたりもやっとしたりする。でも、自分の理解を越えてよかった経験が増えるとキャパが広がるし、すごく親しいわけではないけれど、全然知らない誰かではない、よく知らないけれど何かを共有している人たちみたいな、「関係性に余白がある人たち」(Weak-tie 弱い紐帯)とのコミュニケーションを重ねると、「この感覚の裏に何かあるかも」と想像できるようになるんではないでしょうか。

全然知らない誰かではない、自分につながっている、関係のある人だと思えるから、違うと思ったけど聞いてみようと思える。少し離れて見てみよう、ちょっと、時間をおいて咀嚼してみよう、そうやって手間ひまかけてもいい、時間がかかってもいいと思える。

性急に「これはこうだな」と決めつけてみたり、「だからこうだな」とジャッジするような「反応」ではない、余白のある理解と関係性は、違いを課題と思わず、多様であることを問題としない。もちろん、温度差とか感覚の違いは一見問題であるけれど、違いそのものを否定したり解決するのではなく、違うことで起きる不都合や不利益を解決したり、解消することにまなざしが向くようになる。


自分に対しても許容範囲が広がった。


今までの私からすると「絶対!」だったことが、子どもを産んでできなくなったりやらなくなった。ここで、あの頃みたいにやりたい!昔に戻りたい!と思うと喪失感が勝るのかもしれないけど、「あ、やらなくても別にいいんだな」と思えると楽になる。

私の友人は、「あれ、子どもを産んだら髪の毛巻けない」と、マジで途方に暮れたそうですが、「でも別に今巻く必要なくね?」と思えたことでものすごくのびのびできた。

「生活を変えたくない」とか「生活水準落としたくない」とかいうよくわからない敵と戦うよりも、戸惑いも含めた新しい環境を異文化交流と思って楽しめるといい。(ほんと、子育ては留学とかギャップイヤーだと思えばいい。)

自分自身の中にある「絶対!」も絶対じゃないんだなあ。っていうか、絶対!じゃなくていいんだなあと思えるようになったことは、自分史におけるコペルニクス的転回です。

「私!今までの人生で!ある程度のことやってきたんで!自分で選べるんで!」と傲慢にも思っていたのだけど、子育てライフで、自分が主体的に望んだわけじゃなく、結果そうせざるを得なかったこと、つまり「選ばされた数々のこと」が、思ったよりイヤじゃなかったり、むしろものすごくよかったりした。子育てという営みのすごさは、そういう所にあると思う。

小さな話だけど、たとえばアンパンマン。出産するまでは「自分の生活にアンパンマンとか、無いわ」とか思っていたけど、申し訳ありませんでしたッ。アンパンマンのおかげでどれだけ子どもたちと楽しい時間を過ごせたことか。

たとえば、わらべうたとか手遊び。つい数か月前までバリバリ働いてたのに、なんで私「こーこはじーちゃん、にんどころー」(わらべうたです)とか言わされておでこツンツンしたりしてんだろ・・・何プレイだ・・・と、恥ずかしく思っていたのだけど、家帰ってふとやってみたりして、子どもキャッキャ喜んだりして、おお、わらべ歌、さすがスゴイ・・・と思ったり。

私、知らなかった。全然まだまだ変わりうる余地あった。それに気がついて、色々なことを明け渡せるようになった。もしかしてそれもアリなのかもと。


知らないを知るということ


「知る」ということについて、ある大学の先生から聞いた話でとても納得したのが、「知らないを知る」ことの価値。

そもそも私たちが「知っている」ことなんてほんの一部だし、かつ、「知っている」「知らない」の2つだけでもない。私たちは「知らないということさえ知らない」ことがあって、「知らないということを知る」ことや「知らなかったことを知る」ことはとても大事だと。

これを聞いて、私が子育てライフで体感したことはまさに「知らないということを知る」(知っていることなんて小さいんだなあ)ということと、「知らなかったことを知る」(そんな世界があるなんて!そんな考え方があるなんて!全然知らなかったなあ)の2つだったとものすごく納得しました。

「知らないを知る」ことは、コペルニクス的転回の入り口であり、寛容さへの扉なのかもしれない。そして、伸びしろ。


「違い」と「嫌い」を混同してはいけない


そして、さらにその考えを補完してくれたのがこの記事です。

私たちはつい自分と違うと恐れを抱いたり、「嫌い」と思ってしまうこともあるけれど、それは幼い未熟な考え方であるということ。

知らないということ、違うということへの関心を持てるようになったのは、30歳を過ぎて、子育てを通して多様な人たちと出会えたことや、「違う人たち」とともに暮らしていくのだと思えたからです。


譲れないものは、大事。


譲り合いなさい、ということを言っているのではなく、「ゆるせない!」と糾弾しないでもいいんじゃないかな。新しい発見につながるなあとおおらかに構えてもいいし、自分自身を楽にしてくれたりもする。

テクニカルに捉えるならば、本質的な課題へのアプローチだったり、新しい方法を考えていく推進力にすることもできるはず。

譲れないものはむしろ大事で、それがあるからこそ「違い」が生まれる。

譲れないもの、守りたいものを大切にすることと、違いを受け入れることは共存できる、と信じたい。

(どっちが正解か白黒つける、という意味ではなく)

そして、そうすることは、本当に譲れなくてゆるせないことに出会ったとき、正々堂々と向き合い、戦う力をくれると思う。

その時は、躊躇なく戦え。
守るべきものを守るために、知恵と愛を持って戦うのだ。

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